史記 / 項羽本紀
有美人名虞,常幸從;駿馬名騅,常騎之。於是項王乃悲歌忼慨,自為詩曰:「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何!」歌數闋,美人和之。項王泣數行下,左右皆泣,莫能仰視。於是項王乃上馬騎,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜潰圍南出,馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者百餘人耳。項王至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中。以故漢追及之。項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人。
新字:有美人名虞,常幸従;駿馬名騅,常騎之。於是項王乃悲歌忼慨,自為詩曰:「力抜山兮気蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何!」歌数闋,美人和之。項王泣数行下,左右皆泣,莫能仰視。於是項王乃上馬騎,麾下壮士騎従者八百余人,直夜潰囲南出,馳走。平明,漢軍乃覚之,令騎将灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能属者百余人耳。項王至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陥大沢中。以故漢追及之。項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者数千人。
書き下し
美人有り名は虞、常に幸せられて従ふ。駿馬名は騅、常に之に騎る。是に於て項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、「力は山を抜き気は世を蓋ふ、時利あらず騅逝かず。騅の逝かざる可奈何(いかん)すべき、虞や虞や若を奈何せん。」と。歌ふこと数闋、美人之に和す。項王泣数行下る、左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。是に於て項王乃ち馬に上りて騎す、麾下の壮士騎して従ふ者八百余人、直ちに夜囲みを潰して南に出で、馳走す。平明、漢の軍乃ち之を覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以て之を追はしむ。項王淮を渡る、騎の能く属する者百余人のみ。項王陰陵に至り、迷ひて道を失ひ、一田父に問ふ、田父紿(あざむ)きて曰く「左」と。左すれば、乃ち大沢の中に陥る。故を以て漢之に追ひ及ぶ。項王乃ち復た兵を引きて東し、東城に至る、乃ち二十八騎有り。漢の騎の追ふ者数千人。
現代語訳
虞という名の美女がいて、いつも寵愛されて付き従っていた。騅という名の駿馬がいて、いつもこれに乗っていた。そこで項王は悲しげに歌い、胸を高ぶらせて、自ら詩を作った。「わが力は山をも引き抜き、気力は世を覆うほどだった。だが時の運は味方せず、騅も進もうとしない。騅が進まぬのをどうしたらよいのか。虞よ虞よ、お前をどうしたらよいのか」。何度か繰り返して歌うと、虞美人もこれに唱和した。項王の目から幾筋もの涙が流れ落ち、側近たちも皆泣いて、誰も顔を上げて見ることができなかった。そこで項王は馬に乗り、配下の勇士で馬に乗って従う者八百余人とともに、夜のうちに包囲を突き破って南へ出て、馬を馳せて逃げた。夜明けになって漢の軍はようやくこれに気づき、騎兵の将灌嬰に五千騎を率いて追わせた。項王が淮水を渡ったとき、付いて来られた騎兵は百余人にすぎなかった。項王は陰陵に着いたところで道に迷い、一人の農夫に尋ねた。農夫はだまして「左だ」と言った。左へ行くと、大きな沼地にはまり込んでしまった。そのために漢軍に追いつかれた。項王は再び兵を率いて東へ向かい、東城に着いたときには、わずか二十八騎しか残っていなかった。追ってくる漢の騎兵は数千人であった。
解説
関連する章句
-
史記 項羽本紀乃ち其の騎を分かちて以て四隊と為し、四嚮す。漢の軍之を囲むこと数重。項王其の騎に謂ひて曰く、「吾公の為に彼の一将を取らん。」と。四面の騎をして馳せ下らしめ、山の東に期して三処と為す。是に於て項王大呼して馳せ下る、漢の軍皆披靡し、遂に漢の一将を斬る。是の時、赤泉侯騎将と為り、項王を追ふ、項王目を瞋らして之を叱す、赤泉侯人馬倶に驚き、辟易すること数里。其の騎と会して三処と為る。漢の軍項王の在る所を知らず、乃ち軍を分かちて三と為し、復た之を囲む。項王乃ち馳せ、復た漢の一都尉を斬り、殺すこと数十百人、復た其の騎を聚むるに、其の両騎を亡ふのみ。乃ち其の騎に謂ひて曰く、「何如。」と。騎皆伏して曰く、「大王の言の如し。」と。是に於て項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長船を檥(よそほ)ひて待ち、項王に謂ひて曰く、「江東小なりと雖も、地は方千里、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願はくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り、漢の軍至るも、以て渡る無し。」と。項王笑ひて曰く、「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西す、今一人の還る無し、縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見えん。縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。」と。乃ち亭長に謂ひて曰く、「吾公の長者なるを知る。吾此の馬に騎ること五歳、当たる所敵無し、嘗て一日に行くこと千里、之を殺すに忍びず、以て公に賜ふ。」と。乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持ちて接戦す。独り籍の殺す所の漢の軍数百人。項王の身も亦十余創を被る。顧みて漢の騎司馬呂馬童を見て、曰く、「若は吾が故人に非ずや。」と。馬童之に面し、王翳に指して曰く、「此れ項王なり。」と。項王乃ち曰く、「吾聞く漢我が頭を千金、邑万戸に購ふと、吾若の為に徳せん。」と。乃ち自刎して死す。王翳其の頭を取り、余騎相蹂践して項王を争ひ、相殺す者数十人。
-
史記 項羽本紀曰く、「此れ天下の辯士なり、居る所国を傾く、故に号して平国君と為す。」と。項王已に約し、乃ち兵を引きて解きて東帰す。漢西帰せんと欲す、張良・陳平説きて曰く、「漢天下の太半を有ち、而して諸侯皆之に附く。楚の兵罷れ食尽く、此れ天の楚を亡ぼすの時なり、其の機に因りて遂に之を取るに如かず。今釈きて撃たずんば、此れ所謂『虎を養ひて自ら患ひを遺す』なり。」と。漢王之を聴く。漢の五年、漢王乃ち項王を追ひて陽夏の南に至り、軍を止め、淮陰侯韓信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至り、而して信・越の兵会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして自ら守る。張子房に謂ひて曰く、「諸侯約に従はず、之を為すこと柰何。」と。対へて曰く、「楚の兵且に破れんとす、信・越未だ分地有らず、其の至らざること固より宜なり。君王能く与に天下を共分せば、今立ちどころに致すべきなり。即し能はずんば、事未だ知るべからざるなり。君王能く陳より以東海に傅(つ)くまでを、尽く韓信に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを、以て彭越に与へ、各々自ら戦ひを為さしめば、則ち楚敗り易きなり。」と。漢王曰く、「善し。」と。是に於て乃ち使者を発して韓信・彭越に告げて曰く、「力を并せて楚を撃て。楚破れば、陳より以東海に傅くまでを斉王に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを彭相国に与へん。」と。使者至る、韓信・彭越皆報じて曰く、「請ふ今兵を進めん。」と。韓信乃ち斉より往き、劉賈の軍寿春より并行し、城父を屠りて、垓下に至る。大司馬周殷楚に叛き、舒を以て六を屠り、九江の兵を挙げ、劉賈・彭越に随ひて皆垓下に会し、項王に詣る。項王の軍垓下に壁す、兵少なく食尽く、漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜漢の軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則ち夜起きて、帳中に飲む。
-
史記 項羽本紀項王自ら脱するを得ずと度る。其の騎に謂ひて曰く、「吾兵を起こして今に至るまで八歳、身七十餘戦、当たる所の者は破れ、撃つ所の者は服し、未だ嘗て敗北せず、遂に霸として天下を有つ。然れども今卒に此に困しむ、此れ天の我を亡ぼすにして、戦の罪に非ざるなり。今日固より死を決す、願はくは諸君の為に快戦し、必ず三たび之に勝ち、諸君の為に囲みを潰し、将を斬り、旗を刈り、諸君をして天の我を亡ぼすにして、戦の罪に非ざるを知らしめん」と。
-
史記 高祖本紀項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。
-
『長短経』覇図項王、解きて東す。漢王、西せんと欲す。張良曰く「今、漢は天下の大半を有ちて、諸侯皆な附く。楚兵は疲れ、食は尽く。此れ天の楚を亡ぼすの時なり。其の東するに因りて之を取るに如かず」と。漢王乃ち羽を追う。斉王韓信・魏相彭越と、期して会して楚を撃たんとするも、皆な会せず。張良の計を用い、信等皆な兵を進めて羽を垓下に囲み、遂に項氏を滅ぼす。〈漢王、張良に問いて曰く「諸侯従わず。奈何」と。良曰く「楚兵、且に破れんとするに、未だ分地有らず。其の至らざるは固より宜なり。君王、能く与に天下を共にせば、立ちどころに致す可きなり。斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦た自ら堅からず。彭越は本と梁地を定む。始め君、魏豹の故を以て、越、相国と為るを拝するを得たり。今、豹死し、越も亦た王を望む。而るに君王、早く定めず。今、能く睢陽以北より穀城に至るを取りて、以て彭越を王とし、陳より以東海に傅うるを、斉王信に与えよ。信の家は楚に在り。其の意、復た故邑を得んと欲す。能く此の地を出捐して、以て両人に許し、各々自ら為に戦わしめば、則ち楚は破り易からん」と。是に於て漢王、使いを発し、韓信・彭越・劉賈等をして皆な兵を引きて羽を垓下に囲ましむ。〉
-
史記 項羽本紀太史公曰く、羽尺寸有るに非ず、勢に乗じて隴畝の中に起こり、三年、遂に五諸侯を将ゐて秦を滅ぼし、天下を分裂して、王侯を封じ、政羽より出づ、号して霸王と為る、位終らずと雖も、近古以来未だ嘗て有らざるなり。羽関を背き楚を懐ひ、義帝を放逐して自立し、王侯の己に叛くを怨むに及びては、難いかな。功伐を自矜し、其の私智を奮ひて古を師とせず、霸王の業と謂ひ、力征を以て天下を経営せんと欲す。五年卒に其の国を亡ぼし、身東城に死して、尚ほ覚寤せずして自ら責めず、過てり。乃ち「天我を亡ぼす、用兵の罪に非ざるなり」と引く、豈に謬らずや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る