史記 / 春申君列伝
黃歇受約歸楚,楚使歇與太子完入質於秦,秦留之數年。楚頃襄王病,太子不得歸。而楚太子與秦相應侯善,於是黃歇乃說應侯曰:「相國誠善楚太子乎?」應侯曰:「然。」歇曰:「今楚王恐不起疾,秦不如歸其太子。太子得立,其事秦必重而德相國無窮,是親與國而得儲萬乘也。若不歸,則咸陽一布衣耳;楚更立太子,必不事秦。夫失與國而絕萬乘之和,非計也。願相國孰慮之。」應侯以聞秦王。秦王曰:「令楚太子之傅先往問楚王之疾,返而後圖之。」黃歇為楚太子計曰:「秦之留太子也,欲以求利也。今太子力未能有以利秦也,歇憂之甚。而陽文君子二人在中,王若卒大命,太子不在,陽文君子必立為後,太子不得奉宗廟矣。不如亡秦,與使者俱出;臣請止,以死當之。」楚太子因變衣服為楚使者御以出關,而黃歇守舍,常為謝病。度太子已遠,秦不能追,歇乃自言秦昭王曰:「楚太子已歸,出遠矣。歇當死,願賜死。」昭王大怒,欲聽其自殺也。應侯曰:「歇為人臣,出身以徇其主,太子立,必用歇,故不如無罪而歸之,
新字:黄歇受約帰楚,楚使歇与太子完入質於秦,秦留之数年。楚頃襄王病,太子不得帰。而楚太子与秦相応侯善,於是黄歇乃説応侯曰:「相国誠善楚太子乎?」応侯曰:「然。」歇曰:「今楚王恐不起疾,秦不如帰其太子。太子得立,其事秦必重而徳相国無窮,是親与国而得儲万乗也。若不帰,則咸陽一布衣耳;楚更立太子,必不事秦。夫失与国而絶万乗之和,非計也。願相国孰慮之。」応侯以聞秦王。秦王曰:「令楚太子之傅先往問楚王之疾,返而後図之。」黄歇為楚太子計曰:「秦之留太子也,欲以求利也。今太子力未能有以利秦也,歇憂之甚。而陽文君子二人在中,王若卒大命,太子不在,陽文君子必立為後,太子不得奉宗廟矣。不如亡秦,与使者倶出;臣請止,以死当之。」楚太子因変衣服為楚使者御以出関,而黄歇守舎,常為謝病。度太子已遠,秦不能追,歇乃自言秦昭王曰:「楚太子已帰,出遠矣。歇当死,願賜死。」昭王大怒,欲聴其自殺也。応侯曰:「歇為人臣,出身以徇其主,太子立,必用歇,故不如無罪而帰之,
書き下し
黄歇約を受けて楚に帰る。楚、歇をして太子完と入りて秦に質たらしむ、秦これを留むること数年。楚の頃襄王病む、太子帰るを得ず。而して楚の太子は秦の相応侯と善し、是に於いて黄歇乃ち応侯に説きて曰く、「相国誠に楚の太子を善くするか」と。応侯曰く、「然り」と。歇曰く、「今、楚王恐らくは疾より起たざらん、秦はその太子を帰すに如かず。太子立つを得ば、その秦に事ふること必ず重くして相国を徳とすること窮まり無からん、是れ与国に親しみて万乗を儲くるを得るなり。若し帰さずんば、則ち咸陽の一布衣のみ。楚更に太子を立てば、必ず秦に事へざらん。夫れ与国を失ひて万乗の和を絶つは、計に非ざるなり。願はくは相国これを孰慮せよ」と。応侯以て秦王に聞す。秦王曰く、「楚の太子の傅をして先づ往きて楚王の疾を問はしめ、返りて後にこれを図らん」と。黄歇、楚の太子の為に計りて曰く、「秦の太子を留むるや、以て利を求めんと欲するなり。今、太子の力未だ以て秦を利する有る能はざるなり、歇これを憂ふること甚だし。而して陽文君の子二人中に在り、王若し大命を卒へ、太子在らずんば、陽文君の子必ず立ちて後と為り、太子は宗廟を奉ずるを得ざらん。秦を亡れ、使者と倶に出づるに如かず。臣請ふ止まり、死を以てこれに当たらん」と。楚の太子因りて衣服を変じ楚の使者の御と為りて以て関を出で、而して黄歇は舎を守り、常に為に病と謝す。太子の已に遠く、秦の追ふ能はざるを度り、歇乃ち自ら秦の昭王に言ひて曰く、「楚の太子已に帰り、出でて遠し。歇は当に死すべし、願はくは死を賜へ」と。昭王大いに怒り、その自殺を聴かんと欲す。応侯曰く、「歇は人臣と為りて、身を出だして以てその主に徇ふ。太子立たば、必ず歇を用ひん。故に罪無くしてこれを帰し、
現代語訳
黄歇は盟約を受けて楚に帰った。楚は黄歇を太子の完と共に人質として秦に入らせ、秦は二人を数年間とどめ置いた。楚の頃襄王が病気になったが、太子は帰ることができなかった。楚の太子は秦の宰相の応侯(范雎)と親しかったので、黄歇は応侯に説いた。「相国は本当に楚の太子と親しくしておられるか。」応侯は言った。「そうだ。」黄歇は言った。「いま楚王はおそらく病から起き上がれないだろう。秦は太子を帰すのが一番だ。太子が即位できれば、必ず秦に手厚く仕え、相国への恩も限りなく感じるだろう。これは同盟国と親しみ、万乗の国の主を味方として蓄えることになる。もし帰さなければ、太子は咸陽の一介の庶民にすぎなくなる。楚が別の太子を立てれば、その者は決して秦に仕えないだろう。同盟国を失い、万乗の国との和を絶つのは、よい計略ではない。どうか相国はよくよくお考えいただきたい。」応侯はこれを秦王に伝えた。秦王は言った。「楚の太子の守り役をまず帰らせて楚王の病状を見舞わせ、戻ってきてから考えよう。」黄歇は楚の太子のために計略を立てて言った。「秦が太子を引き止めているのは、それで利益を得たいからだ。いま太子にはまだ秦に利益を与える力がない。私はそれがひどく心配だ。そのうえ陽文君の子が二人国内にいる。王がもし亡くなられたとき、太子がいなければ、陽文君の子が必ず跡継ぎに立ち、太子は先祖の祭りを受け継げなくなる。秦から逃げ出して、使者と一緒に出国するのが一番だ。私はここにとどまり、死んで責めを負おう。」楚の太子はそこで服を着替え、楚の使者の御者になりすまして関所を出た。黄歇は宿舎を守り、いつも太子は病気だと言って客を断った。太子がもう遠くまで行き、秦が追いつけないと見計らうと、黄歇は自ら秦の昭王に申し出た。「楚の太子はもう帰国し、遠くまで行ってしまった。私は死に値する。どうか死を賜りたい。」昭王は大いに怒り、黄歇が自害するのを許そうとした。応侯は言った。「黄歇は人の臣として、身を投げ出して主君に殉じようとしている。太子が即位すれば、必ず黄歇を用いるだろう。だから罪を問わずに帰して、
解説
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