史記 / 刺客列伝
居頃之,豫讓又漆身爲厲,呑炭爲啞,使形狀不可知,行乞於市。其妻不識也。行見其友,其友識之,曰:「汝非豫讓邪?」曰:「我是也。」其友爲泣曰:「以子之才,委質而臣事襄子,襄子必近幸子。近幸子,乃爲所欲,顧不易邪?何乃殘身苦形,欲以求報襄子,不亦難乎!」豫讓曰:「既已委質臣事人,而求殺之,是懷二心以事其君也。且吾所爲者極難耳!然所以爲此者,將以愧天下後世之爲人臣懷二心以事其君者也。」既去,頃之,襄子當出,豫讓伏於所當過之橋下。襄子至橋,馬驚,襄子曰:「此必是豫讓也。」使人問之,果豫讓也。於是襄子乃數豫讓曰:「子不嘗事范、中行氏乎?智伯盡滅之,而子不爲報讎,而反委質臣於智伯。智伯亦已死矣,而子獨何以爲之報讎之深也?」豫讓曰:「臣事范、中行氏,范、中行氏皆衆人遇我,我故衆人報之。至於智伯,國士遇我,我故國士報之。」襄子喟然嘆息而泣曰:「嗟乎豫子!子之爲智伯,名既成矣,而寡人赦子,亦已足矣。子其自爲計,寡人不復釋子!」使兵圍之。豫讓曰:「臣聞明主不掩人之美,而忠臣有死名之義。前君已寬赦臣,天下莫不稱君之賢。今日之事,臣固伏誅,然願請君之衣而撃之焉,以致報讎之意,則雖死不恨。非所敢望也,敢布腹心!」於是襄子大義之,乃使使持衣與豫讓。豫讓拔劍三躍而撃之,
新字:居頃之,予譲又漆身為厲,呑炭為唖,使形状不可知,行乞於市。其妻不識也。行見其友,其友識之,曰:「汝非予譲邪?」曰:「我是也。」其友為泣曰:「以子之才,委質而臣事襄子,襄子必近幸子。近幸子,乃為所欲,顧不易邪?何乃残身苦形,欲以求報襄子,不亦難乎!」予譲曰:「既已委質臣事人,而求殺之,是懐二心以事其君也。且吾所為者極難耳!然所以為此者,将以愧天下後世之為人臣懐二心以事其君者也。」既去,頃之,襄子当出,予譲伏於所当過之橋下。襄子至橋,馬驚,襄子曰:「此必是予譲也。」使人問之,果予譲也。於是襄子乃数予譲曰:「子不嘗事范、中行氏乎?智伯尽滅之,而子不為報讎,而反委質臣於智伯。智伯亦已死矣,而子独何以為之報讎之深也?」予譲曰:「臣事范、中行氏,范、中行氏皆衆人遇我,我故衆人報之。至於智伯,国士遇我,我故国士報之。」襄子喟然嘆息而泣曰:「嗟乎予子!子之為智伯,名既成矣,而寡人赦子,亦已足矣。子其自為計,寡人不復釈子!」使兵囲之。予譲曰:「臣聞明主不掩人之美,而忠臣有死名之義。前君已寛赦臣,天下莫不称君之賢。今日之事,臣固伏誅,然願請君之衣而撃之焉,以致報讎之意,則雖死不恨。非所敢望也,敢布腹心!」於是襄子大義之,乃使使持衣与予譲。予譲抜剣三躍而撃之,
書き下し
居ること頃之、豫譲又身に漆して厲と為り、炭を呑みて唖と為り、形状をして知るべからざらしめ、市に行乞す。其の妻識らざるなり。行きて其の友に見ゆ。其の友之を識りて曰く、「汝は豫譲に非ずや」と。曰く、「我是なり」と。其の友為に泣きて曰く、「子の才を以て、質を委ねて臣として襄子に事へば、襄子必ず子を近幸せん。子を近幸せば、乃ち欲する所を為すこと、顧って易からずや。何ぞ乃ち身を残し形を苦しめ、以て襄子に報ぜんことを求めんと欲する。亦難からずや」と。豫譲曰く、「既已に質を委ねて臣として人に事へ、而して之を殺さんことを求むるは、是れ二心を懐きて以て其の君に事ふるなり。且つ吾が為す所の者は極めて難きのみ。然れども此を為す所以の者は、将に以て天下後世の人臣と為りて二心を懐きて以て其の君に事ふる者を愧ぢしめんとするなり」と。既に去り、頃之、襄子当に出づべし。豫譲、当に過ぐべき所の橋の下に伏す。襄子橋に至り、馬驚く。襄子曰く、「此れ必ず是れ豫譲ならん」と。人をして之を問はしむれば、果して豫譲なり。是に於て襄子乃ち豫譲を数めて曰く、「子は嘗て范・中行氏に事へずや。智伯尽く之を滅ぼす。而るに子は為に讎を報ぜず、而して反って質を委ねて智伯に臣たり。智伯も亦已に死せり。而るに子独り何を以て之が為に讎を報ずることの深きや」と。豫譲曰く、「臣、范・中行氏に事ふ。范・中行氏は皆衆人もて我を遇す。我故に衆人もて之に報ず。智伯に至りては、国士もて我を遇す。我故に国士もて之に報ず」と。襄子喟然として嘆息して泣きて曰く、「嗟乎豫子。子の智伯の為にする、名既に成れり。而して寡人の子を赦す、亦已に足れり。子其れ自ら計を為せ。寡人復た子を釈さず」と。兵をして之を囲ましむ。豫譲曰く、「臣聞く、明主は人の美を掩はず、而して忠臣は名に死するの義有りと。前に君已に寛く臣を赦し、天下君の賢を称せざる莫し。今日の事、臣固より誅に伏せん。然れども願はくは君の衣を請ひて之を撃ち、以て讎を報ずるの意を致さば、則ち死すと雖も恨みず。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。是に於て襄子大いに之を義とし、乃ち使をして衣を持ちて豫譲に与へしむ。豫譲剣を抜きて三たび躍りて之を撃ち、
現代語訳
しばらくして、豫譲は今度は体に漆を塗って皮膚病の者のようにただれさせ、炭を呑んで声をつぶし、姿かたちがわからないようにして、市場で物乞いをした。その妻でさえ気づかなかった。出かけて友人に会うと、友人は彼に気づいて言った。「おまえは豫譲ではないか」。豫譲は「そうだ」と答えた。友人は彼のために泣いて言った。「おまえほどの才能があれば、臣下として身を委ねて襄子に仕えれば、襄子はきっとおまえをそば近くに置いて寵愛するだろう。そば近くに置かれれば、望むことをするのはかえってたやすいではないか。なぜ体を損ない姿を苦しめてまで、襄子に仕返ししようとするのか。あまりに難しいではないか」。豫譲は言った。「臣下として身を委ねて人に仕えておきながら、その人を殺そうとするのは、二心を抱いて主君に仕えることになる。たしかに私のしていることはきわめて難しい。だがこうするのは、後の世に人の臣下となりながら二心を抱いて主君に仕える者たちを恥じ入らせるためなのだ」。友人のもとを去ってしばらくすると、襄子が外出することになった。豫譲は襄子が通るはずの橋の下に潜んだ。襄子が橋に来ると、馬が驚いた。襄子は「これはきっと豫譲だ」と言い、人に調べさせると、はたして豫譲であった。そこで襄子は豫譲を責めて言った。「おまえはかつて范氏や中行氏に仕えていたではないか。智伯は彼らをことごとく滅ぼしたのに、おまえは彼らのために仇を討たず、かえって智伯に臣下として身を委ねた。その智伯ももう死んでいる。それなのに、なぜおまえは智伯のためにだけこれほど深く仇を討とうとするのか」。豫譲は言った。「私が范氏や中行氏に仕えていたとき、彼らはみな私を並の人として扱った。だから私も並の人として報いたのだ。智伯は、私を国士(国で一番の士)として遇してくれた。だから私も国士として報いるのだ」。襄子は深くため息をつき、泣いて言った。「ああ、豫子よ。おまえが智伯のために尽くした名はもう立派に成った。そして私がおまえを赦したのも、もう十分だ。おまえも覚悟を決めよ。私は二度とおまえを放さない」。そして兵に豫譲を取り囲ませた。豫譲は言った。「明君は人の美点を覆い隠さず、忠臣には名のために死ぬという義がある、と私は聞いている。以前、あなたは寛大にも私を赦してくださり、天下にあなたの賢明さを称えない者はいない。今日のことでは、私はもとより誅殺を受けるつもりだ。だが、どうかあなたの衣をいただいてそれを斬りつけ、仇を討つ思いを果たさせてほしい。そうすれば死んでも心残りはない。望めることではないとわかっているが、あえて胸の内を申し上げる」。そこで襄子は豫譲の義にいたく感じ入り、使いの者に衣を持たせて豫譲に与えた。豫譲は剣を抜いて三度躍り上がってその衣を斬りつけ、
解説
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史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
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説苑・立節晋の献公の時、士有り、狐突と曰う。太子申生に傅たり。公驪姫を立てて夫人と為し、国憂い多し。狐突疾と称して出でず。六年、献公譖を以て太子を誅す。太子将に死せんとし、人をして狐突に謂わしめて曰わく、「吾が君老いたり、国家難多し。傅一たび出でて以て吾が君を輔けよ。申生賜を受けて以て死すとも恨みず」と。再拝稽首して死す。狐突乃ち復た献公に事う。三年、献公卒す。狐突諸大夫に辞して曰わく、「突太子の詔を受く。今事終われり。其の久しく乱世に生くるよりは、死して太子に報ゆるに若かず」と。乃ち帰りて自殺す。
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史記 范雎蔡沢列伝蔡沢曰く、「若し夫れ秦の商君、楚の呉起、越の大夫種、その卒然たるもまた願ふべきか」と。応侯、蔡沢の己を困しめて以て説かんと欲するを知り、また謬りて曰く、「何為れぞ不可ならん。夫れ公孫鞅の孝公に事ふるや、身を極めて貳慮無く、公を尽くして私を顧みず。刀鋸を設けて以て姦邪を禁じ、賞罰を信にして以て治を致す。腹心を披き、情素を示し、怨咎を蒙り、旧友を欺き、魏の公子卬を奪ひ、秦の社稷を安んじ、百姓を利し、卒に秦の為に将を禽にし敵を破り、地を攘ふこと千里。呉起の悼王に事ふるや、私をして公を害するを得ざらしめ、讒をして忠を蔽ふを得ざらしめ、言は茍合を取らず、行ひは茍容を取らず、危ふきが為に行ひを易へず、義を行ひて難を辟けず、然して霸主の為に国を彊くし、禍凶を辞せず。大夫種の越王に事ふるや、主困辱すと雖も、忠を悉くして解らず、主絶亡すと雖も、能を尽くして離れず、功を成して矜らず、貴富にして驕怠せず。此の三子の若き者は、固より義の至りなり、忠の節なり。是の故に君子は義を以て難に死し、死を視ること帰するが如し。生きて辱めらるるは死して栄あるに如かず。士は固より身を殺して以て名を成す有り、義の在る所と雖も、死すと雖も恨む所無し。何為れぞ不可ならんや」と。蔡沢曰く、「主聖に臣賢なるは、天下の盛福なり。君明に臣直なるは、国の福なり。父慈に子孝に、夫信に妻貞なるは、家の福なり。故に比干は忠なれども殷を存する能はず、子胥は智なれども呉を完くする能はず、申生は孝なれども晋国乱る。是れ皆忠臣孝子有りて、国家滅乱する者は、何ぞや。明君賢父以てこれを聴く無し。故に天下その君父を以て僇辱と為してその臣子を憐れむ。今、商君・呉起・大夫種の人臣たるは、是なり。その君は非なり。故に世に三子は功を致して徳とせられずと称す、豈に世に遇はずして死するを慕はんや。
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