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史記 / 河渠書

五千頃故盡河壖棄地,民茭牧其中耳,今溉田之,度可得穀二百萬石以上。穀從渭上,與關中無異,而砥柱之東可無復漕。」天子以為然,發卒數萬人作渠田。數歲,河移徙,渠不利,則田者不能償種。久之,河東渠田廢,予越人,令少府以為稍入。其後人有上書欲通褒斜道及漕事,下御史大夫張湯。湯問其事,因言:「抵蜀從故道,故道多阪,回遠。今穿褒斜道,少阪,近四百里;而褒水通沔,斜水通渭,皆可以行船漕。漕從南陽上沔入褒,褒之絕水至斜,閒百餘里,以車轉,從斜下下渭。如此,漢中之穀可致,山東從沔無限,便於砥柱之漕。且褒斜材木竹箭之饒,擬於巴蜀。」天子以為然,拜湯子卬為漢中守,發數萬人作褒斜道五百餘里。道果便近,而水湍石,不可漕。其後莊熊羆言:「臨晉民願穿洛以溉重泉以東萬餘頃故鹵地。誠得水,可令畝十石。」於是為發卒萬餘人穿渠,自徵引洛水至商顏山下。岸善崩,乃鑿井,深者四十餘丈。往往為井,井下相通行水。水穨以絕商顏,東至山嶺十餘里閒。井渠之生自此始。穿渠得龍骨,故名曰龍首渠。作之十餘歲,渠頗通,猶未得其饒。自河決瓠子後二十餘歲,歲因以數不登,而梁楚之地尤甚。

新字:五千頃故尽河壖棄地,民茭牧其中耳,今溉田之,度可得穀二百万石以上。穀従渭上,与関中無異,而砥柱之東可無復漕。」天子以為然,発卒数万人作渠田。数歳,河移徙,渠不利,則田者不能償種。久之,河東渠田廃,予越人,令少府以為稍入。其後人有上書欲通褒斜道及漕事,下御史大夫張湯。湯問其事,因言:「抵蜀従故道,故道多阪,回遠。今穿褒斜道,少阪,近四百里;而褒水通沔,斜水通渭,皆可以行船漕。漕従南陽上沔入褒,褒之絶水至斜,閒百余里,以車転,従斜下下渭。如此,漢中之穀可致,山東従沔無限,便於砥柱之漕。且褒斜材木竹箭之饒,擬於巴蜀。」天子以為然,拝湯子卬為漢中守,発数万人作褒斜道五百余里。道果便近,而水湍石,不可漕。其後荘熊羆言:「臨晋民願穿洛以溉重泉以東万余頃故鹵地。誠得水,可令畝十石。」於是為発卒万余人穿渠,自徴引洛水至商顔山下。岸善崩,乃鑿井,深者四十余丈。往往為井,井下相通行水。水穨以絶商顔,東至山嶺十余里閒。井渠之生自此始。穿渠得竜骨,故名曰竜首渠。作之十余歳,渠頗通,猶未得其饒。自河決瓠子後二十余歳,歳因以数不登,而梁楚之地尤甚。

書き下し

五千頃は故尽く河壖の棄地にして、民、其の中に茭牧するのみ。今之に溉田せば、度るに穀二百万石以上を得可し。穀は渭より上り、関中と異なる無く、而して砥柱の東は復た漕する無かる可し」と。天子以て然りと為し、卒数万人を発して渠田を作る。数歳にして、河移徙し、渠利あらず、則ち田する者種を償ふ能はず。之を久しくして、河東の渠田廃れ、越人に予へ、少府をして以て稍入と為さしむ。其の後、人の上書して褒斜の道及び漕の事を通ぜんと欲する有り、御史大夫張湯に下す。湯、其の事を問ひ、因りて言ふ、「蜀に抵るに故道よりす。故道は阪多く、回遠なり。今、褒斜の道を穿たば、阪少なく、近きこと四百里。而して褒水は沔に通じ、斜水は渭に通ず、皆以て船漕を行ふ可し。漕は南陽より沔を上りて褒に入り、褒の水の絶ゆるより斜に至るまで、間百余里、車を以て転じ、斜より下りて渭に下る。此の如くせば、漢中の穀致す可く、山東は沔よりして限り無く、砥柱の漕より便なり。且つ褒斜の材木・竹箭の饒かなること、巴蜀に擬す」と。天子以て然りと為し、湯の子卬を拝して漢中の守と為し、数万人を発して褒斜の道五百余里を作る。道果して便にして近し。而れども水湍石にして、漕す可からず。其の後、荘熊羆言ふ、「臨晋の民、洛を穿ちて以て重泉以東の万余頃の故鹵地に溉がんことを願ふ。誠に水を得ば、畝ごとに十石ならしむ可し」と。是に於て為に卒万余人を発して渠を穿ち、徴より洛水を引きて商顔山の下に至る。岸善く崩る。乃ち井を鑿つこと、深き者四十余丈。往往に井を為り、井の下相通じて水を行る。水穨れて以て商顔を絶ち、東のかた山嶺に至るまで十余里の間なり。井渠の生ずること此より始まる。渠を穿ちて龍骨を得、故に名づけて龍首渠と曰ふ。之を作ること十余歳、渠頗る通ずるも、猶ほ未だ其の饒を得ず。河、瓠子に決せし後より二十余歳、歳因りて以て数々登らず、而して梁・楚の地尤も甚だし。

現代語訳

その五千頃はもとはすべて黄河の河原の捨てられた土地で、民がそこで草を刈り家畜を放牧しているだけである。今これに灌漑すれば、穀物二百万石以上が得られるだろう。穀物は渭水をさかのぼって運べるので関中の産物と変わりがなく、砥柱山より東からは漕運しなくてもよくなる」。天子はもっともだと考え、兵卒数万人を動員して水路と田を造った。数年すると黄河の流れが移り、水路が役に立たなくなり、耕作する者は種籾の元さえ取れなくなった。しばらくして河東の水路の田は廃れ、越から移ってきた人々に与え、少府(帝室財政の役所)にわずかな収入とさせた。その後、ある人が上書して褒斜道(ほうやどう)を開通させて漕運に使いたいと願い出た。天子はこれを御史大夫の張湯に下げ渡した。張湯はその事情を尋ね、それをもとに言った。「蜀に行くには故道を通るが、故道は坂が多く、遠回りである。今、褒斜道を開けば、坂が少なく、四百里近くなる。しかも褒水は沔水(べんすい、漢水)に通じ、斜水は渭水に通じるので、どちらも船で漕運できる。漕運は南陽から沔水をさかのぼって褒水に入り、褒水の流れが途切れたところから斜水までの百里余りは車で運び、斜水から下って渭水に入る。このようにすれば漢中の穀物を運ぶことができ、山東からの物資も沔水を通じていくらでも運べ、砥柱山を通る漕運より便利である。そのうえ褒斜の地は材木や竹・矢竹が豊かで、巴蜀に匹敵する」。天子はもっともだと考え、張湯の子の張卬(ちょうこう)を漢中太守に任じ、数万人を動員して五百里余りの褒斜道を造った。道ははたして便利で近かった。しかし川の流れが急で岩が多く、漕運はできなかった。その後、荘熊羆(そうゆうひ)が言った。「臨晋の民は、洛水から水路を掘って重泉より東の一万頃余りの、もとは塩分の多い土地に灌漑したいと願っている。本当に水が得られれば、一畝あたり十石の収穫にできる」。そこで民のために兵卒一万人余りを動員して水路を掘り、徴から洛水を引いて商顔山の麓まで通した。ところが岸がよく崩れた。そこで井戸を掘ったが、深いものは四十丈余りに及んだ。あちこちに井戸を掘り、井戸の底を互いにつないで水を通した。水は地下を流れて商顔山を貫き、東の山の尾根まで十里余りの間を流れた。井戸をつないだ水路(井渠)はこれから始まった。水路を掘るときに恐竜の骨(龍骨)が出たので、龍首渠と名づけた。これを造ること十年余り、水路はかなり通じたが、まだ期待したほどの豊かさは得られなかった。黄河が瓠子で決壊してから二十年余り、そのせいで何年も凶作が続き、梁・楚の地が最もひどかった。

解説

武帝の時代に次々と提案された水利事業の顛末です。河東の渠田は黄河の流れが変わって数年で使えなくなり、張湯が推した褒斜道は道としては便利になったものの、急流と岩で肝心の漕運はできませんでした。龍首渠は崩れやすい岸を避けて井戸を地下でつなぐ「井渠」という新しい工法を生み、後に西域のカナートに似た技術として注目されますが、十年余りかけても期待した成果は上がりませんでした。司馬遷は、それぞれの事業を「提案→天子の承認→数万人の動員→結果」という同じ型で淡々と並べています。机上の計画がいかに見事でも、自然条件の見通しが甘ければ成果は出ないことがよく分かります。その間、根本の問題である瓠子の決壊は二十年以上放置されていました。

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