史記 / 項羽本紀
項王乃謂海春侯大司馬曹咎等曰:「謹守成皋,則漢欲挑戰,慎勿與戰,毋令得東而已。我十五日必誅彭越,定梁地,復從將軍。」乃東,行擊陳留、外黃。外黃不下。數日,已降,項王怒,悉令男子年十五已上詣城東,欲阬之。外黃令舍人兒年十三,往說項王曰:「彭越彊劫外黃,外黃恐,故且降,待大王。大王至,又皆阬之,百姓豈有歸心?從此以東,梁地十餘城皆恐,莫肯下矣。」項王然其言,乃赦外黃當阬者。東至睢陽,聞之皆爭下項王。漢果數挑楚軍戰,楚軍不出。使人辱之,五六日,大司馬怒,渡兵汜水。士卒半渡,漢擊之,大破楚軍,盡得楚國貨賂。大司馬咎、長史翳、塞王欣皆自剄汜水上。大司馬咎者,故蘄獄掾,長史欣亦故櫟陽獄吏,兩人嘗有德於項梁,是以項王信任之。當是時,項王在睢陽,聞海春侯軍敗,則引兵還。漢軍方圍鐘離眛於滎陽東,項王至,漢軍畏楚,盡走險阻。是時,漢兵盛食多,項王兵罷食絕。漢遣陸賈說項王,請太公,項王弗聽。漢王復使侯公往說項王,項王乃與漢約,中分天下,割鴻溝以西者為漢,鴻溝而東者為楚。項王許之,即歸漢王父母妻子。軍皆呼萬歲。漢王乃封侯公為平國君。匿弗肯復見。
新字:項王乃謂海春侯大司馬曹咎等曰:「謹守成皋,則漢欲挑戦,慎勿与戦,毋令得東而已。我十五日必誅彭越,定梁地,復従将軍。」乃東,行撃陳留、外黄。外黄不下。数日,已降,項王怒,悉令男子年十五已上詣城東,欲阬之。外黄令舎人児年十三,往説項王曰:「彭越彊劫外黄,外黄恐,故且降,待大王。大王至,又皆阬之,百姓豈有帰心?従此以東,梁地十余城皆恐,莫肯下矣。」項王然其言,乃赦外黄当阬者。東至睢陽,聞之皆争下項王。漢果数挑楚軍戦,楚軍不出。使人辱之,五六日,大司馬怒,渡兵汜水。士卒半渡,漢撃之,大破楚軍,尽得楚国貨賂。大司馬咎、長史翳、塞王欣皆自剄汜水上。大司馬咎者,故蘄獄掾,長史欣亦故櫟陽獄吏,両人嘗有徳於項梁,是以項王信任之。当是時,項王在睢陽,聞海春侯軍敗,則引兵還。漢軍方囲鐘離眛於滎陽東,項王至,漢軍畏楚,尽走険阻。是時,漢兵盛食多,項王兵罷食絶。漢遣陸賈説項王,請太公,項王弗聴。漢王復使侯公往説項王,項王乃与漢約,中分天下,割鴻溝以西者為漢,鴻溝而東者為楚。項王許之,即帰漢王父母妻子。軍皆呼万歳。漢王乃封侯公為平国君。匿弗肯復見。
書き下し
項王乃ち海春侯大司馬曹咎等に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ、則ち漢挑戦せんと欲するも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる毋きのみ。我十五日にして必ず彭越を誅し、梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち東し、行くゆく陳留・外黄を撃つ。外黄下らず。数日にして、已に降る、項王怒り、悉く男子の年十五已上をして城東に詣らしめ、之を阬にせんと欲す。外黄の令の舎人の児年十三、往きて項王に説きて曰く、「彭越彊ひて外黄を劫かす、外黄恐る、故に且く降りて、大王を待つ。大王至りて、又皆之を阬にせば、百姓豈に帰心有らんや。此より以東、梁の地十余城皆恐れ、肯へて下る莫からん。」と。項王其の言を然りとし、乃ち外黄の当に阬にすべき者を赦す。東して睢陽に至る、之を聞きて皆争ひて項王に下る。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑みて戦はんとす、楚の軍出でず。人をして之を辱めしむること、五六日、大司馬怒り、兵を汜水に渡す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の貨賂を得たり。大司馬咎・長史翳・塞王欣皆汜水の上に自剄す。大司馬咎は、故の蘄の獄掾、長史欣も亦故の櫟陽の獄吏、両人嘗て項梁に徳有り、是を以て項王之を信任す。是の時に当たりて、項王睢陽に在り、海春侯の軍敗るると聞き、則ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項王至る、漢の軍楚を畏れ、尽く険阻に走る。是の時、漢の兵盛んにして食多く、項王の兵罷れて食絶ゆ。漢陸賈を遣はして項王に説き、太公を請はしむ、項王聴かず。漢王復た侯公をして往きて項王に説かしむ、項王乃ち漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を割く者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。項王之を許し、即ち漢王の父母妻子を帰す。軍皆万歳を呼ぶ。漢王乃ち侯公を封じて平国君と為す。匿れて肯へて復た見えず。
現代語訳
項王はそこで海春侯・大司馬の曹咎らに言った。「成皋を慎重に守れ。漢が挑戦してきても、決して戦ってはならない。ただ漢を東へ進ませなければそれでよい。私は十五日で必ず彭越を討ち、梁の地を平定して、再び将軍らと合流する」。そして東へ向かい、道々陳留・外黄を攻めた。外黄は降らなかった。数日してようやく降ったが、項王は怒り、十五歳以上の男子を皆城の東に集めて、生き埋めにしようとした。外黄の県令の舎人(家臣)の子で十三歳の少年が、項王のもとへ行って説いた。「彭越が力ずくで外黄を脅したので、外黄は恐れて、ひとまず降伏して大王をお待ちしていたのだ。大王が来られて、また皆を生き埋めにされたら、民はどうして大王に心を寄せようか。ここから東の梁の地の十余城は皆恐れて、降ろうとはしなくなるだろう」。項王はその言葉をもっともだと思い、外黄で生き埋めにされるはずだった者たちを許した。東へ進んで睢陽に至ると、これを聞いた町々は皆争って項王に降った。漢は案の定、何度も楚軍に戦いを挑んだが、楚軍は出てこなかった。そこで人をやって楚軍を辱めさせること五、六日に及ぶと、大司馬曹咎は怒り、兵を汜水の向こうに渡らせた。兵士が半分渡ったところで漢が攻撃し、楚の軍を大いに破って、楚国の財宝をすべて手に入れた。大司馬曹咎、長史董翳、塞王司馬欣は皆汜水のほとりで自ら首をはねて死んだ。大司馬曹咎はもと蘄の獄吏、長史司馬欣もまたもと櫟陽の獄吏で、二人はかつて項梁に恩を施したことがあったので、項王は彼らを信任していたのである。このとき項王は睢陽にいたが、海春侯の軍が敗れたと聞くと、兵を率いて引き返した。漢の軍はちょうど鍾離眛を滎陽の東で包囲していたが、項王が到着すると、漢の軍は楚を恐れて皆険しい地形の所へ逃げ込んだ。このとき、漢の兵は勢い盛んで食糧も多く、項王の兵は疲れ果てて食糧も尽きていた。漢は陸賈を派遣して項王を説得し、太公を返すよう求めたが、項王は聞き入れなかった。漢王は再び侯公を送って項王を説得させた。項王はそこで漢と約束を結び、天下を二分して、鴻溝より西を漢、鴻溝より東を楚とした。項王はこれを許し、すぐに漢王の父母と妻子を帰した。両軍は皆万歳を叫んだ。漢王はそこで侯公を平国君に封じたが、侯公は身を隠して二度と人前に出ようとしなかった。
解説
関連する章句
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『長短経』覇図羽、初め東するとき、曹咎に嘱して曰く「漢、戦いを挑まば、慎みて与に戦う勿かれ。漢をして東するを得しむる勿からしむるのみ」と。咎、乃ち出でて戦い、死す。漢王、遂に兵を進めて成皋を取る。〈漢、曹咎に挑みて戦わんとするも、楚軍出でず。人をして之を辱めしむること数日、咎怒り、兵を氾水の上に渡す。士卒半ば渡り、之を撃破し、尽く楚国の宝貨を得たり。〉羽、咎の破るるを聞き、乃ち軍を広武の間に還し、高壇を為り、太公を其の上に置く。漢王、侯公を遣わして羽に説き、太公を求む。羽乃ち漢と約す。天下を中分し、鴻溝より以西を割きて漢と為し、以東を楚と為し、漢王の父母及び呂氏を帰す。
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史記 高祖本紀漢王項羽を数めて曰く、「始め項羽と倶に命を懐王に受く、曰く先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと、項羽約に負き、我を蜀漢に王とす、罪の一なり。項羽卿子冠軍を矯殺して自ら尊ぶ、罪の二なり。項羽已に趙を救ひ、当に還りて報ずべきに、而して擅に諸侯の兵を劫かして関に入る、罪の三なり。懐王約すらく秦に入りて暴掠する無かれと、項羽秦の宮室を焼き、始皇帝の冢を掘り、私に其の財物を収む、罪の四なり。又彊ひて秦の降王子嬰を殺す、罪の五なり。詐りて秦の子弟を新安に阬にすること二十万、其の将を王とす、罪の六なり。項羽皆諸将を善地に王とし、而して故主を徙逐し、臣下をして争ひて叛逆せしむ、罪の七なり。項羽義帝を彭城より出だし逐ひ、自ら之に都し、韓王の地を奪ひ、梁・楚に并せ王とし、多く自ら予ふ、罪の八なり。項羽人をして陰かに義帝を江南に弑せしむ、罪の九なり。夫れ人臣と為りて其の主を弑し、已に降るを殺し、政を為すこと平らかならず、約を主りて信ならず、天下の容れざる所、大逆無道なり、罪の十なり。吾義兵を以て諸侯に従ひて残賊を誅す、刑余の罪人をして項羽を撃殺せしめん、何ぞ苦しみて乃ち公と挑戦せんや。」と。項羽大いに怒り、伏弩もて漢王を射中つ。漢王匈(むね)を傷つく、乃ち足を捫(な)でて曰く、「虜吾が指に中つ。」と。漢王創を病みて臥す、張良彊ひて漢王に起ちて行きて軍を労はんことを請ひ、以て士卒を安んじ、楚をして漢に勝ちに乗ぜしむる毋からしむ。漢王出でて軍を行(めぐ)る、病甚だし、因りて馳せて成皋に入る。病愈え、西して関に入り、櫟陽に至り、父老を存問し、置酒し、故の塞王欣の頭を櫟陽の市に梟す。留まること四日、復た軍に如き、広武に軍す。関中の兵益々出づ。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。田横往きて之に従ふ。項羽数(しばしば)彭越等を撃つ、斉王信又進みて楚を撃つ。項羽恐れ、乃ち漢王と約し、天下を中分し、鴻溝を割きて西なる者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。
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史記 項羽本紀曰く、「此れ天下の辯士なり、居る所国を傾く、故に号して平国君と為す。」と。項王已に約し、乃ち兵を引きて解きて東帰す。漢西帰せんと欲す、張良・陳平説きて曰く、「漢天下の太半を有ち、而して諸侯皆之に附く。楚の兵罷れ食尽く、此れ天の楚を亡ぼすの時なり、其の機に因りて遂に之を取るに如かず。今釈きて撃たずんば、此れ所謂『虎を養ひて自ら患ひを遺す』なり。」と。漢王之を聴く。漢の五年、漢王乃ち項王を追ひて陽夏の南に至り、軍を止め、淮陰侯韓信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至り、而して信・越の兵会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして自ら守る。張子房に謂ひて曰く、「諸侯約に従はず、之を為すこと柰何。」と。対へて曰く、「楚の兵且に破れんとす、信・越未だ分地有らず、其の至らざること固より宜なり。君王能く与に天下を共分せば、今立ちどころに致すべきなり。即し能はずんば、事未だ知るべからざるなり。君王能く陳より以東海に傅(つ)くまでを、尽く韓信に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを、以て彭越に与へ、各々自ら戦ひを為さしめば、則ち楚敗り易きなり。」と。漢王曰く、「善し。」と。是に於て乃ち使者を発して韓信・彭越に告げて曰く、「力を并せて楚を撃て。楚破れば、陳より以東海に傅くまでを斉王に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを彭相国に与へん。」と。使者至る、韓信・彭越皆報じて曰く、「請ふ今兵を進めん。」と。韓信乃ち斉より往き、劉賈の軍寿春より并行し、城父を屠りて、垓下に至る。大司馬周殷楚に叛き、舒を以て六を屠り、九江の兵を挙げ、劉賈・彭越に随ひて皆垓下に会し、項王に詣る。項王の軍垓下に壁す、兵少なく食尽く、漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜漢の軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則ち夜起きて、帳中に飲む。
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史記 高祖本紀或るひと沛公に説きて曰く、「秦の富は天下に十倍し、地形彊し。今聞く章邯項羽に降り、項羽乃ち号して雍王と為し、関中に王たらしむと。今則ち来らば、沛公恐らくは此を有つを得ざらん。急ぎ兵をして函谷関を守らしめ、諸侯の軍を内るる無く、稍々関中の兵を徴して以て自ら益し、之を距ぐべし。」と。沛公其の計を然りとし、之に従ふ。十一月中、項羽果たして諸侯の兵を率ゐて西し、関に入らんと欲す、関門閉づ。沛公已に関中を定むと聞き、大いに怒り、黥布等をして函谷関を攻め破らしむ。十二月中、遂に戯に至る。沛公の左司馬曹無傷項王の怒りて、沛公を攻めんと欲するを聞き、人をして項羽に言はしめて曰く、「沛公関中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍宝尽く之を有す。」と。以て封を求めんと欲す。亜父項羽に沛公を撃たんことを勧む。方に士を饗し、旦日合戦せんとす。是の時項羽の兵四十万、百万と号す。沛公の兵十万、二十万と号す、力敵せず。会々項伯張良を活かさんと欲し、夜往きて良に見ゆ、因りて文を以て項羽を諭す、項羽乃ち止む。沛公百余騎を従へ、之を鴻門に駆り、見えて項羽に謝す。項羽曰く、「此れ沛公の左司馬曹無傷之を言ふ。然らずんば、籍何を以て此を生ぜん。」と。沛公樊噲・張良の故を以て、解けて帰るを得たり。帰りて、立ちどころに曹無傷を誅す。項羽遂に西し、咸陽の秦の宮室を屠焼し、過ぐる所残破せざる無し。秦人大いに望みを失ふ、然れども恐れ、敢へて服せずんばあらざるのみ。項羽人をして還りて懐王に報ぜしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。項羽懐王の肯へて沛公と倶に西して関に入らしめずして、北のかた趙を救はしめ、天下の約に後れしめしを怨む。乃ち曰く、「懐王は、吾が家項梁の立てし所のみ、功伐有るに非ず、何を以てか約を主るを得ん。本天下を定むるは、諸将及び籍なり。」と。乃ち詳(いつは)りて懐王を尊びて義帝と為し、実は其の命を用ゐず。正月、項羽自ら立ちて西楚の霸王と為り、梁・楚の地九郡に王たり、彭城に都す。
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史記 高祖本紀漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
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史記 項羽本紀章邯人をして項羽に見えしめ、約せんと欲す。項羽軍吏を召して謀りて曰く、「糧少なし、其の約を聴かんと欲す。」と。軍吏皆曰く、「善し。」と。項羽乃ち与に洹水の南殷虚の上に期す。已に盟ひ、章邯項羽に見えて流涕し、為に趙高を言ふ。項羽乃ち章邯を立てて雍王と為し、楚の軍中に置く。長史欣をして上将軍と為し、秦の軍を将ゐて前行と為らしむ。新安に到る。諸侯の吏卒異時故より繇使屯戍して秦中を過ぐるに、秦中の吏卒之を遇すること多く状無し、秦の軍の諸侯に降るに及び、諸侯の吏卒勝ちに乗じて多く之を奴虜として使ひ、軽んじて秦の吏卒を折辱す。秦の吏卒多く竊(ひそ)かに言ひて曰く、「章将軍等吾が属を詐りて諸侯に降らしむ、今能く関に入りて秦を破らば、大いに善し。即し能はずんば、諸侯吾が属を虜にして東し、秦必ず尽く吾が父母妻子を誅せん。」と。諸侯微かに其の計を聞き、以て項羽に告ぐ。項羽乃ち黥布・蒲将軍を召して計りて曰く、「秦の吏卒尚ほ衆く、其の心服せず、関中に至りて聴かずんば、事必ず危ふし、撃ちて之を殺し、独り章邯・長史欣・都尉翳とのみ秦に入るに如かず。」と。是に於て楚の軍夜撃ちて秦の卒二十余万人を新安城の南に阬にす。行きて秦の地を略定す。函谷関に兵有りて関を守り、入るを得ず。又沛公已に咸陽を破ると聞き、項羽大いに怒り、当陽君等をして関を撃たしむ。項羽遂に入り、戯の西に至る。沛公霸上に軍し、未だ項羽と相見ゆるを得ず。沛公の左司馬曹無傷人をして項羽に言はしめて曰く、「沛公関中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍宝尽く之を有す。」と。項羽大いに怒りて、曰く、「旦日士卒を饗し、為に沛公の軍を撃破せん。」と。是の時に当たりて、項羽の兵四十万、新豊の鴻門に在り、沛公の兵十万、霸上に在り。范増項羽に説きて曰く、「沛公山東に居りし時、財貨を貪り、美姫を好む。
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