春秋左氏伝 / 襄公二十六年 子産、邑を辞す
鄭伯賞入陳之功。三月。甲寅。朔。享子展。賜之先路三命之服。先八邑。賜子產次路再命之服。先六邑。子產辭邑。曰:自上以下。隆殺。以兩。禮也。臣之位在四。且子展之功也。臣不敢及賞禮。請辭邑。公固予之。乃受三邑。公孫揮曰:子產其將知政矣。讓不失禮。晉人為孫氏故。召諸侯。將以討衛也。夏。中行穆子來聘。召公也。
新字:鄭伯賞入陳之功。三月。甲寅。朔。享子展。賜之先路三命之服。先八邑。賜子産次路再命之服。先六邑。子産辞邑。曰:自上以下。隆殺。以両。礼也。臣之位在四。且子展之功也。臣不敢及賞礼。請辞邑。公固予之。乃受三邑。公孫揮曰:子産其将知政矣。譲不失礼。晋人為孫氏故。召諸侯。将以討衛也。夏。中行穆子来聘。召公也。
書き下し
鄭伯陳に入るの功を賞す。三月、甲寅、朔、子展を享し、之に先路と三命の服を賜ひ、先づ八邑。子產に次路と再命の服を賜ひ、先づ六邑。子產邑を辭して曰く、「上より以下、隆殺するに兩を以てするは、禮なり。臣の位は四に在り。且つ子展の功なり。臣敢へて賞禮に及ばず。請ふ邑を辭せん」と。公固く之を予ふ。乃ち三邑を受く。公孫揮曰く、「子產其れ將に政を知らんとす。讓りて禮を失はず」と。晉人孫氏の故の為に諸侯を召し、將に以て衛を討たんとす。夏、中行穆子來聘す。公を召すなり。
現代語訳
鄭伯(簡公)は、陳に攻め入った功を賞した。三月甲寅の朔日、子展を饗応し、先路(王から賜った上等の車)と三命(上卿)の礼服を与え、それに先立って八つの邑を与えた。子産には次路(二等の車)と再命(卿)の礼服を与え、それに先立って六つの邑を与えた。子産は邑を辞退して言った。「上の位から下へ、二つずつ減らしていくのが礼です。私の位は四番目です。それにこの戦いは子展の功です。私は褒賞の礼を受けるほどではありません。どうか邑はご辞退させてください」。簡公はそれでも強いて与えようとしたので、子産は三つの邑だけを受け取った。公孫揮(子羽)は言った。「子産はいずれ国政を担うだろう。謙譲しながらも礼を失っていない」。晋の人々は孫氏のために諸侯を招集し、衛を討とうとした。夏、中行穆子(荀呉)が魯に来て聘問した。魯公を会合に招くためである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』僖公二十四年 介之推の隠遁晉侯亡に從ふ者を賞す。介之推祿を言はず、祿も亦た及ばず。推曰く、「獻公の子九人、唯だ君のみ在り。惠・懷は親無く、外內之を棄つ。天未だ晉を絕たず、必ず將に主有らんとす。晉の祀を主る者は、君に非ずして誰ぞ。天實に之を置く、而るに二三子以て己の力と為す、亦た誣ひならずや。人の財を竊むすら、猶ほ之を盜と謂ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を義とし、上は其の姦を賞す。上下相蒙く、與に處り難し」と。其の母曰く、「盍ぞ亦た之を求めざる。以て死すとも誰をか懟まん」と。對へて曰く、「尤めて之に效ふは、罪又甚だし。且つ怨言を出だせり、其の食を食まず」と。其の母曰く、「亦た之を知らしめば、若何」と。對へて曰く、「言は、身の文なり。身將に隱れんとす、焉んぞ之を文るを用ゐん。是れ顯はるるを求むるなり」と。其の母曰く、「能く是くの如くならんか。女と偕に隱れん」と。遂に隱れて死す。晉侯之を求めて獲ず、綿上を以て之が田と為して、曰く、「以て吾が過ちを志し、且つ善人を旌さん」と。鄭の滑に入るや、滑人命を聽く。師還れば、又衛に即く。鄭の公子士・洩堵俞彌師を帥ゐて滑を伐つ。王伯服・游孫伯をして鄭に如きて滑を請はしむ。鄭伯惠王の入りて厲公に爵を與へざるを怨み、又襄王の衛・滑に與するを怨む。故に王命を聽かずして二子を執ふ。王怒りて、將に狄を以て鄭を伐たんとす。
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『春秋左氏伝』定公九年 東郭書と犁彌、功を譲る秋、齊侯、晉の夷儀を伐つ。敝無存の父、將に之に室せんとす。辭して以て其の弟に與へて曰く、「此の役や、死せずんば、反りて必ず高・國に取らん」と。先登して、門より出でんことを求め、霤下に死す。東郭書、登るを讓る。犁彌、之に從ひて曰く、「子は讓りて左せよ、我は讓りて右せん。登る者をして絕えしめて後に下らん」と。書は左し、彌は先に下る。書、王猛と息ふ。猛曰く、「我、先に登れり」と。書、甲を斂めて曰く、「曩者の難あり、今又難ぜんとす」と。猛、笑ひて曰く、「吾、子に從はん、驂の靳に如かん」と。晉の車千乘、中牟に在り。衛侯、將に五氏に如かんとし、之を過ぐることを卜す。龜焦ぐ。衛侯曰く、「可なり。衛の車、其の半ばに當たり、寡人、其の半ばに當たらば、敵せん」と。乃ち中牟を過ぐ。中牟の人、之を伐たんと欲す。衛の褚師圃、亡げて中牟に在り。曰く、「衛は小なりと雖も、其の君在り、未だ勝つべからざるなり。齊の師は城に克ちて驕り、其の帥又賤し。遇はば必ず之を敗らん。齊に從ふに如かず」と。乃ち齊の師を伐ちて之を敗る。齊侯、禚・媚・杏を衛に致す。齊侯、犁彌を賞す。犁彌辭して曰く、「先に登る者有り、臣、之に從ふ。皙幘にして貍製を衣る」と。公、東郭書を視しむ。曰く、「乃ち夫子なり。吾、子に貺らん」と。公、東郭書を賞す。辭して曰く、「彼は賓旅なり」と。乃ち犁彌を賞す。齊の師の夷儀に在るや、齊侯、夷儀の人に謂ひて曰く、「敝無存を得る者は、五家を以て免ぜん」と。乃ち其の尸を得。公、三たび之に襚し、之に犀軒と直蓋とを與へて、先づ之を歸す。引く者を坐せしめ、師を以て之を哭し、親ら之を推すこと三たびす。
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史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
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『春秋左氏伝』僖公十二年 管仲、上卿の礼を辞す十二年春、諸侯衛の楚丘の郛に城く、狄の難を懼るればなり。黃人諸侯の齊に睦まじきを恃み、楚の職を共せずして曰く、「郢より我に及ぶまで九百里、焉んぞ能く我を害せん」と。夏、楚黃を滅ぼす。王戎の難の故を以て、王子帶を討つ。秋、王子帶齊に奔る。冬、齊侯管夷吾をして戎を王に平らがしめ、隰朋をして戎を晉に平らがしむ。王上卿の禮を以て管仲を饗す。管仲辭して曰く、「臣は、賤しき有司なり。天子の二守國・高在る有り。若し春秋に節して、來りて王命を承けば、何を以てか之を禮せん。陪臣敢へて辭す」と。王曰く、「舅氏、余乃の勳を嘉し、乃の懿德に應ず、督めて忘れずと謂ふ。往きて乃の職を踐め、朕が命に逆ふこと無かれ」と。管仲下卿の禮を受けて還る。君子曰く、「管氏の世々祀らるるや、宜なるかな。讓りて其の上を忘れず。《詩》に曰く、『愷悌の君子は、神の勞する所なり』と」。
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『春秋左氏伝』僖公八年 能く国を以て譲る八年春、洮に盟ふ、王室を謀るなり。鄭伯盟を乞ふ、服せんことを請ふなり。襄王位を定めて而る後に喪を發す。晉の里克師を帥ゐ、梁由靡御し、虢射右と為り、以て狄を采桑に敗る。梁由靡曰く、「狄は恥無し、之を從はば必ず大いに克たん」と。里克曰く、「之を懼れしむるのみ、眾狄を速くこと無かれ」と。虢射曰く、「期年にして狄必ず至らん、之に弱きを示せり」と。夏、狄晉を伐つ、采桑の役に報ゆるなり、期月に復す。秋、禘して哀姜を致す、禮に非ざるなり。凡そ夫人寢に薨ぜず、廟に殯せず、同に赴げず、姑に祔せずんば、則ち致さざるなり。冬、王人來りて喪を告ぐ、難の故なり、是を以て緩し。宋公疾む。大子茲父固く請ひて曰く、「目夷は長にして且つ仁なり、君其れ之を立てよ」と。公子魚に命ず。子魚辭して曰く、「能く國を以て讓る、仁孰れか焉より大ならん。臣及ばざるなり。且つ又順ならず」と。遂に走りて退く。
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『春秋左氏伝』哀公十一年 孟之側、馬進まず請ふ三刻して之を踰えん」と。之の如くす。眾之に從ふ。師齊の軍に入る。右師奔る。齊人之を從ふ。陳瓘・陳莊、泗を涉る。孟之側後れて入り、以て殿と為る。矢を抽きて其の馬に策(むちう)ちて曰く、「馬進まざるなり」と。林不狃の伍曰く、「走らんか」と。不狃曰く、「誰か如かざる」と。曰く、「然らば則ち止まらんか」と。不狃曰く、「惡(いづく)んぞ賢ならん」と。徐ろに步みて死す。師甲首八十を獲たり。齊人師を能くせず。宵に諜して曰く、「齊人遁る」と。冉有之を從はんことを請ふこと三たび、季孫許さず。孟孺子人に語りて曰く、「我は顏羽に如かず、而れども邴洩より賢る。子羽は銳敏なり。我は戰ふを欲せずして能く默す。洩は曰く、『之を驅れ』と」。公為其の嬖僮汪錡と乘り、皆死す。皆殯す。孔子曰く、「能く干戈を執りて以て社稷を衛る。殤とすること無かる可し」と。冉有矛を齊の師に用ゐる、故に能く其の軍に入る。孔子曰く、「義なり」と。
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