呻吟語 / 内篇・談道・行かざるを得ざる所に行く
君子之於事也,行乎其所不得不行,止乎其所不得不止;於言也,語乎其所不得不語,默乎其所不得不默,尤悔庶幾寡矣。
新字:君子之於事也,行乎其所不得不行,止乎其所不得不止;於言也,語乎其所不得不語,黙乎其所不得不黙,尤悔庶幾寡矣。
書き下し
君子の事に於けるや、其の行かざるを得ざる所に行き、其の止まらざるを得ざる所に止まる。言に於けるや、其の語らざるを得ざる所に語り、其の默せざるを得ざる所に默す。尤悔庶幾はくは寡からん。
現代語訳
君子が事をなすときは、動かずにいられないところで動き、止まらずにいられないところで止まります。言葉についても、言わずにいられないところで言い、黙らずにいられないところで黙る。そうすれば、人から咎められることも自分で悔やむことも、ほとんど無くなるでしょう。
解説
やるかやらないかを好き嫌いで決めず、事の側の必然に従えという話です。動きたいから動くのでも、面倒だから止めるのでもなく、そうせざるを得ないところまで来たら動く。言葉も同じで、言いたいから言うのではありません。この基準に従えば、他人からの非難も自分の後悔も減るという、実に実務的な結論が添えられています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
進退言葉必然後悔節度
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