史記 / 陳渉世家
秦嘉不受命,嘉自立為大司馬,惡屬武平君。告軍吏曰:「武平君年少,不知兵事,勿聽!」因矯以王命殺武平君畔。章邯已破伍徐,擊陳,柱國房君死。章邯又進兵擊陳西張賀軍。陳王出監戰,軍破,張賀死。臘月,陳王之汝陰,還至下城父,其御莊賈殺以降秦。陳勝葬碭,謚曰隱王。陳王故涓人將軍呂臣為倉頭軍,起新陽,攻陳下之,殺莊賈,復以陳為楚。初,陳王至陳,令銍人宋留將兵定南陽,入武關。留已徇南陽,聞陳王死,南陽復為秦。宋留不能入武關,乃東至新蔡,遇秦軍,宋留以軍降秦。秦傳留至咸陽,車裂留以徇。秦嘉等聞陳王軍破出走,乃立景駒為楚王,引兵之方與,欲擊秦軍定陶下。使公孫慶使齊王,欲與并力俱進。齊王曰:「聞陳王戰敗,不知其死生,楚安得不請而立王!」公孫慶曰:「齊不請楚而立王,楚何故請齊而立王!且楚首事,當令於天下。」田儋誅殺公孫慶。秦左右校復攻陳,下之。呂將軍走,收兵復聚。鄱盜當陽君黥布之兵相收,復擊秦左右校,破之青波,復以陳為楚。會項梁立懷王孫心為楚王。陳勝王凡六月。已為王,王陳。其故人嘗與庸耕者聞之,之陳,扣宮門曰:「吾欲見涉。」宮門令欲縛之。自辯數,乃置,不肯為通。
新字:秦嘉不受命,嘉自立為大司馬,悪属武平君。告軍吏曰:「武平君年少,不知兵事,勿聴!」因矯以王命殺武平君畔。章邯已破伍徐,撃陳,柱国房君死。章邯又進兵撃陳西張賀軍。陳王出監戦,軍破,張賀死。臘月,陳王之汝陰,還至下城父,其御荘賈殺以降秦。陳勝葬碭,謚曰隠王。陳王故涓人将軍呂臣為倉頭軍,起新陽,攻陳下之,殺荘賈,復以陳為楚。初,陳王至陳,令銍人宋留将兵定南陽,入武関。留已徇南陽,聞陳王死,南陽復為秦。宋留不能入武関,乃東至新蔡,遇秦軍,宋留以軍降秦。秦伝留至咸陽,車裂留以徇。秦嘉等聞陳王軍破出走,乃立景駒為楚王,引兵之方与,欲撃秦軍定陶下。使公孫慶使斉王,欲与并力倶進。斉王曰:「聞陳王戦敗,不知其死生,楚安得不請而立王!」公孫慶曰:「斉不請楚而立王,楚何故請斉而立王!且楚首事,当令於天下。」田儋誅殺公孫慶。秦左右校復攻陳,下之。呂将軍走,収兵復聚。鄱盗当陽君黥布之兵相収,復撃秦左右校,破之青波,復以陳為楚。会項梁立懐王孫心為楚王。陳勝王凡六月。已為王,王陳。其故人嘗与庸耕者聞之,之陳,扣宮門曰:「吾欲見渉。」宮門令欲縛之。自弁数,乃置,不肯為通。
書き下し
秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
現代語訳
秦嘉は命令を受け入れず、自ら立って大司馬となり、武平君の配下に入るのを嫌った。そして軍吏に告げた。「武平君は年若く、兵事を知らない。命令を聞くな」。そこで王命を偽って武平君畔を殺した。章邯は伍徐を破ると、陳を攻撃し、上柱国の房君(蔡賜)が死んだ。章邯はさらに兵を進めて陳の西にいた張賀の軍を攻撃した。陳王は出陣して戦いを監督したが、軍は破れ、張賀は死んだ。十二月、陳王は汝陰へ行き、引き返して下城父(かじょうほ)に至ったところで、御者の荘賈(そうか)に殺された。荘賈は秦に降った。陳勝は碭(とう)に葬られ、隠王と諡(おくりな)された。陳王の昔の側近の涓人(けんじん、宮中の清掃係)で将軍の呂臣は、青い頭巾を目印にした倉頭軍を組織して新陽で挙兵し、陳を攻め落として荘賈を殺し、再び陳を楚のものとした。これより先、陳王が陳に入ったとき、銍の人宋留に兵を率いさせて南陽を平定し、武関に入らせようとした。宋留は南陽を攻略したが、陳王の死を聞くと、南陽は再び秦についた。宋留は武関に入ることができず、東へ向かって新蔡に至り、秦軍に遭遇して、軍ごと秦に降った。秦は宋留を咸陽まで護送し、車裂きの刑にして見せしめとした。秦嘉らは陳王の軍が破れて逃げたと聞くと、景駒(けいく)を立てて楚王とし、兵を率いて方与(ほうよ)へ行き、定陶のもとで秦軍を攻撃しようとした。公孫慶を斉王のもとへ使者として遣わし、力を合わせてともに進もうとした。斉王は言った。「陳王が戦いに敗れて生死も分からないと聞く。楚はどうして(斉に)断りもなく王を立てたのか」。公孫慶は言った。「斉は楚に断りもなく王を立てた。楚がどうして斉に断って王を立てる必要があろう。それに楚は最初に事を起こした国だ。天下に号令すべき立場にある」。田儋は公孫慶を誅殺した。秦の左右の校尉が再び陳を攻めて落とした。呂将軍は逃げ、兵を集めてまた勢力を立て直した。鄱(は)の盗賊である当陽君黥布(げいふ)の兵と合流し、再び秦の左右の校尉を攻撃して青波で破り、再び陳を楚のものとした。ちょうどそのころ、項梁が懐王の孫の心を立てて楚王とした。陳勝が王であったのは、わずか六か月であった。王となって陳に都していたとき、昔一緒に雇われて耕していた男がそれを聞き、陳へ行って宮殿の門をたたき、「渉に会いたい」と言った。宮門の役人は縛り上げようとしたが、男が何度も弁明したので放免した。しかし取り次ごうとはしなかった。
解説
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史記 陳渉世家尉剣挺く、広起ちて、奪ひて尉を殺す。陳勝之を佐け、并せて両尉を殺す。徒属を召し令して曰く、「公等雨に遇ひ、皆已に期を失ふ、期を失へば当に斬らるべし。藉弟令ひ斬らるること毋きも、戍りて死する者は固より十に六七なり。且つ壮士は死せずんば即ち已む、死せば即ち大名を挙げんのみ、王侯将相寧んぞ種有らんや」と。徒属皆曰く、「敬んで命を受けん」と。乃ち詐りて公子扶蘇・項燕と称す、民の欲に従ふなり。右を袒ぎ、大楚と称す。壇を為りて盟ひ、祭るに尉の首を以てす。陳勝自ら立ちて将軍と為り、呉広は都尉と為る。大沢郷を攻め、収めて蘄を攻む。蘄下り、乃ち符離の人葛嬰をして兵を将ゐて蘄より以東を徇へしむ。銍・酇・苦・柘・譙を攻めて皆之を下す。行くゆく兵を収む。陳に至る比、車六七百乗、騎千余、卒数万人。陳を攻む、陳の守令皆在らず、独り守丞と譙門の中に戦ふ。勝たず、守丞死す、乃ち入りて陳に拠る。数日にして、号令して三老・豪傑を召し与に皆来たりて事を会計せしむ。三老・豪傑皆曰く、「将軍身は堅を被り鋭を執り、無道を伐ち、暴秦を誅し、復た楚国の社稷を立つ、功宜しく王と為るべし」と。陳渉乃ち立ちて王と為り、号して張楚と為す。此の時に当たり、諸郡県の秦吏に苦しむ者、皆其の長吏を刑し、之を殺して以て陳渉に応ず。乃ち呉叔を以て仮王と為し、諸将を監して以て西のかた滎陽を撃たしむ。陳の人武臣・張耳・陳余をして趙の地を徇へしめ、汝陰の人鄧宗をして九江郡を徇へしむ。此の時に当たり、楚兵数千人にして聚を為す者、勝げて数ふべからず。葛嬰東城に至り、襄彊を立てて楚王と為す。嬰後に陳王の已に立つを聞き、因りて襄彊を殺し、還りて報ず。陳に至る、陳王葛嬰を誅殺す。陳王、魏の人周市をして北のかた魏の地を徇へしむ。呉広滎陽を囲む。李由三川の守為り、滎陽を守る、呉叔下す能はず。陳王国の豪傑を徴して与に計り、上蔡の人房君蔡賜を以て上柱国と為す。
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史記 項羽本紀朱雞石の軍敗れ、亡げて胡陵に走る。項梁乃ち兵を引きて薛に入り、雞石を誅す。項梁前に項羽をして別に襄城を攻めしむ、襄城堅守して下らず。已に抜き、皆之を阬(あな)にす。還りて項梁に報ず。項梁陳王の定めて死せるを聞き、諸別将を召して薛に会して事を計る。此の時沛公も亦沛に起こり、焉に往く。居鄛(きょそう)の人范増、年七十、素より家に居り、奇計を好む、往きて項梁に説きて曰く、「陳勝の敗るるは固より当たれり。夫れ秦六国を滅ぼすに、楚最も罪無し。懐王秦に入りて反らざりしより、楚人之を憐れむこと今に至る、故に楚の南公曰く『楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすは必ず楚ならん』と。今陳勝事を首むるも、楚の後を立てずして自ら立つ、其の勢長からず。今君江東に起こり、楚の蠭起の将皆争ひて君に附く者は、君の世世楚の将たるを以て、能く復た楚の後を立つと為せばなり。」と。是に於て項梁其の言を然りとし、乃ち楚の懐王の孫心を民間に求む、人の為に羊を牧す、立てて以て楚の懐王と為す、民の望む所に従ふなり。陳嬰楚の上柱国と為り、五県に封ぜられ、懐王と盱台(くい)に都す。項梁自ら号して武信君と為す。居ること数月、兵を引きて亢父を攻め、斉の田栄・司馬龍且の軍と東阿を救ひ、大いに秦の軍を東阿に破る。田栄即ち兵を引きて帰り、其の王仮を逐ふ。仮亡げて楚に走る。仮の相田角亡げて趙に走る。角の弟田間は故の斉の将にして、趙に居りて敢へて帰らず。田栄田儋の子市を立てて斉王と為す。項梁已に東阿の下の軍を破り、遂に秦の軍を追ふ。数(しばしば)使をして斉の兵を趣(うなが)さしめ、与に倶に西せんと欲す。田栄曰く、「楚田仮を殺し、趙田角・田間を殺さば、乃ち兵を発せん。」と。項梁曰く、「田仮は与国の王為り、窮して来りて我に従ふ、之を殺すに忍びず。」と。趙も亦田角・田間を殺して以て斉に市(う)らず。斉遂に肯へて兵を発して楚を助けず。項梁沛公及び項羽をして別に城陽を攻めしめ、之を屠る。
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史記 陳渉世家韓広以て然りと為し、乃ち自ら立ちて燕王と為る。居ること数月、趙燕王の母及び家属を奉じて之を燕に帰す。此の時に当たり、諸将の地を徇ふる者、勝げて数ふべからず。周市北のかた地を徇へて狄に至る、狄人田儋狄の令を殺し、自ら立ちて斉王と為り、斉を以て反りて周市を撃つ。市の軍散じ、還りて魏の地に至り、魏の後の故の甯陵君咎を立てて魏王と為さんと欲す。時に咎陳王の所に在り、魏に之くを得ず。魏の地已に定まり、相与に周市を立てて魏王と為さんと欲す、周市肯ぜず。使者五たび反る、陳王乃ち甯陵君咎を立てて魏王と為し、之を国に遣はす。周市卒に相と為る。将軍田臧等相与に謀りて曰く、「周章の軍已に破れたり、秦兵旦暮に至らん、我滎陽城を囲みて下す能はず、秦軍至らば、必ず大いに敗れん。少しく兵を遺して、以て熒陽を守るに足らしめ、悉く精兵もて秦軍を迎ふるに如かず。今仮王驕り、兵権を知らず、与に計るべからず、之を誅するに非ずんば、事恐らくは敗れん」と。因りて相与に王の令を矯めて以て呉叔を誅し、其の首を陳王に献ず。陳王使をして田臧に楚の令尹の印を賜はしめ、上将と為さしむ。田臧乃ち諸将李帰等をして滎陽城を守らしめ、自ら精兵を以て西のかた秦軍を敖倉に迎ふ。与に戦ひ、田臧死し、軍破る。章邯兵を進めて李帰等を滎陽の下に撃ち、之を破る、李帰等死す。陽城の人鄧説兵を将ゐて郯に居る、章邯の別将撃ちて之を破る、鄧説の軍散じて陳に走る。銍の人伍徐兵を将ゐて許に居る、章邯撃ちて之を破る、伍徐の軍皆散じて陳に走る。陳王鄧説を誅す。陳王初めて立つ時、陵の人秦嘉、銍の人董緤、符離の人朱雞石、取慮の人鄭布、徐の人丁疾等皆特起し、兵を将ゐて東海の守慶を郯に囲む。陳王聞きて、乃ち武平君畔をして将軍と為し、郯下の軍を監せしむ。
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