春秋左氏伝 / 哀公元年 民を視ること傷むが如し
三月,越及吳平,吳入越不書。吳不告慶,越不告敗也。夏,四月,齊侯、衛侯救邯鄲,圍五鹿。吳之入楚也,使召陳懷公,懷公朝國人而問焉,曰:「欲與楚者右,欲與吳者左。陳人從田,無田從黨。」逢滑當公而進曰:「臣聞國之興也以福,其亡也以禍。今吳未有福,楚未有禍,楚未可棄,吳未可從;而晉盟主也,若以晉辭,吳若何?」公曰:「國勝君亡,非禍而何?」對曰:「國之有是多矣,何必不復?小國猶復,況大國乎?臣聞國之興也,視民如傷,是其福也;其亡也,以民為土芥,是其禍也。楚雖無德,亦不艾殺其民;吳日敝於兵,暴骨如莽,而未見德焉。天其或者正訓楚也,禍之適吳,其何日之有?」陳侯從之,及夫差克越,乃脩先君之怨。
新字:三月,越及呉平,呉入越不書。呉不告慶,越不告敗也。夏,四月,斉侯、衛侯救邯鄲,囲五鹿。呉之入楚也,使召陳懐公,懐公朝国人而問焉,曰:「欲与楚者右,欲与呉者左。陳人従田,無田従党。」逢滑当公而進曰:「臣聞国之興也以福,其亡也以禍。今呉未有福,楚未有禍,楚未可棄,呉未可従;而晋盟主也,若以晋辞,呉若何?」公曰:「国勝君亡,非禍而何?」対曰:「国之有是多矣,何必不復?小国猶復,況大国乎?臣聞国之興也,視民如傷,是其福也;其亡也,以民為土芥,是其禍也。楚雖無徳,亦不艾殺其民;呉日敝於兵,暴骨如莽,而未見徳焉。天其或者正訓楚也,禍之適呉,其何日之有?」陳侯従之,及夫差克越,乃脩先君之怨。
書き下し
三月、越、吳と平らぐ。吳の越に入るを書せざるは、吳は慶を告げず、越は敗を告げざればなり。夏、四月、齊侯・衛侯、邯鄲を救ひ、五鹿を圍む。吳の楚に入るや、陳の懷公を召さしむ。懷公國人を朝して問ひて曰く、「楚に與せんと欲する者は右し、吳に與せんと欲する者は左せよ。陳人は田に從ひ、田無き者は黨に從へ」と。逢滑、公に當りて進みて曰く、「臣聞く、國の興るや福を以てし、其の亡ぶるや禍を以てす、と。今吳は未だ福有らず、楚は未だ禍有らず。楚は未だ棄つべからず、吳は未だ從ふべからず。而して晉は盟主なり。若し晉を以て辭せば、吳若何せん」と。公曰く、「國勝たれて君亡ぶ、禍に非ずして何ぞ」と。對へて曰く、「國の是れ有るは多し。何ぞ必ずしも復せざらん。小國すら猶ほ復す、況んや大國をや。臣聞く、國の興るや、民を視ること傷むが如し、是れ其の福なり。其の亡ぶるや、民を以て土芥と為す、是れ其の禍なり。楚は德無しと雖も、亦た其の民を艾殺せず。吳は日に兵に敝れ、骨を暴すこと莽の如くして、未だ德を見ず。天其れ或いは正に楚を訓ふるなり。禍の吳に適くは、其れ何の日か之れ有らん」と。陳侯之に從ふ。夫差の越に克つに及び、乃ち先君の怨みを脩む。
現代語訳
三月、越は呉と講和した。『春秋』が呉の越侵入を記さないのは、呉が戦勝を諸侯に通告せず、越も敗戦を通告しなかったからである。夏四月、斉侯と衛侯は邯鄲を救うため、(晋の)五鹿を包囲した。かつて呉が楚に攻め入ったとき、呉は陳の懐公を呼び寄せようとした。懐公は国の人々を朝廷に集めて問うた。「楚につきたい者は右へ、呉につきたい者は左へ寄れ。陳の人は自分の田のある方角に従い、田を持たない者は一族に従え」。逢滑(ほうかつ)が公の正面に進み出て言った。「私はこう聞いております。国が興るのは福によってであり、国が亡ぶのは禍によってである、と。いま呉にはまだ福がなく、楚にはまだ禍がありません。楚はまだ見捨てるべきではなく、呉にはまだ従うべきではありません。しかも晋が盟主です。晋との盟約を理由に断れば、呉とてどうしようもありますまい」。公は言った。「国が敗れて君(楚の昭王)が逃げ出したのだ。これが禍でなくて何か」。逢滑は答えた。「国にそうしたことがあるのは珍しくありません。どうして必ず立ち直らないと言えましょう。小国でさえ立ち直るのです。まして大国ならなおさらです。私はこう聞いております。国が興るときは、民を傷を負った人のように見ていたわる。これがその福です。国が亡ぶときは、民を土くれや芥のように扱う。これがその禍です。楚は徳がないとはいえ、その民をむやみに殺しはしません。呉は日ごとに戦争で疲弊し、兵の骨が草むらのように野にさらされていますが、いまだ徳を示したことがありません。天はあるいは、ちょうど楚を戒めているのでしょう。禍が呉に及ぶのも、そう遠い日ではありますまい」。陳侯はこれに従った。夫差が越に勝つと、呉は先君(闔廬)のときの陳への怨みを晴らしにかかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公元年 夫差は先づ自ら敗る秋、八月、吳、陳を侵す。舊怨を脩むるなり。齊侯・衛侯、乾侯に會す。范氏を救ふなり。師、齊師・衛の孔圉・鮮虞人に及び、晉を伐ちて棘蒲を取る。吳の師陳に在り。楚の大夫皆懼れて曰く、「闔廬は惟だ能く其の民を用ゐて、以て我を柏舉に敗れり。今聞く、其の嗣又焉より甚だし、と。將に之を若何せん」と。子西曰く、「二三子は相睦まざるを恤へよ。吳を患ふること無かれ。昔、闔廬は食に味を二にせず、居るに席を重ねず、室は壇を崇くせず、器は彤鏤せず、宮室は觀せず、舟車は飾らず、衣服財用は、擇びて費を取らず。國に在りては、天に菑癘有れば、親ら其の孤寡を巡りて、其の乏困に共す。軍に在りては、熟食する者分かちて而る後に敢へて食ふ。其の嘗むる所は、卒乘焉に與る。勤めて其の民を恤みて、之と勞逸を與にす。是を以て民罷勞せず、死して曠しきを知らず。吾が先大夫子常は之に易(か)はる。我を敗りし所以なり。今聞く、夫差は、次(やど)るに臺榭陂池有り、宿るに妃嬙嬪御有り。一日の行も、欲する所は必ず成し、玩好は必ず從へ、珍異を是れ聚め、觀樂を是れ務む。民を視ること讎の如くして、之を用ゐること日に新たなり。夫れ先づ自ら敗るるのみ。安んぞ能く我を敗らん」と。冬、十一月、晉の趙鞅、朝歌を伐つ。
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『春秋左氏伝』哀公二十一年・二十二年 越、呉を滅ぼす二十一年夏五月、越人始めて來る。秋八月、公、齊侯・邾子と顧に盟ふ。齊人、稽首を責め、因りて之を歌ひて曰く、「魯人の皋、數年覺らず、我をして高く蹈ましむ。唯だ其の儒書、以て二國の憂と為る」と。是の行や、公、先づ陽穀に至る。齊の閭丘息曰く、「君、辱くも玉趾を舉げて、以て寡君の軍に在り。群臣將に傳遽して以て寡君に告げんとす。其の復るに比ぶ、君乃ち勤むる無からんや。僕人の未だ次せざるが為に、請ふ、館を舟道に除せん」と。辭して曰く、「敢へて僕人を勤めしめんや」と。二十二年夏四月、邾の隱公、齊より越に奔る。曰く、「吳、無道を為し、父を執へて子を立つ」と。越人之を歸す。大子革、越に奔る。冬十一月丁卯、越、吳を滅ぼす。吳王をして甬東に居らしめんと請ふ。辭して曰く、「孤老いたり。焉んぞ能く君に事へん」と。乃ち縊る。越人以て歸る。
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『春秋左氏伝』昭公元年 言を以て物を知る三月、甲辰、盟ふ。楚の公子圍服を設け衛を離ぬ。叔孫穆子曰く、「楚の公子美なり、君なるかな」と。鄭の子皮曰く、「二執戈の者前めり」と。蔡の子家曰く、「蒲宮に前有り、亦た可ならずや」と。楚の伯州犁曰く、「此の行や、辭して之を寡君に假れり」と。鄭の行人揮曰く、「假りて反さざらん」と。伯州犁曰く、「子姑く子皙の背誕せんと欲するを憂へよ」と。子羽曰く、「當璧猶ほ在り。假りて反さずとも、子其れ憂ひ無からんや」と。齊の國子曰く、「吾二子に代りて愍ふ」と。陳の公子招曰く、「憂へずんば何ぞ成らん。二子樂しめり」と。衛の齊子曰く、「苟くも或いは之を知らば、憂ふと雖も何ぞ害あらん」と。宋の合左師曰く、「大國令し、小國共す。吾共するを知るのみ」と。晉の樂王鮒曰く、「小旻の卒章善し。吾之に從はん」と。會より退く。子羽子皮に謂ひて曰く、「叔孫は絞にして婉、宋の左師は簡にして禮、樂王鮒は字しみて敬す。子と子家とは之を持す。皆保世の主なり。齊・衛・陳の大夫は、其れ免れざらんか。國子は人に代りて憂ひ、子招は憂ひを樂しみ、齊子は憂ふと雖も害せずとす。夫れ及ばずして憂ふると、憂ふべくして樂しむと、憂へて害せずとするとは、皆憂ひを取るの道なり。憂ひ必ず之に及ばん。大誓に曰く、『民の欲する所は、天必ず之に從ふ』と。三大夫憂ひを兆す、能く至ること無からんや。言以て物を知るとは、其れ是の謂なり」と。
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『春秋左氏伝』哀公二十七年 謀は始・衷・終を挙ぐ齊に敵することを卜せず」と。成子に謂はしめて曰く、「大夫陳子は、陳の自りて出づるなり。陳の祀られざるは、鄭の罪なり。故に寡君、瑤をして陳の衷を察せしむ。謂ふ、大夫其れ陳を恤へんか、と。若し本の顛るるを利とせば、瑤何か有らん」と。成子怒りて曰く、「多く人を陵ぐ者は皆在らず。知伯其れ能く久しからんや」と。中行文子、成子に告げて曰く、「晉師より寅に告ぐる者有り。將に輕車千乘を為りて、以て齊師の門に厭せんとす、と。則ち盡す可きなり」と。成子曰く、「寡君、恆に命じて曰く、『寡に及ぶこと無かれ、衆を畏るること無かれ』と。千乘に過ぐと雖も、敢へて之を辟けんや。將に子の命を以て寡君に告げんとす」と。文子曰く、「吾乃ち今、亡ぶる所以を知る。君子の謀るや、始・衷・終、皆之を舉げて、而る後に焉に入る。今、我、三つながら知らずして之に入る。亦た難からずや」と。公、三桓の侈を患へ、諸侯を以て之を去らんと欲す。三桓も亦た公の妄を患ふ。故に君臣、間多し。公、陵阪に游び、孟武伯に孟氏の衢に遇ひて曰く、「請ふ、子に問ふこと有らん。余、死に及ばんか」と。對へて曰く、「臣、由りて之を知る無し」と。三たび問ふ。卒に辭して對へず。公、越を以て魯を伐ちて三桓を去らんと欲す。秋八月甲戌、公、公孫有陘氏に如き、因りて邾に孫れ、乃ち遂に越に如く。國人、公孫有山氏に施す。
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『春秋左氏伝』昭公元年 信を以て本と為す國家罷れず、民に謗讟無く、諸侯に怨み無く、天に大災無きは、子の力なり。令名有り。而るに之を終ふるに恥を以てせんことを、午や是れ懼る。吾子其れ以て戒めざるべからず」と。文子曰く、「武賜を受けたり。然れども宋の盟に、子木は人を禍するの心有り、武は人を仁するの心有り。是れ楚の晉に駕せし所以なり。今武猶ほ是の心なり。楚又僭を行ふも、害する所に非ざるなり。武將に信以て本と為し、循ひて之を行はんとす。譬へば農夫の如し。是れ穮し是れ蔉へば、饑饉有りと雖も、必ず豐年有り。且つ吾之を聞く、『能く信なれば人の下と為らず』と。吾未だ能くせざるなり。詩に曰く、『僭せず賊せざれば、則と為らざること鮮し』と。信なり。能く人の則と為る者は、人の下と為らず。吾能くせざるを是れ難しとす。楚は患ひと為らず」と。楚の令尹圍牲を用ゐて、舊書を讀み、牲の上に加へんのみと請ふ。晉人之を許す。
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『春秋左氏伝』哀公元年 越、会稽に保つ元年春、楚子蔡を圍む。柏舉に報ゆるなり。里にして栽(た)て、廣さ丈、高さ倍す。夫(ふ)屯すること晝夜九日、子西の素の如し。蔡人、男女以て辨(わか)つ。使ひて江・汝の間に疆(さかひ)せしめて還る。蔡是に於てか吳に遷らんことを請ふ。吳王夫差、越を夫椒に敗る。檇李に報ゆるなり。遂に越に入る。越子、甲楯五千を以て會稽に保ち、大夫種をして吳の大宰嚭に因りて以て成を行はしむ。
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