春秋左氏伝 / 哀公十二年 子貢、衛侯を救う
秋。衛侯會吳于鄖。公及衛侯。宋皇瑗盟。而卒辭吳盟。吳人藩衛侯之舍。子服景伯謂子貢曰。夫諸侯之會。事既畢矣。侯伯致禮地主歸餼。以相辭也。今吳不行禮於衛。而藩其君舍以難之。子盍見大宰。乃請束錦以行。語及衛故。大宰嚭曰。寡君願事衛君。衛君之來也緩。寡君懼。故將止之。子貢曰。衛君之來。必謀於其眾。其眾或欲或否。是以緩來。其欲來者。子之黨也。其不欲來者。子之讎也。若執衛君。是墮黨而崇讎也。夫墮子者。得其志矣。且合諸侯而執衛君。誰敢不懼。墮黨崇讎。而懼諸侯。或者難以霸乎。大宰嚭說。乃舍衛侯。衛侯歸。效夷言。子之尚幼。曰。君必不免。其死於夷乎。執焉。而又說其言。從之固矣。
新字:秋。衛侯会呉于鄖。公及衛侯。宋皇瑗盟。而卒辞呉盟。呉人藩衛侯之舎。子服景伯謂子貢曰。夫諸侯之会。事既畢矣。侯伯致礼地主帰餼。以相辞也。今呉不行礼於衛。而藩其君舎以難之。子盍見大宰。乃請束錦以行。語及衛故。大宰嚭曰。寡君願事衛君。衛君之来也緩。寡君懼。故将止之。子貢曰。衛君之来。必謀於其衆。其衆或欲或否。是以緩来。其欲来者。子之党也。其不欲来者。子之讎也。若執衛君。是堕党而崇讎也。夫堕子者。得其志矣。且合諸侯而執衛君。誰敢不懼。堕党崇讎。而懼諸侯。或者難以覇乎。大宰嚭説。乃舎衛侯。衛侯帰。効夷言。子之尚幼。曰。君必不免。其死於夷乎。執焉。而又説其言。従之固矣。
書き下し
秋、衛侯吳に鄖に會す。公及び衛侯・宋の皇瑗盟ひて、卒に吳の盟を辭す。吳人衛侯の舍に藩(まがき)す。子服景伯子貢に謂ひて曰く、「夫れ諸侯の會、事既に畢れば、侯伯禮を致し、地主餼を歸(おく)り、以て相辭す。今吳衛に禮を行はずして、其の君の舍に藩して以て之を難(なや)ます。子盍ぞ大宰に見えざる」と。乃ち束錦を請ひて以て行く。語衛の故に及ぶ。大宰嚭曰く、「寡君衛君に事へんことを願ふ。衛君の來るや緩し。寡君懼る。故に將に之を止めんとす」と。子貢曰く、「衛君の來るや、必ず其の眾に謀る。其の眾或いは欲し或いは否とす。是を以て來ること緩し。其の來るを欲する者は、子の黨なり。其の來るを欲せざる者は、子の讎なり。若し衛君を執らば、是れ黨を墮して讎を崇くするなり。夫の子を墮さんとする者は、其の志を得たり。且つ諸侯を合して衛君を執らば、誰か敢へて懼れざらん。黨を墮し讎を崇くして、諸侯を懼れしむ。或いは以て霸たること難からんか」と。大宰嚭說ぶ。乃ち衛侯を舍す。衛侯歸りて、夷言を效(なら)ふ。子之尚ほ幼し。曰く、「君必ず免れず。其れ夷に死せんか。焉に執へられて、又其の言を說ぶ。之に從ふこと固し」と。
現代語訳
秋、衛侯(出公輒)は鄖で呉と会した。哀公と衛侯、宋の皇瑗は三者で盟約を結び、結局、呉との盟約は辞退した。呉人は衛侯の宿舎を垣根で囲んだ(軟禁した)。子服景伯は子貢に言った。「そもそも諸侯の会合では、事が終われば、主催する侯伯が礼を尽くし、会場の地の主が食糧を贈って、互いに別れを告げるものです。今、呉は衛に礼を行わないばかりか、その君の宿舎を囲んで苦しめている。あなたは太宰(嚭)に会いに行ってはどうですか」。そこで子貢は錦一束を願い受けて出かけた。話が衛のことに及ぶと、太宰嚭は言った。「わが君は衛君にお仕えしたいと願っていました。ところが衛君の来着が遅れたので、わが君は(離反の心を)恐れ、それで衛君を留め置こうとしているのです」。子貢は言った。「衛君が来るにあたっては、必ず臣下たちと相談したはずです。臣下のうちには来ることを望んだ者もいれば、望まなかった者もいた。だから来るのが遅れたのです。来ることを望んだ者はあなた方の味方であり、望まなかった者はあなた方の敵です。もし衛君を捕らえれば、味方の面目をつぶし、敵を勢いづかせることになります。あなた方を失墜させたいと願う者の思うつぼです。そのうえ、諸侯を集めておきながら衛君を捕らえれば、どの諸侯も恐れずにはいられないでしょう。味方をつぶし、敵を勢いづかせ、諸侯を恐れさせる。それでは覇者となるのは難しいのではありませんか」。太宰嚭は喜び、衛侯を釈放した。衛侯は帰国すると、夷(呉)の言葉を真似るようになった。子之(公孫弥牟)はまだ幼かったが、こう言った。「わが君は必ず禍を免れないだろう。夷の地で死ぬのではないか。夷に捕らえられておきながら、その言葉を喜んで使っている。夷に心から従ってしまっている」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
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説苑・奉使齊魯を攻む。子貢哀公に見え、吳に救いを求めんことを請う。公曰く、「奚ぞ先君の寶を用いんや。」子貢曰く、「吳をして寶を責めて我に師を與えしむれば、是れ恃むべからざるなり。」是に於て楊幹麻筋の弓六を以て往く。子貢吳王に謂いて曰く、「齊無道を爲し、周公の後をして血食せざらしめんと欲す。且つ魯の賦五百、邾の賦三百なり。識らず此を以て齊を益せば、吳の利ならんか、非ならんか。」吳王懼れ、乃ち師を興して魯を救う。諸侯曰く、「齊周公の後を伐つに、吳之を救う。」遂に吳に朝す。
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『韓非子』說林上二十二君之に与へて以て智伯を驕らしむるに如かず。且つ君何ぞ天下を以て智氏を図るを釈てて、独り吾が国を以て智氏の質と為すや」と。君曰く、「善し」と。乃ち之に万戸の邑を与ふ。智伯大いに悦び、因りて地を趙に索む、与へず、因りて晋陽を囲む。韓・魏之に外に反し、趙氏之に内に応じ、智氏以て亡ぶ。秦の康公、台を築くこと三年。荊人兵を起こし、将に兵を以て斉を攻めんと欲す。任妄曰く、「饑は兵を召き、疾は兵を召き、労は兵を召き、乱は兵を召く。君台を築くこと三年、今荊人兵を起こして将に斉を攻めんとす、臣恐らくは其の斉を攻むるは声と為して、秦を襲ふを以て実と為さん。之に備ふるに如かず」と。東辺を戍りて、荊人行を輟む。斉、宋を攻む。宋、臧孫子をして南のかた救ひを荊に求めしむ。荊大いに説び、之を救ふことを許して甚だ勧む。臧孫子憂へて反る。其の御曰く、「救ひを索めて得たり、今子に憂色有るは何ぞや」と。臧孫子曰く、「宋は小にして斉は大なり。夫れ小宋を救ひて大斉に悪まるるは、此れ人の憂ふる所以なり。而るに荊王説ぶは、必ず以て我を堅くせんとすればなり。我堅くして斉敝るるは、荊の利とする所なり」と。臧孫子乃ち帰る。斉人、五城を宋に抜きて荊の救ひ至らず。魏の文侯、道を趙に借りて中山を攻めんとし、趙の粛侯将に許さざらんとす。趙刻曰く、「君過てり。魏、中山を攻めて取ること能はずんば、則ち魏必ず罷れん。罷るれば則ち魏軽く、魏軽ければ則ち趙重し。魏、中山を抜くとも、必ず趙を越えて中山を有つこと能はざるなり。是れ兵を用ふる者は魏にして、地を得る者は趙なり。君必ず之を許せ。之を許して大いに歓べば、彼将に君の之を利とするを知りて、必ず将に行を輟めんとす。君は之に道を借して、示すに已むを得ざるを以てするに如かず」と。鴟夷子皮、田成子に事ふ。田成子、斉を去り、走りて燕に之く。鴟夷子皮、伝を負ひて従ふ。望邑に至る。子皮曰く、「子独り涸沢の蛇を聞かざるか。沢涸るれば、蛇将に徙らんとす。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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