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史記 / 李将軍列伝

用此,其將兵數困辱,其射猛獸亦爲所傷云。居頃之,石建卒,於是上召廣代建爲郎中令。元朔六年,廣復爲後將軍,從大將軍軍出定襄,擊匈奴。諸將多中首虜率以功爲侯者,而廣軍無功。後二歳,廣以郎中令將四千騎出右北平,博望侯張騫將萬騎與廣俱,異道。行可數百里,匈奴左賢王將四萬騎圍廣,廣軍士皆恐,廣乃使其子敢往馳之。敢獨與數十騎馳,直貫胡騎,出其左右而還,告廣曰:「胡虜易與耳。」軍士乃安。廣爲圜陳外向,胡急擊之,矢下如雨。漢兵死者過半,漢矢且盡。廣乃令士持滿毋發,而廣身自以大黃射其裨將,殺數人,胡虜益解。會日暮,吏士皆無人色,而廣意氣自如,益治軍。軍中自是服其勇也。明日,復力戰,而博望侯軍亦至,匈奴軍乃解去。漢軍罷,弗能追。是時廣軍幾沒,罷歸。漢法,博望侯留遲後期,當死,贖爲庶人。廣軍功自如,無賞。初,廣之從弟李蔡與廣俱事孝文帝。景帝時,蔡積功勞至二千石。孝武帝時,至代相。以元朔五年爲輕車將車,從大將軍擊右賢王,有功中率,封爲樂安侯。元狩二年中,代公孫弘爲丞相。蔡爲人在下中,名聲出廣下甚遠,然廣不得爵邑,官不過九卿,而蔡爲列侯,位至三公。

新字:用此,其将兵数困辱,其射猛獣亦為所傷云。居頃之,石建卒,於是上召広代建為郎中令。元朔六年,広復為後将軍,従大将軍軍出定襄,撃匈奴。諸将多中首虜率以功為侯者,而広軍無功。後二歳,広以郎中令将四千騎出右北平,博望侯張騫将万騎与広倶,異道。行可数百里,匈奴左賢王将四万騎囲広,広軍士皆恐,広乃使其子敢往馳之。敢独与数十騎馳,直貫胡騎,出其左右而還,告広曰:「胡虜易与耳。」軍士乃安。広為圜陳外向,胡急撃之,矢下如雨。漢兵死者過半,漢矢且尽。広乃令士持満毋発,而広身自以大黄射其裨将,殺数人,胡虜益解。会日暮,吏士皆無人色,而広意気自如,益治軍。軍中自是服其勇也。明日,復力戦,而博望侯軍亦至,匈奴軍乃解去。漢軍罷,弗能追。是時広軍幾没,罷帰。漢法,博望侯留遅後期,当死,贖為庶人。広軍功自如,無賞。初,広之従弟李蔡与広倶事孝文帝。景帝時,蔡積功労至二千石。孝武帝時,至代相。以元朔五年為軽車将車,従大将軍撃右賢王,有功中率,封為楽安侯。元狩二年中,代公孫弘為丞相。蔡為人在下中,名声出広下甚遠,然広不得爵邑,官不過九卿,而蔡為列侯,位至三公。

書き下し

此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。

現代語訳

このように(敵が射程内に入るまで射なかったので)、李広は兵を率いてたびたび苦境に陥り辱めを受け、猛獣を射る時もまた傷を負わされたという。しばらくして石建が亡くなると、天子は李広を召して石建に代わって郎中令とした。元朔六年、李広は再び後将軍となり、大将軍(衛青)の軍に従って定襄から出撃し、匈奴を攻撃した。諸将の多くは、斬首・捕虜の数が規定の基準に達して、その功により侯となったが、李広の軍には手柄がなかった。二年後、李広は郎中令として四千騎を率いて右北平から出撃した。博望侯張騫が一万騎を率いて李広とともに出撃したが、別の道をとった。数百里ほど進んだところで、匈奴の左賢王が四万騎を率いて李広を包囲した。李広の兵士たちは皆恐れた。李広はそこで息子の李敢を敵に向かって馬を走らせた。李敢はわずか数十騎とともに駆け出し、まっすぐ匈奴の騎兵の中を突き抜け、その左右に出て戻ってきて、李広に「匈奴など、たやすい相手だ」と報告した。兵士たちはそれでようやく落ち着いた。李広は円陣を組んで外に向かって構えた。匈奴は激しく攻撃し、矢が雨のように降り注いだ。漢の兵は半数以上が死に、矢も尽きかけた。李広は兵士たちに弓を引き絞ったまま射るなと命じ、自ら大黄(大型の弩)でその副将を射て、数人を殺した。匈奴の攻撃はしだいに緩んだ。ちょうど日が暮れ、将校も兵士も皆血の気を失っていたが、李広は意気も平常どおりで、ますます軍を整えた。軍中の者はこれ以来、その勇気に心服した。翌日もまた力戦し、博望侯の軍も到着したので、匈奴の軍はようやく包囲を解いて去った。漢の軍は疲れきっていて追撃できなかった。この時、李広の軍はほとんど全滅しかけており、戦いをやめて帰還した。漢の法により、博望侯は行軍が遅れて期日に遅れたので死罪に当たるとされ、金で贖って庶民となった。李広の軍功は損失と相殺されて、恩賞はなかった。これより前、李広のいとこの李蔡は李広とともに孝文帝に仕えた。景帝の時、李蔡は功労を積んで二千石に至り、孝武帝の時には代の相にまでなった。元朔五年に軽車将軍となって大将軍に従って右賢王を攻撃し、功が基準に達したので楽安侯に封じられた。元狩二年のうちに、公孫弘に代わって丞相となった。李蔡の人柄は下の中程度で、名声は李広にはるかに及ばなかった。それなのに李広は爵位も封邑も得られず、官は九卿止まりであったのに、李蔡は列侯となり、位は三公にまで至った。

解説

李広の奮戦と、報われない軍功を対比させた段です。李広は敵が十分近づくまで矢を放たない戦い方をしたため、たびたび危機に陥ったと記されます。元朔六年の衛青の遠征では、他の将が戦果の基準を満たして侯となる中、李広の軍だけが手柄を立てられませんでした。二年後、四千騎で出撃した李広は、左賢王の四万騎に包囲されます。息子の李敢を敵陣に突撃させて兵を落ち着かせ、矢が尽きかけると自ら大型の弩で敵の副将を射倒し、全軍が血の気を失う中でも平然と陣を整えました。この勇姿に兵は心服しますが、軍はほぼ全滅し、恩賞はありませんでした。一方、人柄も名声も李広にはるかに及ばない従弟の李蔡は、基準どおりの戦功を積んで列侯となり、丞相にまで上ります。英雄的な戦いぶりと、制度上の評価の間にある大きな溝を、司馬遷は淡々と並べて見せています。組織の評価基準に乗らない活躍は、どれほど見事でも報われにくいのです。

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