春秋左氏伝 / 哀公元年 夫差は先づ自ら敗る
秋,八月,吳侵陳,脩舊怨也。齊侯、衛侯會于乾侯,救范氏也。師及齊師,衛孔圉鮮虞人伐晉,取棘蒲。吳師在陳,楚大夫皆懼曰:「闔廬惟能用其民,以敗我於柏舉,今聞其嗣又甚焉,將若之何?」子西曰:「二三子恤不相睦,無患吳矣。昔闔廬食不二味,居不重席,室不崇壇,器不彤鏤,宮室不觀,舟車不飾,衣服財用,擇不取費;在國,天有菑癘,親巡其孤寡,而共其乏困;在軍,熟食者分而後敢食,其所嘗者,卒乘與焉,勤恤其民,而與之勞逸:是以民不罷勞,死不知曠,吾先大夫子常易之,所以敗我也。今聞夫差,次有臺榭陂池焉,宿有妃嬙嬪御焉,一日之行,所欲必成,玩好必從,珍異是聚,觀樂是務,視民如讎,而用之日新,夫先自敗也已,安能敗我?」冬,十一月,晉趙鞅伐朝歌。
新字:秋,八月,呉侵陳,脩旧怨也。斉侯、衛侯会于乾侯,救范氏也。師及斉師,衛孔圉鮮虞人伐晋,取棘蒲。呉師在陳,楚大夫皆懼曰:「闔廬惟能用其民,以敗我於柏舉,今聞其嗣又甚焉,将若之何?」子西曰:「二三子恤不相睦,無患呉矣。昔闔廬食不二味,居不重席,室不崇壇,器不彤鏤,宮室不観,舟車不飾,衣服財用,択不取費;在国,天有菑癘,親巡其孤寡,而共其乏困;在軍,熟食者分而後敢食,其所嘗者,卒乗与焉,勤恤其民,而与之労逸:是以民不罷労,死不知曠,吾先大夫子常易之,所以敗我也。今聞夫差,次有台榭陂池焉,宿有妃嬙嬪御焉,一日之行,所欲必成,玩好必従,珍異是聚,観楽是務,視民如讎,而用之日新,夫先自敗也已,安能敗我?」冬,十一月,晋趙鞅伐朝歌。
書き下し
秋、八月、吳、陳を侵す。舊怨を脩むるなり。齊侯・衛侯、乾侯に會す。范氏を救ふなり。師、齊師・衛の孔圉・鮮虞人に及び、晉を伐ちて棘蒲を取る。吳の師陳に在り。楚の大夫皆懼れて曰く、「闔廬は惟だ能く其の民を用ゐて、以て我を柏舉に敗れり。今聞く、其の嗣又焉より甚だし、と。將に之を若何せん」と。子西曰く、「二三子は相睦まざるを恤へよ。吳を患ふること無かれ。昔、闔廬は食に味を二にせず、居るに席を重ねず、室は壇を崇くせず、器は彤鏤せず、宮室は觀せず、舟車は飾らず、衣服財用は、擇びて費を取らず。國に在りては、天に菑癘有れば、親ら其の孤寡を巡りて、其の乏困に共す。軍に在りては、熟食する者分かちて而る後に敢へて食ふ。其の嘗むる所は、卒乘焉に與る。勤めて其の民を恤みて、之と勞逸を與にす。是を以て民罷勞せず、死して曠しきを知らず。吾が先大夫子常は之に易(か)はる。我を敗りし所以なり。今聞く、夫差は、次(やど)るに臺榭陂池有り、宿るに妃嬙嬪御有り。一日の行も、欲する所は必ず成し、玩好は必ず從へ、珍異を是れ聚め、觀樂を是れ務む。民を視ること讎の如くして、之を用ゐること日に新たなり。夫れ先づ自ら敗るるのみ。安んぞ能く我を敗らん」と。冬、十一月、晉の趙鞅、朝歌を伐つ。
現代語訳
秋八月、呉は陳に侵攻した。以前からの怨みを晴らすためである。斉侯と衛侯は乾侯で会合した。范氏を救うためである。魯の軍は、斉の軍、衛の孔圉(こうぎょ)、鮮虞の人々とともに晋を攻め、棘蒲を取った。呉の軍が陳にいるとき、楚の大夫たちはみな恐れて言った。「闔廬(先代の呉王)はよく民を使いこなして、柏挙でわが国を破った。いま聞けば、その跡継ぎ(夫差)はさらに上をいくという。どうしたものか」。子西(楚の令尹)は言った。「諸君は自分たちが互いに睦まじくないことをこそ憂えよ。呉を心配することはない。かつて闔廬は、食事にはおかずを二品と並べず、座るには敷物を重ねず、部屋は土台を高くせず、器には朱塗りや彫刻をせず、宮殿には物見の楼を設けず、舟や車は飾らず、衣服や日用の品は、費用のかからないものを選んだ。国にあっては、天災や疫病があれば自ら孤児ややもめを見舞い、その窮乏を救った。軍にあっては、兵士たちに煮炊きした食事が行き渡ってから、はじめて自分も食べた。自分が口にするものは、兵卒たちにも分け与えた。つとめて民をいたわり、苦労も安楽も民と共にした。だから民は疲れを覚えず、死んでもその死が無駄だとは思わなかった。わが国の先の大夫子常(しじょう)はその逆をやった。それがわが国の敗れた理由である。いま聞くところでは、夫差は、宿営地には高殿や池をしつらえ、泊まるところには妃や侍女をはべらせている。一日の外出でも、欲しいものは必ず手に入れ、愛玩の品は必ず携え、珍しいものを集め、見物や音楽にばかりふけっている。民を仇敵のように見ながら、次々と新たに使役している。これはまず自分で自分を打ち負かしているのだ。どうしてわが国を打ち負かせようか」。冬十一月、晋の趙鞅が朝歌を攻めた。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・應務・一の拙法有り世人の相與するは、面上に非ざれば則ち口中なり。人の心は固より面と口とに掩ふ能はず。而して測る可からざる者は則ち面と口とに盡きざるなり。故に惟だ人心のみ最も畏る可く、人心最も知る可からず。此れ天下の陷阱にして、古今生死の衢なり。余に一の拙法有り。之を推すに至誠を以てし、之を施すに至厚を以てし、之を持するに至慎を以てし、是非を遠ざけ、利名を讓り、後下に處せば、則ち夷狄鳥獸も骨肉腹心とす可し。將に深き者をして且つ心を傾けしめ、險なる者をして且つ德に化せしめんとす。而して何ぞ陷阱の予に及ばんや。
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史記 項羽本紀項王乃ち海春侯大司馬曹咎等に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ、則ち漢挑戦せんと欲するも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる毋きのみ。我十五日にして必ず彭越を誅し、梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち東し、行くゆく陳留・外黄を撃つ。外黄下らず。数日にして、已に降る、項王怒り、悉く男子の年十五已上をして城東に詣らしめ、之を阬にせんと欲す。外黄の令の舎人の児年十三、往きて項王に説きて曰く、「彭越彊ひて外黄を劫かす、外黄恐る、故に且く降りて、大王を待つ。大王至りて、又皆之を阬にせば、百姓豈に帰心有らんや。此より以東、梁の地十余城皆恐れ、肯へて下る莫からん。」と。項王其の言を然りとし、乃ち外黄の当に阬にすべき者を赦す。東して睢陽に至る、之を聞きて皆争ひて項王に下る。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑みて戦はんとす、楚の軍出でず。人をして之を辱めしむること、五六日、大司馬怒り、兵を汜水に渡す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の貨賂を得たり。大司馬咎・長史翳・塞王欣皆汜水の上に自剄す。大司馬咎は、故の蘄の獄掾、長史欣も亦故の櫟陽の獄吏、両人嘗て項梁に徳有り、是を以て項王之を信任す。是の時に当たりて、項王睢陽に在り、海春侯の軍敗るると聞き、則ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項王至る、漢の軍楚を畏れ、尽く険阻に走る。是の時、漢の兵盛んにして食多く、項王の兵罷れて食絶ゆ。漢陸賈を遣はして項王に説き、太公を請はしむ、項王聴かず。漢王復た侯公をして往きて項王に説かしむ、項王乃ち漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を割く者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。項王之を許し、即ち漢王の父母妻子を帰す。軍皆万歳を呼ぶ。漢王乃ち侯公を封じて平国君と為す。匿れて肯へて復た見えず。
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