春秋左氏伝 / 哀公元年 越、会稽に保つ
元年春,楚子圍蔡,報柏舉也。里而栽,廣丈,高倍。夫屯,晝夜九日,如子西之素。蔡人男女以辨,使疆于江汝之間,而還。蔡於是乎請遷于吳,吳王夫差敗越于夫椒,報檇李也,遂入越。越子以甲楯五千,保于會稽,使大夫種因吳大宰嚭以行成。
新字:元年春,楚子囲蔡,報柏舉也。里而栽,広丈,高倍。夫屯,昼夜九日,如子西之素。蔡人男女以弁,使疆于江汝之間,而還。蔡於是乎請遷于呉,呉王夫差敗越于夫椒,報檇李也,遂入越。越子以甲楯五千,保于会稽,使大夫種因呉大宰嚭以行成。
書き下し
元年春、楚子蔡を圍む。柏舉に報ゆるなり。里にして栽(た)て、廣さ丈、高さ倍す。夫(ふ)屯すること晝夜九日、子西の素の如し。蔡人、男女以て辨(わか)つ。使ひて江・汝の間に疆(さかひ)せしめて還る。蔡是に於てか吳に遷らんことを請ふ。吳王夫差、越を夫椒に敗る。檇李に報ゆるなり。遂に越に入る。越子、甲楯五千を以て會稽に保ち、大夫種をして吳の大宰嚭に因りて以て成を行はしむ。
現代語訳
元年の春、楚子(昭王)は蔡を包囲した。柏挙の戦い(定公四年、蔡が呉とともに楚に攻め入った戦い)への報復である。城から一里のところに土塁を築き、その幅は一丈、高さはその倍であった。人夫を昼夜九日にわたって駐屯させて工事をしたが、すべて子西(楚の令尹)の予定どおりであった。蔡の人々は男と女を分けて列をなし、降伏した。楚は蔡に長江と汝水の間へ領地を移させて引き揚げた。蔡はそこで呉の近くに移りたいと呉に願い出た。呉王夫差は越を夫椒で破った。檇李の戦い(父闔廬が傷を負って死んだ戦い)への報復である。そのまま越に攻め入った。越子(勾践)は武装兵五千を率いて会稽山に立てこもり、大夫種(文種)を遣わし、呉の太宰嚭(ひ)を通じて講和を申し入れさせた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公二十七年 謀は始・衷・終を挙ぐ齊に敵することを卜せず」と。成子に謂はしめて曰く、「大夫陳子は、陳の自りて出づるなり。陳の祀られざるは、鄭の罪なり。故に寡君、瑤をして陳の衷を察せしむ。謂ふ、大夫其れ陳を恤へんか、と。若し本の顛るるを利とせば、瑤何か有らん」と。成子怒りて曰く、「多く人を陵ぐ者は皆在らず。知伯其れ能く久しからんや」と。中行文子、成子に告げて曰く、「晉師より寅に告ぐる者有り。將に輕車千乘を為りて、以て齊師の門に厭せんとす、と。則ち盡す可きなり」と。成子曰く、「寡君、恆に命じて曰く、『寡に及ぶこと無かれ、衆を畏るること無かれ』と。千乘に過ぐと雖も、敢へて之を辟けんや。將に子の命を以て寡君に告げんとす」と。文子曰く、「吾乃ち今、亡ぶる所以を知る。君子の謀るや、始・衷・終、皆之を舉げて、而る後に焉に入る。今、我、三つながら知らずして之に入る。亦た難からずや」と。公、三桓の侈を患へ、諸侯を以て之を去らんと欲す。三桓も亦た公の妄を患ふ。故に君臣、間多し。公、陵阪に游び、孟武伯に孟氏の衢に遇ひて曰く、「請ふ、子に問ふこと有らん。余、死に及ばんか」と。對へて曰く、「臣、由りて之を知る無し」と。三たび問ふ。卒に辭して對へず。公、越を以て魯を伐ちて三桓を去らんと欲す。秋八月甲戌、公、公孫有陘氏に如き、因りて邾に孫れ、乃ち遂に越に如く。國人、公孫有山氏に施す。
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説苑・說叢謁問析辭には應ずる勿かれ、怪言虛說には稱する勿かれ。謀事に先んずれば則ち昌え、事謀に先んずれば則ち亡ぶ。
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史記 河渠書五千頃は故尽く河壖の棄地にして、民、其の中に茭牧するのみ。今之に溉田せば、度るに穀二百万石以上を得可し。穀は渭より上り、関中と異なる無く、而して砥柱の東は復た漕する無かる可し」と。天子以て然りと為し、卒数万人を発して渠田を作る。数歳にして、河移徙し、渠利あらず、則ち田する者種を償ふ能はず。之を久しくして、河東の渠田廃れ、越人に予へ、少府をして以て稍入と為さしむ。其の後、人の上書して褒斜の道及び漕の事を通ぜんと欲する有り、御史大夫張湯に下す。湯、其の事を問ひ、因りて言ふ、「蜀に抵るに故道よりす。故道は阪多く、回遠なり。今、褒斜の道を穿たば、阪少なく、近きこと四百里。而して褒水は沔に通じ、斜水は渭に通ず、皆以て船漕を行ふ可し。漕は南陽より沔を上りて褒に入り、褒の水の絶ゆるより斜に至るまで、間百余里、車を以て転じ、斜より下りて渭に下る。此の如くせば、漢中の穀致す可く、山東は沔よりして限り無く、砥柱の漕より便なり。且つ褒斜の材木・竹箭の饒かなること、巴蜀に擬す」と。天子以て然りと為し、湯の子卬を拝して漢中の守と為し、数万人を発して褒斜の道五百余里を作る。道果して便にして近し。而れども水湍石にして、漕す可からず。其の後、荘熊羆言ふ、「臨晋の民、洛を穿ちて以て重泉以東の万余頃の故鹵地に溉がんことを願ふ。誠に水を得ば、畝ごとに十石ならしむ可し」と。是に於て為に卒万余人を発して渠を穿ち、徴より洛水を引きて商顔山の下に至る。岸善く崩る。乃ち井を鑿つこと、深き者四十余丈。往往に井を為り、井の下相通じて水を行る。水穨れて以て商顔を絶ち、東のかた山嶺に至るまで十余里の間なり。井渠の生ずること此より始まる。渠を穿ちて龍骨を得、故に名づけて龍首渠と曰ふ。之を作ること十余歳、渠頗る通ずるも、猶ほ未だ其の饒を得ず。河、瓠子に決せし後より二十余歳、歳因りて以て数々登らず、而して梁・楚の地尤も甚だし。
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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