春秋左氏伝 / 哀公十一年 鳥は木を択ぶ
悼子亡。衛人翦夏戊。孔文子之將攻大叔也。訪於仲尼。仲尼曰。胡簋之事。則嘗學之矣。甲兵之事。未之聞也。退命駕而行。曰。鳥則擇木。木豈能擇鳥。文子遽止之。曰。圉豈敢度其私。訪衛國之難也。將止。魯人以幣召之。乃歸。季孫欲以田賦。使冉有訪諸仲尼。仲尼曰。丘。不識也。三發。卒曰。子為國老。待子而行。若之何子之不言也。仲尼不對。而私於冉有曰。君子之行也。度於禮。施取其厚。事舉其中。斂從其薄。如是則以丘亦足矣。若不度於禮。而貪冒無厭。則雖以田賦。將又不足。且子季孫若欲行而法。則周公之典在。若欲苟而行。又何訪焉。弗聽。
新字:悼子亡。衛人翦夏戊。孔文子之将攻大叔也。訪於仲尼。仲尼曰。胡簋之事。則嘗学之矣。甲兵之事。未之聞也。退命駕而行。曰。鳥則択木。木豈能択鳥。文子遽止之。曰。圉豈敢度其私。訪衛国之難也。将止。魯人以幣召之。乃帰。季孫欲以田賦。使冉有訪諸仲尼。仲尼曰。丘。不識也。三発。卒曰。子為国老。待子而行。若之何子之不言也。仲尼不対。而私於冉有曰。君子之行也。度於礼。施取其厚。事舉其中。斂従其薄。如是則以丘亦足矣。若不度於礼。而貪冒無厭。則雖以田賦。将又不足。且子季孫若欲行而法。則周公之典在。若欲苟而行。又何訪焉。弗聴。
書き下し
悼子亡(に)ぐ。衛人夏戊を翦る。孔文子の將に大叔を攻めんとするや、仲尼に訪ふ。仲尼曰く、「胡簋の事は、則ち嘗て之を學べり。甲兵の事は、未だ之を聞かざるなり」と。退きて駕を命じて行かんとして曰く、「鳥は則ち木を擇ぶ。木豈に能く鳥を擇ばんや」と。文子遽かに之を止めて曰く、「圉豈に敢へて其の私を度らんや。衛國の難を訪ふなり」と。將に止まらんとす。魯人幣を以て之を召く。乃ち歸る。季孫田賦を以てせんと欲し、冉有をして諸を仲尼に訪はしむ。仲尼曰く、「丘は識らざるなり」と。三たび發す。卒に曰く、「子は國老為り。子を待ちて行はんとす。若之何ぞ子の言はざるや」と。仲尼對へず。而して冉有に私して曰く、「君子の行ひや、禮に度る。施すは其の厚きを取り、事は其の中を舉げ、斂むるは其の薄きに從ふ。是の如くならば則ち丘を以てするも亦た足れり。若し禮に度らずして、貪冒厭くこと無くんば、則ち田賦を以てすと雖も、將た又足らざらん。且つ子季孫若し行ひて法とせんと欲せば、則ち周公の典在り。若し苟もして行はんと欲せば、又何ぞ訪はん」と。聽かず。
現代語訳
悼子が国を出て亡命すると、衛の人々は夏戊(の勢力)を削った。孔文子が大叔疾を攻めようとしたとき、仲尼(孔子)に意見を求めた。仲尼は言った。「胡簋(祭器)のことなら学んだことがありますが、武器や兵のことは聞いたことがありません」。退出すると車の用意を命じて立ち去ろうとし、言った。「鳥は止まる木を選ぶことができる。木がどうして鳥を選べようか」。文子は慌てて引き止め、「私、圉がどうして自分の私事を図りましょう。衛国の難事についてお尋ねしたのです」と言った。孔子は留まろうとしたが、ちょうど魯の人々が礼物を携えて孔子を招いたので、魯に帰った。季孫(季康子)は田の面積に応じて軍賦を課す「田賦」を行おうとし、冉有を遣わして仲尼に意見を求めさせた。仲尼は「私(丘)は存じません」と言った。冉有は三度問うたが、孔子は答えなかった。ついに冉有は言った。「あなたは国の長老です。あなたのお言葉を待って実行しようというのです。どうしてお答えくださらないのですか」。仲尼は(公の場では)答えず、冉有にひそかに言った。「君子の行いというものは、礼に照らして量るものだ。施しは手厚くし、事業は中ほどをとり、取り立ては薄くする。そうであれば、今の丘賦(丘を単位とする税)で十分足りる。もし礼に照らさず、むさぼって飽くことがなければ、たとえ田賦を行っても、やはり足りなくなるだろう。それに、あなたの主の季孫が、行うにあたって規範に従いたいのであれば、周公の定めた典制がある。いいかげんに行いたいのであれば、どうして私に尋ねる必要があろうか」。季孫は聞き入れなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・談道・行かざるを得ざる所に行く君子の事に於けるや、其の行かざるを得ざる所に行き、其の止まらざるを得ざる所に止まる。言に於けるや、其の語らざるを得ざる所に語り、其の默せざるを得ざる所に默す。尤悔庶幾はくは寡からん。
-
『春秋左氏伝』僖公三十年 周公閲、備物の饗を辞す初め、鄭の公子蘭出でて晉に奔り、晉侯に從ひて鄭を伐つ。鄭を圍むに與ること無からんことを請ふ。之を許し、命を東に待たしむ。鄭の石甲父・侯宣多逆へて以って大子と為し、以って成を晉に求む。晉人之を許す。冬、王周公閱をして來聘せしむ。饗に昌歜(しゃうさん)・白・黑・形鹽有り。辭して曰く、「國君は、文は以って昭らかにするに足り、武は畏る可きなり。則ち備物の饗有りて、以って其の德に象る。五味を薦め、嘉穀を羞(すす)め、鹽は虎の形にして、以って其の功を獻ず。吾何を以ってか之に堪へん」と。東門襄仲將に周に聘せんとし、遂に初めて晉に聘す。
-
『墨子』耕柱子墨子、管黔をして髙石子を衛に游ばしむ。衛君、禄を致すこと甚だ厚く、之を卿に設く。髙石子、三たび朝して必ず言を盡くすも、言、行わるる者無し。去りて齊に之き、子墨子に見えて曰く、「衛君、夫子の故を以て、禄を致すこと甚だ厚く、我を卿に設く。石、三たび朝して必ず言を盡くすも、言、行わるる無し。是を以て之を去るなり。衛君、乃ち石を以て狂と為すこと無からんや」と。子墨子曰く、「之を去るに茍くも道あらば、狂を受くるも何ぞ傷まん。古者、周公旦、管叔を非とし、三公を辭し、東のかた商盖に處る。人、皆な之を狂と謂う。後世、其の徳を稱し、其の名、今に至るまで息まず。且つ翟、之を聞く、義を為すは毁を避け譽に就くに非ず。之を去るに茍くも道あらば、狂を受くるも何ぞ傷まん」と。髙石子曰く、「石の之を去るや、焉んぞ敢えて道あらざらんや。昔者、夫子に言有りて曰く、『天下に道無くんば、仁士は厚きに處らず』と。今、衛君は道無くして、其の禄爵を貪らば、則ち是れ我れ茍くも人の厚きに處ると為すなり」と。子墨子、説びて、子禽子を召して曰く、「姑く此を聴けや。夫れ義に倍きて禄に鄉う者は、我れ常に之を聞けり。禄に倍きて義に鄉う者は、髙石子に於いて焉れを見るなり」と。
-
孟子・公孫丑章句下孟子蚔蛙に謂ひて曰く、「子の霊丘を辞して士師を請ふは、似たり。其の以て言ふ可きが為なり。今既に数月なり、未だ以て言ふ可からざるか。」蚔蛙王に諫めて用ひられず、臣たることを致して去る。斉人曰く、「蚔蛙の為にする所以は、則ち善し。自ら為にする所以は、則ち吾知らざるなり。」公都子以て告ぐ。曰く、「吾之を聞けり。官守有る者は、其の職を得ざれば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ざれば則ち去る。我に官守無く、我に言責無きなり。則ち吾が進退、豈に綽綽然として余裕有らざらんや。」
-
論語・憲問篇子曰く、賢者は世を辟く。其の次は地を辟く。其の次は色を辟く。其の次は言を辟く。
-
説苑・雜言賢人君子は、盛衰の時に通じ、成敗の端に明らかに、治乱の紀を察し、人情を審らかにす。去就する所を知る、故に窮すと雖も亡国の勢に処らず、貧しと雖も汙君の禄を受けず。是を以て太公は七十にして自ら達せず、孫叔敖は三たび相を去りて自ら悔いず。何となれば則ち、強いて其の人に非ざるに合せざればなり。太公は一たび周に合して侯たること七百歳、孫叔敖は一たび楚に合して封ぜらるること十世。大夫種は越を存亡して覇たらしめしも、句踐は死を前に賜う。李斯は功を秦に積みしも、卒に五刑を被る。忠を尽くして君を憂い、身を危うくして国を安んずる、其の功は一なり。或いは封侯して絶えず、或いは死を賜いて刑を被る。慕う所・由る所異なればなり。故に箕子は国を去りて狂を佯り、范蠡は越を去りて名を易え、智過は君弟を去りて姓を更う、皆遠きを見て微を識り、仁は能く富勢を去りて以て萌生の禍を避くる者なり。夫れ暴乱の君、孰か能く縶を離ちて其の身を役し、患いに与らんや。故に賢者は死を畏れ害を避くるのみに非ざるなり、身を殺すも益無くして明主の暴なればなり。比干は紂に死すも其の行いを正す能わず、子胥は呉に死すも其の国を存する能わず。二子は強諫して死す、適に明主の暴を明らかにするのみ、未だ始めより秋毫の端の如きも益有らざるなり。是を以て賢人は其の智を閉じ、其の能を塞ぎ、其の人を得るを待ちて然る後に合す。故に言えば聴かれざる無く、行えば疑わるる無く、君臣両つながら与にし、終身患い無し。今其の時を得るに非ず、又其の人無く、直だ私意已む能わず、世の乱れを閔れみ、主の危うきを憂う。貲無きの身を以て、蔽塞の路を渉り、讒人の前を経、無量の主に造り、不測の罪を犯す。其の天性を傷る、豈に惑いならざらんや。故に文信侯・李斯は、天下謂う所の賢なり、国の為に計り微を揣り隠を射る、所謂過策無きなり。戦いて勝ち攻めて取る、所謂強敵無きなり。功を積むこと甚だ大に、勢利甚だ高し。賢人用いられず、讒人事を用う、自ら用いられざるを知るも、其の仁去る能わず。敵を制し功を積むこと、秋毫を失わず。患いを避け害を去ること、丘山を見ず。其の欲する所を積みて、以て其の悪む所に至る、豈に勢利に惑わさるるに非ざらんや。詩に云う、『人は其の一を知りて、其の他を知る莫し』と。此を之れ謂うなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る