史記 / 秦始皇本紀
黔首修絜,人樂同則,嘉保太平。後敬奉法,常治無極,輿舟不傾。從臣誦烈,請刻此石,光垂休銘。還過吳,從江乘渡。并海上,北至瑯邪。方士徐巿等入海求神藥,數歲不得,費多,恐譴,乃詐曰:「蓬萊藥可得,然常為大鮫魚所苦,故不得至,願請善射與俱,見則以連弩射之。」始皇夢與海神戰,如人狀。問占夢,博士曰:「水神不可見,以大魚蛟龍為候。今上禱祠備謹,而有此惡神,當除去,而善神可致。」乃令入海者齎捕巨魚具,而自以連弩候大魚出射之。自瑯邪北至榮成山,弗見。至之罘,見巨魚,射殺一魚。遂并海西。至平原津而病。始皇惡言死,群臣莫敢言死事。上病益甚,乃為璽書賜公子扶蘇曰:「與喪會咸陽而葬。」書已封,在中車府令趙高行符璽事所,未授使者。七月丙寅,始皇崩於沙丘平臺。丞相斯為上崩在外,恐諸公子及天下有變,乃祕之,不發喪。棺載轀涼車中,故幸宦者參乘,所至上食。百官奏事如故,宦者輒從轀涼車中可其奏事。獨子胡亥、趙高及所幸宦者五六人知上死。趙高故嘗教胡亥書及獄律令法事,胡亥私幸之。
新字:黔首修絜,人楽同則,嘉保太平。後敬奉法,常治無極,輿舟不傾。従臣誦烈,請刻此石,光垂休銘。還過呉,従江乗渡。并海上,北至瑯邪。方士徐巿等入海求神薬,数歳不得,費多,恐譴,乃詐曰:「蓬萊薬可得,然常為大鮫魚所苦,故不得至,願請善射与倶,見則以連弩射之。」始皇夢与海神戦,如人状。問占夢,博士曰:「水神不可見,以大魚蛟竜為候。今上祷祠備謹,而有此悪神,当除去,而善神可致。」乃令入海者齎捕巨魚具,而自以連弩候大魚出射之。自瑯邪北至栄成山,弗見。至之罘,見巨魚,射殺一魚。遂并海西。至平原津而病。始皇悪言死,群臣莫敢言死事。上病益甚,乃為璽書賜公子扶蘇曰:「与喪会咸陽而葬。」書已封,在中車府令趙高行符璽事所,未授使者。七月丙寅,始皇崩於沙丘平台。丞相斯為上崩在外,恐諸公子及天下有変,乃秘之,不発喪。棺載轀涼車中,故幸宦者参乗,所至上食。百官奏事如故,宦者輒従轀涼車中可其奏事。独子胡亥、趙高及所幸宦者五六人知上死。趙高故嘗教胡亥書及獄律令法事,胡亥私幸之。
書き下し
黔首修絜にして、人同則を楽しみ、嘉して太平を保つ。後敬みて法を奉ぜば、常治極まり無く、輿舟傾かず。従臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、休銘を光垂す。還りて呉を過ぎ、江乗より渡る。海上に并ひ、北のかた瑯邪に至る。方士徐巿等海に入りて神薬を求むるも、数歳にして得ず、費多く、譴めらるるを恐れ、乃ち詐りて曰く、「蓬萊の薬得可し。然れども常に大鮫魚の苦しむる所と為る、故に至るを得ず。願はくは善く射る者を請ひて与に倶にし、見れば則ち連弩を以て之を射ん」と。始皇夢に海神と戦ふ、人の状の如し。占夢に問ふ。博士曰く、「水神は見る可からず、大魚蛟龍を以て候と為す。今上禱祠備はり謹めるに、此の悪神有り。当に除去すべし、而して善神致す可し」と。乃ち海に入る者をして巨魚を捕ふる具を齎さしめ、而して自ら連弩を以て大魚の出づるを候ひて之を射んとす。瑯邪より北して栄成山に至るも、見ず。之罘に至り、巨魚を見、一魚を射殺す。遂に海に并ひて西す。平原津に至りて病む。始皇死を言ふを悪む。群臣敢へて死の事を言ふ莫し。上の病益甚だし。乃ち璽書を為りて公子扶蘇に賜ひて曰く、「喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、中車府令趙高の符璽の事を行ふ所に在りて、未だ使者に授けず。七月丙寅、始皇沙丘の平台に崩ず。丞相斯上の外に崩じたるが為に、諸公子及び天下の変有らんことを恐れ、乃ち之を秘して、喪を発せず。棺は轀涼車の中に載せ、故の幸宦者参乗し、至る所上食す。百官奏事すること故の如く、宦者輒ち轀涼車の中より其の奏事を可とす。独り子胡亥・趙高及び幸する所の宦者五六人のみ上の死せるを知る。趙高故嘗て胡亥に書及び獄律令法の事を教ふ。胡亥私かに之を幸す。
現代語訳
民は身を修めて清らかで、人々は同じ規範に従うことを楽しみ、喜んで太平を保っている。後の世の者も慎んで法を奉じれば、変わらぬ治世は果てしなく続き、国という車も舟も傾くことはない。随行の臣下たちは功業をたたえ、この石に刻むことを願い出て、立派な銘文を輝かしく後世に伝える。(始皇帝は)引き返して呉を通り、江乗から長江を渡った。海岸に沿って北上し、瑯邪に至った。方士の徐巿らは海に入って神薬を探していたが、数年たっても得られず、費用ばかりかさんでいたので、責められることを恐れて偽って言った。「蓬萊の薬は手に入る。しかしいつも大きな鮫に邪魔されるので、たどり着けない。どうか弓の名手を一緒に遣わしてほしい。鮫が現れたら連発式の弩で射止めるから。」始皇帝は海の神と戦う夢を見た。海の神は人の姿をしていた。夢占いの官に尋ねると、博士は言った。「水の神は目に見えないもので、大魚や蛟竜がその姿の現れである。今、陛下は祈りや祭りを十分に慎んで行っているのに、このような悪い神が現れた。これを取り除けば、善い神を招くことができよう。」そこで海に入る者に大魚を捕らえる道具を持たせ、始皇帝自身も連発式の弩を持って大魚が出てくるのを待ち、射ようとした。瑯邪から北へ栄成山まで行ったが、大魚は現れなかった。之罘に至って大魚を見つけ、一匹を射殺した。そのまま海岸に沿って西へ向かった。平原津に至ったところで病気になった。始皇帝は死について語られるのを嫌ったので、群臣は誰も死後のことを口にしようとしなかった。皇帝の病はますます重くなった。そこで印を押した詔書を作り、公子の扶蘇に与えて言った。「咸陽で柩を迎えて葬儀を行え。」詔書はすでに封をしてあったが、中車府令の趙高が割符と印璽を管理する役所に置かれたまま、まだ使者に渡されていなかった。七月丙寅の日、始皇帝は沙丘の平台で崩じた。丞相の李斯は、皇帝が都の外で崩じたので、公子たちや天下に変事が起こることを恐れ、死を秘密にして喪を発表しなかった。遺体は温度を調節できる轀涼車の中に載せ、もとから寵愛されていた宦官が同乗し、行く先々で食事を差し上げた。百官が上奏するのも以前と同じようにし、宦官がそのつど轀涼車の中から上奏を裁可した。ただ子の胡亥と趙高、寵愛された宦官五、六人だけが皇帝の死を知っていた。趙高はかつて胡亥に書道や裁判・法律のことを教えたことがあり、胡亥はひそかに趙高を寵愛していた。
解説
関連する章句
-
史記 李斯列伝離宮別館を治め、天下に周遍す。明年、又巡狩し、外は四夷を攘ふ。斯皆力有り。斯の長男由は三川の守と為り、諸男は皆秦の公主を尚り、女は悉く秦の諸公子に嫁ぐ。三川の守李由告帰して咸陽に至る。李斯家に置酒す。百官の長皆前みて寿を為し、門廷の車騎千を以て数ふ。李斯喟然として歎じて曰く、「嗟乎、吾之を荀卿に聞く、曰く『物は大いに盛んなるを禁ず』と。夫れ斯は乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首なり。上其の駑下を知らず、遂に擢きて此に至る。当今人臣の位に臣の上に居る者無し。富貴極まれりと謂ふべし。物極まれば則ち衰ふ。吾未だ税駕する所を知らざるなり」と。始皇の三十七年十月、行きて出でて会稽に游び、海上に並ひて、北のかた琅邪に抵る。丞相斯・中車府令趙高の符璽令の事を兼ね行ふもの、皆従ふ。始皇に二十余子有り。長子扶蘇、数々直諫するを以て、上之をして兵を上郡に監せしめ、蒙恬将たり。少子胡亥愛せられ、従はんことを請ふ。上之を許す。余子従ふ莫し。其の年七月、始皇帝沙丘に至り、病甚だし。趙高をして書を為りて公子扶蘇に賜はしめて曰く、「兵を以て蒙恬に属し、喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、未だ使者に授けずして、始皇崩ず。書及び璽皆趙高の所に在り。独り子胡亥・丞相李斯・趙高及び幸宦者五六人のみ始皇の崩ぜしを知り、余の群臣は皆知る莫きなり。李斯以為へらく、上外に在りて崩じ、真の太子無し、故に之を秘すと。始皇を轀輬車の中に置き、百官事を奏し食を上ること故の如し。宦者輒ち轀輬車の中より諸々の奏事を可とす。趙高因りて扶蘇に賜ふ所の璽書を留め、而して公子胡亥に謂ひて曰く、「上崩じ、諸子を王に封ずるの詔無くして独り長子に書を賜ふ。長子至らば、即ち立ちて皇帝と為り、而して子は尺寸の地無し。之を為すこと奈何」と。胡亥曰く、「固より也。
-
史記 秦始皇本紀高乃ち公子胡亥・丞相斯と陰かに謀り、始皇の封ずる所の書の公子扶蘇に賜ふ者を破去し、而して更に詐りて丞相斯始皇の遺詔を沙丘に受けたりと為し、子胡亥を立てて太子と為す。更に書を為りて公子扶蘇・蒙恬に賜ひ、数ふるに罪を以てし、死を賜ふ。語は具に李斯伝の中に在り。行きて、遂に井陘より九原に抵る。会暑く、上の轀車臭し。乃ち従官に詔して車をして一石の鮑魚を載せしめ、以て其の臭ひを乱す。行きて直道より咸陽に至り、喪を発す。太子胡亥位を襲ひ、二世皇帝と為る。九月、始皇を酈山に葬る。始皇初めて位に即くや、酈山を穿治し、天下を并するに及び、天下の徒送り詣る者七十余万人、三泉を穿ち、銅を下して槨を致し、宮観・百官・奇器・珍怪を徙し臧して之を満たす。匠をして機弩矢を作らしめ、穿ちて近づく所有る者は輒ち之を射しむ。水銀を以て百川江河大海と為し、機もて相灌輸し、上は天文を具へ、下は地理を具ふ。人魚の膏を以て燭と為し、滅えざるを度ること之を久しくす。二世曰く、「先帝の後宮の子有るに非ざる者は、出だすは宜しからず」と。皆死に従はしむ、死する者甚だ衆し。葬既に已に下り、或いは言ふ、工匠機を為り、臧は皆之を知る、臧重ければ即ち泄れんと。大事畢はり、已に臧し、中羨を閉ぢ、外羨門を下し、尽く工匠の臧する者を閉ぢ、復た出づる者無し。草木を樹ゑて以て山に象る。年二十一。趙高郎中令と為り、任じて事を用ゐる。二世詔を下し、始皇の寝廟の犠牲及び山川百祀の礼を増す。群臣に令して始皇の廟を尊ぶことを議せしむ。群臣皆頓首して言ひて曰く、「古は天子七廟、諸侯五、大夫三、万世と雖も世軼毀せず。今始皇を極廟と為し、四海の内皆貢職を献じ、犠牲を増し、礼咸備はり、以て加ふる毋し。先王の廟或いは西雍に在り、或いは咸陽に在り。天子の儀は当に独り酌を奉じて始皇の廟を祠るべし。
-
『長短経』懼戒秦の始皇帝、会稽に遊び、沙丘に至りて、疾甚だし。始皇、趙高をして書を為りて公子扶蘇に賜わしむ。未だ使者に授けざるに、始皇崩ず。〔時に始皇に二十余子有り。長子扶蘇は、兵を上郡に監せしめ、蒙恬将たり。少子胡亥は愛せられ、従わんことを請い、上之を許す。余子は従う莫し。丞相李斯以為えらく、上外に崩じ、真の太子無しと。故に之を秘す。群臣知る莫し。〕
-
史記 封禅書秦の始皇天下を并するに至るに及び、海上に至れば、則ち方士之を言ふこと勝げて数ふ可からず。始皇自ら以為へらく海上に至りて及ばざらんことを恐ると、人をして乃ち童男女を齎して海に入りて之を求めしむ。船交々海中にあるも、皆風を以て解と為し、曰く未だ至る能はざるも、之を望見すと。其の明年、始皇復た海上に游び、瑯邪に至り、恒山を過ぎ、上党より帰る。後三年、碣石に游び、海に入る方士を考へ、上郡より帰る。後五年、始皇南のかた湘山に至り、遂に会稽に登り、海上に并ひ、海中の三神山の奇薬に遇はんことを冀ふ。得ず、還りて沙丘に至りて崩ず。二世元年、東のかた碣石を巡り、海に并ひて南し、泰山を歴て会稽に至り、皆之を礼祠し、而して始皇の立つる所の石書の旁に刻勒し、以て始皇の功徳を章らかにす。其の秋、諸侯秦に畔く。三年にして二世弑されて死す。始皇封禅の後十二歳にして秦亡ぶ。諸儒生、秦の詩書を焚き、文学を誅僇するを疾み、百姓は其の法を怨み、天下之に畔き、皆訛りて曰く、「始皇泰山に上り、暴風雨の撃つ所と為り、封禅するを得ず」と。此れ豈に所謂其の徳無くして事を用ふる者か。昔、三代の君は皆河・洛の間に在り、故に嵩高を中岳と為し、而して四岳各々其の方の如く、四瀆咸な山東に在り。秦の帝と称し、咸陽に都するに至りて、則ち五岳・四瀆皆并せて東方に在り。五帝より以て秦に至るまで、軼いに興り軼いに衰へ、名山大川或いは諸侯に在り、或いは天子に在り、其の礼の損益は世々殊にして、勝げて記す可からず。秦の天下を并するに及びて、祠官をして常に奉ずる所の天地・名山大川・鬼神を得て序づ可からしむ。是に於て殽より以東、名山五、大川の祠二。曰く太室、太室は嵩高なり。恒山、泰山、会稽、湘山。水は済と曰ひ、淮と曰ふ。春は脯酒を以て歳祠と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞禱して祠る。
-
史記 秦始皇本紀御府をして璧を視しむるに、乃ち二十八年に行きて江を渡りしときに沈めし所の璧なり。是に於て始皇之を卜するに、卦游徙に吉なるを得たり。北河・楡中に三万家を遷す。爵一級を拝す。三十七年十月癸丑、始皇出游す。左丞相斯従ひ、右丞相去疾守る。少子胡亥愛慕して従はんことを請ひ、上之を許す。十一月、行きて雲夢に至り、虞舜を九疑山に望祀す。江に浮かびて下り、籍柯を観、海渚を渡る。丹陽を過ぎ、銭唐に至る。浙江に臨むに、水波悪し。乃ち西のかた百二十里、狭中より渡る。会稽に上り、大禹を祭り、南海を望み、而して石を立てて秦の徳を刻頌す。其の文に曰く、皇帝の休烈、宇内を平一し、徳恵修長なり。三十有七年、親しく天下を巡り、周く遠方を覧る。遂に会稽に登り、習俗を宣省し、黔首斎荘す。群臣功を誦し、事跡を本原し、高明を追首す。秦の聖国に臨み、始めて刑名を定め、旧章を顕陳す。初めて法式を平らかにし、職任を審別し、以て恒常を立つ。六王専倍し、貪戻傲猛にして、衆を率ゐて自ら彊しとす。暴虐恣に行ひ、力を負みて驕り、数甲兵を動かす。陰かに間使を通じ、以て合従を事とし、行ひは辟方を為す。内は詐謀を飾り、外は来たりて辺を侵し、遂に禍殃を起こす。義威もて之を誅し、暴悖を殄熄し、乱賊滅亡す。聖徳広密にして、六合の中、沢を被ること疆り無し。皇帝宇を并せ、兼ねて万事を聴き、遠近畢く清し。群物を運理し、事実を考験し、各其の名を載す。貴賤并び通じ、善否前に陳なり、隠情有る靡し。飾省して義を宣べ、子有りて嫁するは、死に倍きて貞ならず。内外を防隔し、淫泆を禁止し、男女絜誠なり。夫の寄豭を為すは、之を殺すも罪無く、男は義程を秉る。妻の逃嫁を為すは、子母を得ず、咸廉清に化す。大いに治めて俗を濯ひ、天下風を承け、休経を蒙被す。皆度軌に遵ひ、和安敦勉にして、令に順はざる莫し。
-
史記 秦始皇本紀権勢を貪ること此の如きに至る。未だ為に僊薬を求む可からず」と。是に於て乃ち亡げ去る。始皇亡ぐるを聞き、乃ち大いに怒りて曰く、「吾前に天下の書の用に中らざる者を収めて尽く之を去る。悉く文学方術の士を召すこと甚だ衆く、以て太平を興さんと欲し、方士は練りて以て奇薬を求めんと欲す。今聞く、韓衆去りて報ぜず、徐巿等費すこと巨万を以て計ふるも、終に薬を得ず、徒だ姦利もて相告ぐること日に聞こゆと。盧生等は吾之を尊び賜ふこと甚だ厚し。今乃ち我を誹謗し、以て吾が不徳を重ぬ。諸生の咸陽に在る者、吾人をして廉問せしむるに、或いは訞言を為して以て黔首を乱す」と。是に於て御史をして悉く諸生を案問せしむ。諸生伝へて相告引し、乃ち自ら禁を犯す者四百六十余人を除き、皆之を咸陽に阬にし、天下をして之を知らしめ、以て後を懲らす。益謫を発して辺に徙す。始皇の長子扶蘇諫めて曰く、「天下初めて定まり、遠方の黔首未だ集まらず。諸生皆孔子を誦法す。今上皆法を重くして之を縄す。臣天下の安からざることを恐る。唯だ上之を察せよ」と。始皇怒り、扶蘇をして北のかた蒙恬を上郡に監せしむ。三十六年、熒惑心を守る。墜星有りて東郡に下り、地に至りて石と為る。黔首或いは其の石に刻して曰く「始皇帝死して地分かれん」と。始皇之を聞き、御史を遣はして逐問せしむるも、服する莫し。尽く石の旁らの居人を取りて之を誅し、因りて其の石を燔銷す。始皇楽しまず、博士をして僊真人の詩を為らしめ、及び行きて天下に游ぶ所、伝へて楽人に令して之を歌弦せしむ。秋、使者関東より夜華陰の平舒の道を過ぐ。人有りて璧を持ちて使者を遮りて曰く、「吾が為に滈池君に遺れ」と。因りて言ひて曰く、「今年祖龍死せん」と。使者其の故を問ふ。因りて忽ち見えず、其の璧を置きて去る。使者璧を奉じて具に以て聞す。始皇默然たること良久しくして、曰く、「山鬼は固より一歳の事を知るに過ぎざるなり」と。退きて言ひて曰く、「祖龍とは、人の先なり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る