春秋左氏伝 / 哀公二十五年 衆怒は犯し難し
而自大子疾之宮。譟以攻公。鄄子士請禦之。彌援其手曰。子則勇矣。將若君何。不見先君乎。君何所不逞欲。且君嘗在外矣。豈必不反。當今不可。眾怒難犯。休而易間也。乃出。將適蒲。彌曰。晉無信。不可。將適鄄。彌曰。齊晉爭我。不可。將適泠。彌曰。魯不足與。請適城鉏。以鉤越。越有君。乃適城鉏。彌曰。衛盜不可知也。請速。自我始。乃載寶以歸。公為支離之卒。因祝史揮以侵衛。衛人病之。懿子知之。見子之。請逐揮。文子曰。無罪。懿子曰。彼好專利而妄。夫見君之入也。將先道焉。若逐之。必出於南門。而適君所。夫越新得諸侯。將必請師焉。揮在朝。使吏遣諸其室。揮出。信弗內。五日。乃館諸外里。遂有寵。使如越請師。
新字:而自大子疾之宮。譟以攻公。鄄子士請禦之。弥援其手曰。子則勇矣。将若君何。不見先君乎。君何所不逞欲。且君嘗在外矣。豈必不反。当今不可。衆怒難犯。休而易間也。乃出。将適蒲。弥曰。晋無信。不可。将適鄄。弥曰。斉晋争我。不可。将適泠。弥曰。魯不足与。請適城鉏。以鉤越。越有君。乃適城鉏。弥曰。衛盗不可知也。請速。自我始。乃載宝以帰。公為支離之卒。因祝史揮以侵衛。衛人病之。懿子知之。見子之。請逐揮。文子曰。無罪。懿子曰。彼好専利而妄。夫見君之入也。将先道焉。若逐之。必出於南門。而適君所。夫越新得諸侯。将必請師焉。揮在朝。使吏遣諸其室。揮出。信弗内。五日。乃館諸外里。遂有寵。使如越請師。
書き下し
而して大子疾の宮より、譟ぎて以て公を攻む。鄄子士、之を禦がんと請ふ。彌、其の手を援きて曰く、「子は則ち勇なり。將た君を若何せん。先君を見ずや。君、何の所にか欲を逞しくせざらん。且つ君嘗て外に在り。豈に必ずしも反らざらんや。今に當りては可ならず。衆怒は犯し難し。休まば間し易きなり」と。乃ち出づ。將に蒲に適かんとす。彌曰く、「晉は信無し。可ならず」と。將に鄄に適かんとす。彌曰く、「齊・晉、我を爭ふ。可ならず」と。將に泠に適かんとす。彌曰く、「魯は與にするに足らず。請ふ、城鉏に適きて、以て越を鉤かん。越に君有り」と。乃ち城鉏に適く。彌曰く、「衛の盜、知る可からざるなり。請ふ、速かにせよ。我より始めん」と。乃ち寶を載せて以て歸る。公、支離の卒を為り、祝史揮に因りて以て衛を侵す。衛人之を病む。懿子、之を知り、子之に見えて、揮を逐はんと請ふ。文子曰く、「罪無し」と。懿子曰く、「彼、利を專らにするを好みて妄なり。夫れ君の入るを見ば、將に先づ道かんとす。若し之を逐はば、必ず南門より出でて、君の所に適かん。夫れ越は新たに諸侯を得たり。將に必ず師を請はん」と。揮、朝に在り。吏をして諸を其の室より遣らしむ。揮出づ。信するも内れず。五日、乃ち諸を外里に館す。遂に寵有り。越に如きて師を請はしむ。
現代語訳
そして太子疾の旧宮から、鬨の声をあげて公を攻めた。鄄子士(けんしし)が防戦したいと願い出た。拳弥はその手を引いて言った。「あなたは勇敢だ。だが君のことはどうするのか。先君(荘公)の最期を見なかったのか。君はどこへ行こうと思いのままにできる。それに君は以前にも国外におられたことがある。二度と戻れないと決まったわけではない。いまは戦ってはならない。大勢の怒りには逆らいがたい。怒りが収まれば、仲を裂くのもたやすい」。そこで公は都を出た。蒲へ行こうとすると、弥は「晋は信用できません。いけません」と言った。鄄へ行こうとすると、弥は「斉と晋が衛を奪い合っています。いけません」と言った。泠へ行こうとすると、弥は「魯は頼りになりません。城鉏に行って越の力を引き込みましょう。越には今、立派な君がおります」と言った。そこで城鉏に行った。弥は言った。「衛の盗賊がどこに潜んでいるか分かりません。どうか急いでください。私が先に行きます」。そして弥は公の宝物を車に積んで、そのまま衛に帰ってしまった。公は散り散りの兵を寄せ集め、祝史の揮(き)を手引きにして衛に侵入した。衛の人々はこれに苦しんだ。懿子(公文要)はそれを知って、子之(公孫弥牟、文子)に会い、揮を追放するよう求めた。文子は「揮には罪がない」と言った。懿子は言った。「あの男は利益を独り占めするのを好み、でたらめな人間だ。君が戻ってくるのを見れば、真っ先に道案内をするだろう。もし追放すれば、必ず南門から出て君のもとに行くでしょう。越は新たに諸侯を従えたばかりだ。揮はきっと越に援軍を請うだろう」。揮は朝廷にいた。文子は役人に命じて揮の家族を家から出させた。揮は都を出た。二晩とどまったが中に入れてもらえなかった。五日後、公のいる外里に宿を与えられ、そのまま公の寵愛を受けるようになった。公は揮を越に遣わして援軍を求めさせた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公十六年 白公の乱秋七月、子西・子期を朝に殺して、惠王を劫かす。子西、袂を以て面を掩ひて死す。子期曰く、「昔者吾、力を以て君に事ふ。以て終へざる可からず」と。豫章を抉きて以て人を殺し、而る後に死す。石乞曰く、「庫を焚き王を弒せん。然らずんば濟らず」と。白公曰く、「不可なり。王を殺すは不祥なり。庫を焚かば聚無し。將た何を以て守らんや」と。乞曰く、「楚國を有ちて其の民を治め、敬を以て神に事へば、以て祥を得可し。且つ聚有らん。何ぞ從はざるを患へん」と。葉公、蔡に在り。方城の外、皆曰く、「以て入る可し」と。子高曰く、「吾之を聞く、險を以て幸を徼むる者は、其の求むること饜く無し、と。偏重なれば必ず離れん」と。其の齊の管脩を殺すを聞きて、而る後に入る。白公、子閭を以て王と為さんと欲す。子閭可かず。遂に劫かすに兵を以てす。子閭曰く、「王孫若し楚國を安靖し、王室を匡正して、而る後に焉を庇はば、啟の願なり。敢へて聽從せざらんや。若し將に利を專らにして、以て王室を傾け、楚國を顧みざらんとせば、死有るとも能はず」と。
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『春秋左氏伝』哀公二十六年 縦にして其の罪を盈たしめよ二十六年夏五月、叔孫舒、師を帥ゐて越の皋如・后庸、宋の樂茷に會し、衛侯を納れんとす。文子、之を納れんと欲す。懿子曰く、「君は愎にして虐なり。少しく之を待て。必ず民に毒せん。乃ち子に睦まん」と。師、外州を侵し、大いに獲。出でて之を禦ぎ、大いに敗る。褚師定子の墓を掘り、之を平莊の上に焚く。文子、王孫齊をして皋如に私せしめて曰く、「子、將に大いに衛を滅ぼさんとするか。抑も君を納るるのみか」と。皋如曰く、「寡君の命は他無し。衛君を納るるのみ」と。文子、衆を致して焉に問ひて曰く、「君、蠻夷を以て國を伐つ。國幾ど亡びんとす。請ふ、之を納れん」と。衆曰く、「納るること勿かれ」と。曰く、「彌牟亡びて益有らば、請ふ、北門より出でん」と。衆曰く、「出づること勿かれ」と。重く越人に賂し、申ねて開き陴を守りて公を納る。公、敢へて入らず。師還る。悼公を立つ。南氏之に相たり。城鉏を以て越人に與ふ。公曰く、「期則ち此を為す」と。苟も夫人に怨み有る者をして之に報いしむ。司徒期、越に聘す。公、攻めて其の幣を奪ふ。期、王に告ぐ。王、之を取らしむ。期、衆を以て之を取る。公怒りて、期の甥の大子為る者を殺す。遂に越に卒す。宋の景公、子無し。公孫周の子得と啟とを取りて、諸を公宮に畜ふ。未だ立つること有らず。是に於て皇緩は右師為り、皇非我は大司馬為り、皇懷は司徒為り、靈不緩は左師為り、樂茷は司城為り、樂朱鉏は大司寇為り。六卿三族、降りて政を聽き、大尹に因りて以て達す。大尹常に告げずして、其の欲を以て、君命と稱して以て令す。國人之を惡む。司城、大尹を去らんと欲す。左師曰く、「之を縱にして、其の罪を盈たしめよ。重くして基無し。能く敝るること無からんや」と。
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呂氏春秋・首時⑤飢馬厩に盈ちて嗼然たるは、未だ芻を見ざればなり。飢狗窖に盈ちて嗼然たるは、未だ骨を見ざればなり。骨と芻とを見れば、動くこと禁ず可からず。亂世の民嗼然たるは、未だ賢者を見ざればなり。賢人を見れば則ち往くこと止む可からず。往くとは其の形に非ず、心を之れ謂うか。齊は東帝を以て天下に困しみ、而して魯は徐州を取れり。邯鄲は壽陵を以て萬民に困しみて、而して衛は繭氏を取れり。魯・衛の細を以て、皆志を大國に得たるは、其の時に遇えばなり。故に賢主秀士の黔首を憂えんと欲する者は、亂世之に當たれり。天は再び與えず、時は久しく留まらず。能は兩つながら工ならず、事之に當たるに在り。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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『春秋左氏伝』哀公十六年 孔悝の出奔六月、衛侯、孔悝に平陽に酒を飲ましめ、重く之に酬ゆ。大夫皆納るる有り。醉はしめて之を送り、夜半にして之を遣る。伯姬を平陽に載せて行く。西門に及び、貳車をして祏を西圃に反さしむ。子伯季子、初め孔氏の臣たり、新たに公に登る。之を追はんと請ふ。祏を載する者に遇ひ、殺して其の車に乘る。許公為、祏を反す。之に遇ひて曰く、「不仁の人と爭はば、明らかに勝たざる無し」と。必ず先づ射しむ。射ること三發、皆許為に遠し。許為、之を射て殪す。或ひと其の車を以て從ひ、祏を橐中に得たり。孔悝、出でて宋に奔る。楚の大子建の讒に遇ふや、城父より宋に奔る。又華氏の亂を鄭に辟く。鄭人甚だ之を善くす。又晉に適き、晉人と鄭を襲はんことを謀り、乃ち復らんことを求む。鄭人之を復すること初めの如し。晉人、諜を子木に使はし、行を請ひて期す。子木、其の私邑に暴虐なり。
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史記 陳渉世家秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
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