春秋左氏伝 / 定公四年 沈尹戌の最期
王使執燧象以奔吳師。庚辰。吳入郢。以班處宮。子山處令尹之宮。夫概王欲攻之。懼而去之。夫概王入之。左司馬戌及息而還。敗吳師于雍澨。傷。初。司馬臣闔廬。故恥為禽焉。謂其臣曰。誰能免吾首。吳句卑曰臣賤可乎。司馬曰。我實失子。可哉。三戰皆傷。曰。吾不用也已。句卑布裳。剄而裹之。藏其身而以其首免。楚子涉睢濟江。入于雲中。王寢。盜攻之。以戈擊王。王孫由于以背受之。中肩。王奔鄖。鍾建負季芊以從。由于徐蘇而從。鄖公辛之弟懷。將弒王曰。平王殺吾父。我殺其子。不亦可乎。辛曰。君討臣。誰敢讎之。君命天也。若死天命。將誰讎。詩曰。柔亦不茹。剛亦不吐。不侮矜寡。不畏彊禦。
新字:王使執燧象以奔呉師。庚辰。呉入郢。以班処宮。子山処令尹之宮。夫概王欲攻之。懼而去之。夫概王入之。左司馬戌及息而還。敗呉師于雍澨。傷。初。司馬臣闔廬。故恥為禽焉。謂其臣曰。誰能免吾首。呉句卑曰臣賤可乎。司馬曰。我実失子。可哉。三戦皆傷。曰。吾不用也已。句卑布裳。剄而裹之。蔵其身而以其首免。楚子渉睢済江。入于雲中。王寝。盗攻之。以戈撃王。王孫由于以背受之。中肩。王奔鄖。鍾建負季芊以従。由于徐蘇而従。鄖公辛之弟懐。将弒王曰。平王殺吾父。我殺其子。不亦可乎。辛曰。君討臣。誰敢讎之。君命天也。若死天命。将誰讎。詩曰。柔亦不茹。剛亦不吐。不侮矜寡。不畏彊禦。
書き下し
王、燧象を執りて以て吳の師に奔らしむ。庚辰、吳、郢に入る。班を以て宮に處る。子山、令尹の宮に處る。夫概王、之を攻めんと欲す。懼れて之を去る。夫概王、之に入る。左司馬戌、息に及びて還り、吳の師を雍澨に敗る。傷つく。初め、司馬は闔廬に臣たり。故に禽と為るを恥づ。其の臣に謂ひて曰く、「誰か能く吾が首を免れしめん」と。吳句卑曰く、「臣賤し、可ならんか」と。司馬曰く、「我實に子を失せり。可なり」と。三たび戰ひて皆傷つく。曰く、「吾用ゐられざるのみ」と。句卑、裳を布き、剄りて之を裹み、其の身を藏して其の首を以て免る。楚子、睢を涉り江を濟りて、雲中に入る。王寢ぬ。盜、之を攻め、戈を以て王を擊つ。王孫由于、背を以て之を受け、肩に中る。王、鄖に奔る。鍾建、季芊を負ひて以て從ふ。由于、徐ろに蘇りて從ふ。鄖公辛の弟懷、將に王を弒せんとして曰く、「平王、吾が父を殺せり。我、其の子を殺す、亦た可ならずや」と。辛曰く、「君、臣を討つ、誰か敢へて之を讎とせん。君命は天なり。若し天命に死せば、將た誰をか讎とせん。詩に曰く、『柔も亦た茹はず、剛も亦た吐かず。矜寡を侮らず、彊禦を畏れず』と。
現代語訳
楚王(昭王)は燧象(尾に松明を結びつけた象)を操らせて、呉の軍に向けて走らせた。庚辰の日、呉は郢(楚の都)に入った。呉の将たちは位の序列に従って宮殿に分かれて住んだ。子山(闔廬の子)は令尹の邸に入った。夫概王(闔廬の弟)がこれを攻めようとしたので、子山は恐れて立ち退き、夫概王がそこに入った。左司馬の戌(沈尹戌)は息まで来て引き返し、呉軍を雍澨で破ったが、傷を負った。これより先、司馬戌はかつて闔廬に臣として仕えたことがあった。だから呉の捕虜となることを恥じた。家臣に言った。「誰か私の首を敵に渡さずにすませてくれる者はいないか」。呉句卑が言った。「私は身分の低い者ですが、よろしいでしょうか」。司馬は言った。「私はこれまでおまえを見落としていた。よかろう」。三度戦っていずれも傷を負い、「私はもう役に立たない」と言った。句卑は下裳を広げ、司馬の首を切ってそれに包み、胴体を隠して、首を持って逃れた。楚子(昭王)は睢水を渡り、長江を渡って雲夢沢の中に入った。王が寝ていると、盗賊が襲い、戈で王を撃った。王孫由于が背中でそれを受け止め、肩に当たった。王は鄖に逃れた。鍾建は季芊(王の妹)を背負って従った。由于はしばらくして息を吹き返し、後から従った。鄖公辛(闘辛)の弟の懐が王を殺そうとして言った。「平王は私の父を殺した。私がその子を殺して、何が悪かろう」。辛は言った。「君主が臣下を討ったのだ。誰があえてそれを仇とできようか。君命は天命である。天命によって死んだのなら、いったい誰を仇とするのか。『詩経』に『柔らかくても呑みこまず、硬くても吐き出さない。やもめを侮らず、強い者を恐れない』とある。
解説
この章句が説くこと
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