史記 / 鄭世家
鄭子八年,齊人管至父等作亂,弒其君襄公。十二年,宋人長萬弒其君湣公。鄭祭仲死。十四年,故鄭亡厲公突在櫟者使人誘劫鄭大夫甫假,要以求入。假曰:「捨我,我爲君殺鄭子而入君。」厲公與盟,乃捨之。六月甲子,假殺鄭子及其二子而迎厲公突,突自櫟復入卽位。初,内蛇與外蛇鬬於鄭南門中,内蛇死。居六年,厲公果復入。入而讓其伯父原曰:「我亡國外居,伯父無意入我,亦甚矣。」原曰:「事君無二心,人臣之職也。原知罪矣。」遂自殺。厲公於是謂甫假曰:「子之事君有二心矣。」遂誅之。假曰:「重德不報,誠然哉!」厲公突後元年,齊桓公始霸。五年,燕、衞與周惠王弟穨伐王,王出奔温,立弟穨爲王。六年,惠王告急鄭,厲公發兵撃周王子穨,弗勝,於是與周惠王歸,王居于櫟。七年春,鄭厲公與虢叔襲殺王子穨而入惠王于周。秋,厲公卒,子文公踕立。厲公初立四歳,亡居櫟,居櫟十七歳,復入,立七歳,與亡凡二十八年。二十四年,文公之賤妾曰燕姞,夢天與之蘭,曰:「余爲伯鯈。余,爾祖也。以是爲而子,蘭有國香。」以夢告文公,文公幸之,而予之草蘭爲符。遂生子,名曰蘭。三十六年,晉公子重耳過,文公弗禮。
新字:鄭子八年,斉人管至父等作乱,弒其君襄公。十二年,宋人長万弒其君湣公。鄭祭仲死。十四年,故鄭亡厲公突在櫟者使人誘劫鄭大夫甫仮,要以求入。仮曰:「捨我,我為君殺鄭子而入君。」厲公与盟,乃捨之。六月甲子,仮殺鄭子及其二子而迎厲公突,突自櫟復入即位。初,内蛇与外蛇闘於鄭南門中,内蛇死。居六年,厲公果復入。入而譲其伯父原曰:「我亡国外居,伯父無意入我,亦甚矣。」原曰:「事君無二心,人臣之職也。原知罪矣。」遂自殺。厲公於是謂甫仮曰:「子之事君有二心矣。」遂誅之。仮曰:「重徳不報,誠然哉!」厲公突後元年,斉桓公始覇。五年,燕、衛与周恵王弟穨伐王,王出奔温,立弟穨為王。六年,恵王告急鄭,厲公発兵撃周王子穨,弗勝,於是与周恵王帰,王居于櫟。七年春,鄭厲公与虢叔襲殺王子穨而入恵王于周。秋,厲公卒,子文公踕立。厲公初立四歳,亡居櫟,居櫟十七歳,復入,立七歳,与亡凡二十八年。二十四年,文公之賤妾曰燕姞,夢天与之蘭,曰:「余為伯鯈。余,爾祖也。以是為而子,蘭有国香。」以夢告文公,文公幸之,而予之草蘭為符。遂生子,名曰蘭。三十六年,晋公子重耳過,文公弗礼。
書き下し
鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
現代語訳
鄭子の八年、斉の管至父(かんしほ)らが反乱を起こし、主君の襄公を殺した。十二年、宋の長万(ちょうまん)が主君の湣公を殺した。鄭の祭仲が死んだ。十四年、かつて鄭から亡命して櫟にいた厲公突は、人を遣わして鄭の大夫甫仮(ほか)をおびき寄せて捕らえ、脅して国に入れるよう求めた。甫仮は言った。「わたしを放してくだされば、君のために鄭子を殺して君をお迎えしよう」。厲公は甫仮と盟約を結び、彼を放した。六月甲子の日、甫仮は鄭子とその二人の子を殺して厲公突を迎えた。突は櫟から再び鄭に入って即位した。これより前、城内の蛇と城外の蛇が鄭の南門の中で争い、城内の蛇が死んだことがあった。それから六年して、厲公は果たして再び国に入ったのである。国に入ると、厲公は伯父の原(げん)を責めて言った。「わたしが国を失って外にいたのに、伯父上はわたしを国に入れようという気がなかった。あまりにひどいではないか」。原は言った。「主君に仕えて二心を抱かないのは、臣下の務めである。わたしは自分の罪を心得ている」。そして自殺した。厲公はそこで甫仮に言った。「そなたは主君に仕えるのに二心があった」。そしてついに甫仮を誅殺した。甫仮は言った。「大恩は報われないというが、まことにそのとおりだ」。厲公突の後元年(復位元年)、斉の桓公が初めて覇者となった。五年、燕と衛が周の恵王の弟の穨(たい)と共に王を討ち、王は温(おん)に逃れ、弟の穨が王に立てられた。六年、恵王は鄭に急を告げた。厲公は兵を出して周の王子穨を撃ったが勝てず、そこで恵王と共に帰り、王は櫟に住んだ。七年の春、鄭の厲公は虢叔(かくしゅく)と共に王子穨を襲って殺し、恵王を周に帰還させた。秋、厲公が死に、子の文公踕(しょう)が立った。厲公は初め即位して四年で亡命して櫟に住み、櫟に十七年いて再び入国し、復位して七年、亡命期間と合わせておよそ二十八年であった。(文公の)二十四年、文公の身分の低い側室で燕姞(えんきつ)という女が夢を見た。天が彼女に蘭を与えて言った。「わたしは伯鯈(はくちゅう)である。わたしはおまえの祖先だ。これをおまえの子とせよ。蘭には国一番の香りがある」。燕姞がこの夢を文公に告げると、文公は彼女を寵愛し、蘭草を与えてしるしとした。やがて子が生まれ、蘭と名づけた。三十六年、晋の公子重耳(ちょうじ)が鄭に立ち寄ったが、文公は礼をもって遇さなかった。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家文公の弟叔詹曰く、「重耳は賢なり。且つ又同姓なり。窮して君に過る。礼無かるべからず」と。文公曰く、「諸侯の亡公子の過る者多し。安んぞ能く尽く之を礼せん」と。詹曰く、「君如し礼せずんば、遂に之を殺せ。殺さずして、即し国に反らしめば、鄭の憂ひと為らん」と。文公聴かず。三十七年春、晋の公子重耳国に反りて立つ、是を文公と為す。秋、鄭滑に入る。滑命を聴き、已にして反りて衛に与す。是に於て鄭滑を伐つ。周の襄王、伯服をして滑の為に請はしむ。鄭の文公、恵王の亡げて櫟に在りしとき、文公の父厲公之を入れしに、恵王厲公に爵禄を賜はざるを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に襄王の請ひを聴かずして伯服を囚ふ。王怒り、翟人と鄭を伐つも、克たず。冬、翟、襄王を攻伐す。襄王出でて鄭に奔る。鄭の文公、王を氾に居らしむ。三十八年、晋の文公、襄王を成周に入る。四十一年、楚を助けて晋を撃つ。晋の文公の過りしとき礼無かりしより、故に晋に背きて楚を助く。四十三年、晋の文公、秦の穆公と共に鄭を囲む。其の楚を助けて晋を攻めし者、及び文公の過りし時の無礼を討つなり。初め、鄭の文公に三夫人有り、寵子五人、皆罪を以て蚤く死す。公怒り、溉く群公子を逐ふ。子蘭晋に奔り、晋の文公に従ひて鄭を囲む。時に蘭、晋の文公に事ふること甚だ謹み、之を愛幸す。乃ち私かに晋に於てし、以て鄭に入りて太子と為らんことを求む。晋是に於て叔詹を得て僇と為さんと欲す。鄭の文公恐れ、敢へて叔詹に謂ひて言はず。詹聞き、鄭君に言ひて曰く、「臣君に謂ふも、君臣に聴かず、晋卒に患ひと為る。然れども晋の鄭を囲む所以は、詹を以てなり。詹死して鄭国を赦さば、詹の願ひなり」と。乃ち自殺す。鄭人、詹の尸を以て晋に与ふ。晋の文公曰く、「必ず一たび鄭君を見て、之を辱めて去らんと欲す」と。鄭人之を患ひ、乃ち人をして私かに秦に言はしめて曰く、「鄭を破りて晋を益すは、秦の利に非ざるなり」と。秦の兵罷む。
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史記 鄭世家二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
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史記 鄭世家晋の文公、蘭を入れて太子と為さんと欲し、以て鄭に告ぐ。鄭の大夫石癸曰く、「吾聞く、姞姓は乃ち后稷の元妃なり、其の後当に興る者有るべしと。子蘭の母は其の後なり。且つ夫人の子尽く已に死し、余の庶子に蘭の賢に如くは無し。今囲み急なり。晋以て請ふを為す。利孰れか焉より大ならん」と。遂に晋に許し、与に盟ひ、卒に子蘭を立てて太子と為す。晋の兵乃ち罷め去る。四十五年、文公卒し、子蘭立つ、是を繆公と為す。繆公元年春、秦の繆公、三将をして兵を将ゐて鄭を襲はんと欲せしむ。滑に至り、鄭の賈人絃高に逢ふ。詐りて十二牛を以て軍を労ふ。故に秦の兵至らずして還る。晋之を崤に敗る。初め、往年鄭の文公の卒するや、鄭の司城繒賀、鄭の情を以て之を売る。秦の兵故に来る。三年、鄭兵を発して晋に従ひて秦を伐ち、秦の兵を汪に敗る。往年楚の太子商臣其の父成王を弑して代はりて立つ。二十一年、宋の華元と鄭を伐つ。華元羊を殺して士に食はしむるも、其の御羊斟に与へず。怒りて以て鄭に馳す。鄭華元を囚ふ。宋華元を贖ふ。元も亦亡げ去る。晋、趙穿をして兵を以て鄭を伐たしむ。霊公元年春、楚黿を霊公に献ず。子家・子公将に霊公に朝せんとす。子公の食指動く。子家に謂ひて曰く、「佗日指動けば、必ず異物を食らふ」と。入るに及び、霊公の黿の羹を進むるを見る。子公笑ひて曰く、「果たして然り」と。霊公其の笑ふ故を問ふ。具に霊公に告ぐ。霊公之を召し、独り羹を予へず。子公怒り、其の指を染め、之を嘗めて出づ。公怒り、子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんことを謀る。夏、霊公を弑す。鄭人、霊公の弟去疾を立てんと欲す。去疾譲りて曰く、「必ず賢を以てせば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てせば、則ち公子堅長ず」と。堅は霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。是に於て乃ち子堅を立つ、是を襄公と為す。襄公立ち、将に尽く繆氏を去らんとす。
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史記 鄭世家糾の妻は祭仲の女なり。之を知り、其の母に謂ひて曰く、「父と夫と孰れか親しき」と。母曰く、「父は一のみ、人は尽く夫なり」と。女乃ち祭仲に告ぐ。祭仲反りて雍糾を殺し、之を市に戮す。厲公、祭仲を奈何ともする無く、糾を怒りて曰く、「謀婦人に及ぶ、死は固より宜なるかな」と。夏、厲公出でて辺邑の櫟に居る。祭仲、昭公忽を迎へ、六月乙亥、復た鄭に入りて位に即く。秋、鄭の厲公突、櫟人に因りて其の大夫単伯を殺し、遂に之に居る。諸侯、厲公の出奔せるを聞き、鄭を伐つも、克たずして去る。宋頗る厲公に兵を予へ、自ら櫟に守る。鄭故を以て亦櫟を伐たず。昭公二年、昭公の太子為りし時より、父荘公、高渠弥を以て卿と為さんと欲す。太子忽之を悪む。荘公聴かず、卒に渠弥を用ひて卿と為す。昭公位に即くに及び、其の己を殺さんことを懼る。冬十月辛卯、渠弥、昭公と出でて猟し、昭公を野に射殺す。祭仲と渠弥と敢へて厲公を入れず、乃ち更に昭公の弟子亹を立てて君と為す、是を子亹と為す、謚号無し。子亹元年七月、斉の襄公諸侯に首止に会す。鄭の子亹往きて会す。高渠弥相として従ふ。祭仲疾と称して行かず。然る所以の者は、子亹、斉の襄公の公子為りし時より、嘗て会して闘ひ、相仇たり。諸侯に会するに及び、祭仲、子亹に行く無からんことを請ふ。子亹曰く、「斉は彊にして、厲公櫟に居る。即し往かずんば、是れ諸侯を率ゐて我を伐ち、厲公を内れん。我往くに如かず。往くとも何ぞ遽かに必ずしも辱められん。且つ又何ぞ是に至らん」と。卒に行く。是に於て祭仲、斉の并せて之を殺さんことを恐る。故に疾と称す。子亹至り、斉侯に謝せず。斉侯怒り、遂に甲を伏せて子亹を殺す。高渠弥亡げ帰り、帰りて祭仲と謀り、子亹の弟公子嬰を陳より召して之を立つ、是を鄭子と為す。是の歳、斉の襄公、彭生をして魯の桓公を酔はせ拉殺せしむ。
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史記 鄭世家十四年、成公卒し、子惲立つ。是を釐公と為す。釐公五年、鄭の相子駟、釐公に朝す。釐公礼せず。子駟怒り、廚人をして釐公を薬殺せしめ、諸侯に赴げて曰く「釐公暴かに病みて卒す」と。釐公の子嘉を立つ。嘉時に年五歳、是を簡公と為す。簡公元年、諸公子謀りて相子駟を誅せんと欲す。子駟之を覚り、反りて尽く諸公子を誅す。二年、晋鄭を伐つ。鄭与に盟ひ、晋去る。冬、又楚と盟ふ。子駟誅を畏る、故に両つながら晋・楚に親しむ。三年、相子駟自ら立ちて君と為らんと欲す。公子子孔、尉止をして相子駟を殺さしめて之に代はる。子孔又自ら立たんと欲す。子産曰く、「子駟不可を為す、之を誅す。今又之に効ふ。是れ乱の息む時無きなり」と。是に於て子孔之に従ひて鄭の簡公に相たり。四年、晋、鄭の楚と盟ふを怒り、鄭を伐つ。鄭与に盟ふ。楚の共王鄭を救ひ、晋の兵を敗る。簡公晋と平がんと欲す。楚又鄭の使者を囚ふ。十二年、簡公、相子孔の国権を専らにするを怒り、之を誅して、子産を以て卿と為す。十九年、簡公晋に如きて衛君の還らんことを請ふ。而して子産を封ずるに六邑を以てす。子産譲りて、其の三邑を受く。二十二年、呉、延陵の季子を鄭に使はす。子産を見ること旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政者侈る。難将に至らんとし、政将に子に及ばんとす。子政を為さば、必ず礼を以てせよ。然らずんば、鄭将に敗れんとす」と。子産厚く季子を遇す。二十三年、諸公子寵を争ひて相殺し、又子産を殺さんと欲す。公子或いは諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以の者は子産なり。殺す勿かれ」と。乃ち止む。二十五年、鄭、子産を晋に使はし、平公の疾を問はしむ。平公曰く、「卜して曰く、実沈・台駘祟りを為すと。史官知る莫し。敢へて問ふ」と。対へて曰く、「高辛氏に二子有り。長を閼伯と曰ひ、季を実沈と曰ふ。曠林に居り、相能くせず、日に干戈を操りて以て相征伐す。
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