春秋左氏伝 / 哀公十一年 孟之側、馬進まず
請三刻而踰之。如之。眾從之。師入齊軍。右師奔。齊人從之。陳瓘。陳莊。涉泗。孟之側後入。以為殿。抽矢策其馬曰。馬不進也。林不狃之伍曰。走乎。不狃曰。誰不如。曰。然則止乎。不狃曰。惡賢。徐步而死。師獲甲首八十。齊人不能師。宵諜曰。齊人遁。冉有請從之三。季孫弗許。孟孺子語人曰。我不如顏羽。而賢於邴洩。子羽銳敏。我不欲戰而能默。洩曰。驅之。公為與其嬖僮汪錡乘。皆死皆殯。孔子曰。能執干戈以衛社稷。可無殤也。冉有用矛於齊師。故能入其軍。孔子曰。義也。
新字:請三刻而踰之。如之。衆従之。師入斉軍。右師奔。斉人従之。陳瓘。陳荘。渉泗。孟之側後入。以為殿。抽矢策其馬曰。馬不進也。林不狃之伍曰。走乎。不狃曰。誰不如。曰。然則止乎。不狃曰。悪賢。徐歩而死。師獲甲首八十。斉人不能師。宵諜曰。斉人遁。冉有請従之三。季孫弗許。孟孺子語人曰。我不如顔羽。而賢於邴洩。子羽鋭敏。我不欲戦而能黙。洩曰。駆之。公為与其嬖僮汪錡乗。皆死皆殯。孔子曰。能執干戈以衛社稷。可無殤也。冉有用矛於斉師。故能入其軍。孔子曰。義也。
書き下し
請ふ三刻して之を踰えん」と。之の如くす。眾之に從ふ。師齊の軍に入る。右師奔る。齊人之を從ふ。陳瓘・陳莊、泗を涉る。孟之側後れて入り、以て殿と為る。矢を抽きて其の馬に策(むちう)ちて曰く、「馬進まざるなり」と。林不狃の伍曰く、「走らんか」と。不狃曰く、「誰か如かざる」と。曰く、「然らば則ち止まらんか」と。不狃曰く、「惡(いづく)んぞ賢ならん」と。徐ろに步みて死す。師甲首八十を獲たり。齊人師を能くせず。宵に諜して曰く、「齊人遁る」と。冉有之を從はんことを請ふこと三たび、季孫許さず。孟孺子人に語りて曰く、「我は顏羽に如かず、而れども邴洩より賢る。子羽は銳敏なり。我は戰ふを欲せずして能く默す。洩は曰く、『之を驅れ』と」。公為其の嬖僮汪錡と乘り、皆死す。皆殯す。孔子曰く、「能く干戈を執りて以て社稷を衛る。殤とすること無かる可し」と。冉有矛を齊の師に用ゐる、故に能く其の軍に入る。孔子曰く、「義なり」と。
現代語訳
どうか命令を三度発してから溝を越えさせてください」。冉求がそのとおりにすると、兵はみな従った。左軍は斉軍の中に攻め入った。一方、右軍は敗走し、斉軍がこれを追った。斉の陳瓘と陳荘が泗水を渡った。孟之側(孟之反)は最後に退いて殿軍となったが、城門に入るとき、矢を抜いて自分の馬を打ちながら「馬が進まなかったのだ」と言った。林不狃の隊の仲間が「逃げましょうか」と言うと、不狃は「逃げる者の誰に劣るというのか(逃げれば彼らと同じだ)」と言った。「では踏みとどまりますか」と言うと、不狃は「それがどうして賢いことになろう」と言い、ゆっくりと歩いて退き、討たれて死んだ。魯軍は甲士の首八十を得た。斉軍は隊列を保てなくなった。夜、斥候が「斉軍は逃げています」と報告した。冉有は三度追撃を願い出たが、季孫は許さなかった。孟孺子(孟武伯)は人に語って言った。「私は顔羽には及ばないが、邴洩よりはましだ。子羽(顔羽)は鋭敏であった。私は戦いたくなかったが、黙っていることはできた。洩は『(逃げるために)馬を駆れ』と言ったのだ」。公為(公叔務人)はお気に入りの童僕の汪錡と同じ車に乗り、二人とも戦死した。二人とも(成人と同じ礼で)殯を行った。孔子は言った。「干戈を執って国家を守ることができたのだから、(汪錡を)夭折した子ども(殤)の礼で扱わなくてよい」。冉有は斉軍に対して矛を用いたので、その陣中に攻め入ることができた。孔子は言った。「義にかなっている」。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 子産、邑を辞す鄭伯陳に入るの功を賞す。三月、甲寅、朔、子展を享し、之に先路と三命の服を賜ひ、先づ八邑。子產に次路と再命の服を賜ひ、先づ六邑。子產邑を辭して曰く、「上より以下、隆殺するに兩を以てするは、禮なり。臣の位は四に在り。且つ子展の功なり。臣敢へて賞禮に及ばず。請ふ邑を辭せん」と。公固く之を予ふ。乃ち三邑を受く。公孫揮曰く、「子產其れ將に政を知らんとす。讓りて禮を失はず」と。晉人孫氏の故の為に諸侯を召し、將に以て衛を討たんとす。夏、中行穆子來聘す。公を召すなり。
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『春秋左氏伝』僖公十二年 管仲、上卿の礼を辞す十二年春、諸侯衛の楚丘の郛に城く、狄の難を懼るればなり。黃人諸侯の齊に睦まじきを恃み、楚の職を共せずして曰く、「郢より我に及ぶまで九百里、焉んぞ能く我を害せん」と。夏、楚黃を滅ぼす。王戎の難の故を以て、王子帶を討つ。秋、王子帶齊に奔る。冬、齊侯管夷吾をして戎を王に平らがしめ、隰朋をして戎を晉に平らがしむ。王上卿の禮を以て管仲を饗す。管仲辭して曰く、「臣は、賤しき有司なり。天子の二守國・高在る有り。若し春秋に節して、來りて王命を承けば、何を以てか之を禮せん。陪臣敢へて辭す」と。王曰く、「舅氏、余乃の勳を嘉し、乃の懿德に應ず、督めて忘れずと謂ふ。往きて乃の職を踐め、朕が命に逆ふこと無かれ」と。管仲下卿の禮を受けて還る。君子曰く、「管氏の世々祀らるるや、宜なるかな。讓りて其の上を忘れず。《詩》に曰く、『愷悌の君子は、神の勞する所なり』と」。
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『春秋左氏伝』僖公八年 能く国を以て譲る八年春、洮に盟ふ、王室を謀るなり。鄭伯盟を乞ふ、服せんことを請ふなり。襄王位を定めて而る後に喪を發す。晉の里克師を帥ゐ、梁由靡御し、虢射右と為り、以て狄を采桑に敗る。梁由靡曰く、「狄は恥無し、之を從はば必ず大いに克たん」と。里克曰く、「之を懼れしむるのみ、眾狄を速くこと無かれ」と。虢射曰く、「期年にして狄必ず至らん、之に弱きを示せり」と。夏、狄晉を伐つ、采桑の役に報ゆるなり、期月に復す。秋、禘して哀姜を致す、禮に非ざるなり。凡そ夫人寢に薨ぜず、廟に殯せず、同に赴げず、姑に祔せずんば、則ち致さざるなり。冬、王人來りて喪を告ぐ、難の故なり、是を以て緩し。宋公疾む。大子茲父固く請ひて曰く、「目夷は長にして且つ仁なり、君其れ之を立てよ」と。公子魚に命ず。子魚辭して曰く、「能く國を以て讓る、仁孰れか焉より大ならん。臣及ばざるなり。且つ又順ならず」と。遂に走りて退く。
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『春秋左氏伝』荘公二十二年 敬仲、高位を辞す二十二年春、陳人其の大子禦寇を殺す。陳の公子完と顓孫と齊に奔る。顓孫齊より來奔す。齊侯敬仲をして卿と爲らしめんとす。辭して曰く、「羈旅の臣、幸ひに若し宥さるるを獲て、寬政に及び、其の教訓に閑はざるを赦して罪戾を免れ、負擔を弛めらるるは、君の惠なり。獲る所多し。敢へて髙位を辱めて、以って官謗を速かんや。請ふ死を以って告げん。《詩》に云ふ、『翹翹たる車乘、我を招くに弓を以ってす。豈に往かんことを欲せざらんや、我が友朋を畏る』と」と。工正と爲らしむ。桓公に酒を飲ましめて、樂しむ。公曰く、「火を以って之を繼げ」と。辭して曰く、「臣其の晝を卜して、未だ其の夜を卜せず。敢へてせず」と。君子曰く、「酒は以って禮を成し、繼ぐに淫を以ってせざるは、義なり。君を以って禮を成し、淫に納れざるは、仁なり」と。
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『春秋左氏伝』昭公二年 忠信は礼の器夏、四月、韓須齊に如きて女を逆ふ。齊の陳無宇女を送り、少姜を致す。少姜晉侯に寵有り、晉侯之を少齊と謂ふ。陳無宇を卿に非ずと謂ひて、諸を中都に執ふ。少姜之が為に請ひて曰く、「送るは逆ふるの班に從ふ。大國を畏るるなり。猶ほ易ふる所有り、是を以って亂作る」と。叔弓晉に聘す、宣子に報ゆるなり。晉侯郊勞せしむ。辭して曰く、「寡君弓をして來りて舊好を繼がしむ」と。固(かた)く曰く、「『女(なんぢ)敢へて賓と為る無かれ』と。命を執事に徹すれば、敝邑弘(おほ)いなり。敢へて郊使を辱めんや。請ふ辭せん」と。館を致す。辭して曰く、「寡君下臣に命じて來りて舊好を繼がしむ。好合し使成るは、臣の祿なり。敢へて大館を辱めんや」と。叔向曰く、「子叔子は禮を知れるかな。吾之を聞けり、曰く、『忠信は禮の器なり。卑讓は禮の宗なり。辭して國を忘れざるは、忠信なり。國を先にして己を後にするは、卑讓なり』と。《詩》に曰く、『威儀を敬慎し、以って有德に近づく』と。夫子は德に近し」と。
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『春秋左氏伝』昭公七年 礼は人の幹なり九月、公楚より至る。孟僖子病みて禮を相くる能はず。乃ち之を講學し、苟も禮を能くする者あれば之に從ふ。其の將に死せんとするに及びて、其の大夫を召して曰く、「禮は、人の幹なり。禮無ければ以って立つ無し。吾聞く、將に達者有らんとす、孔丘と曰ふ、と。聖人の後なり。而して宋に滅ぶ。其の祖弗父何、以って宋を有つべくして厲公に授く。正考父に及びて、戴・武・宣を佐け、三命茲に益々共む。故に其の鼎の銘に云ふ、『一命して僂み、再命して傴み、三命して俯す。牆に循ひて走る。亦た余を敢へて侮る莫し。是に饘し、是に鬻して、以って余が口を餬す』と。其の共なるや是くの如し。臧孫紇言へる有りて曰く、『聖人の明德有る者、若し世に當たらずんば、其の後必ず達人有り』と。今其れ將に孔丘に在らんか。我若し沒するを獲ば、必ず說と何忌とを夫子に屬して、之に事へて禮を學ばしめ、以って其の位を定めよ」と。故に孟懿子と南宮敬叔と、仲尼に師事す。仲尼曰く、「能く過ちを補ふ者は、君子なり。詩に曰く、『君子是れ則り是れ效ふ』と。孟僖子は則り效ふべきのみ」と。單の獻公親を棄てて羈を用ふ。冬、十月、辛酉、襄・頃の族、獻公を殺して成公を立つ。
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