春秋左氏伝 / 定公四年 困獣猶お闘う
十一月。庚午。二師陳于柏舉。闔廬之弟夫概王。晨請於闔廬曰。楚瓦不仁。其臣莫有死志。先伐之。其卒必奔。而後大師繼之。必克。弗許。夫概王曰。所謂臣義而行。不待命者。其此之謂也。今日我死。楚可入也。以其屬五千。先擊子常之卒。子常之卒奔。楚師亂。吳師大敗之。子常奔鄭。史皇以其乘廣死。吳從楚師。及清發。將擊之。夫概王曰。困獸猶鬥。況人乎。若知不免。而致死。必敗我。若使先濟者知免。後者慕之。蔑有鬥心矣。半濟而後可擊也。從之。又敗之。楚人為食。吳人及之。奔食而從之。敗諸雍澨。五戰及郢。己卯。楚子取其妹季芊畀我以出。涉睢。鍼尹固與王同舟。
新字:十一月。庚午。二師陳于柏舉。闔廬之弟夫概王。晨請於闔廬曰。楚瓦不仁。其臣莫有死志。先伐之。其卒必奔。而後大師継之。必克。弗許。夫概王曰。所謂臣義而行。不待命者。其此之謂也。今日我死。楚可入也。以其属五千。先撃子常之卒。子常之卒奔。楚師乱。呉師大敗之。子常奔鄭。史皇以其乗広死。呉従楚師。及清発。将撃之。夫概王曰。困獣猶鬥。況人乎。若知不免。而致死。必敗我。若使先済者知免。後者慕之。蔑有鬥心矣。半済而後可撃也。従之。又敗之。楚人為食。呉人及之。奔食而従之。敗諸雍澨。五戦及郢。己卯。楚子取其妹季芊畀我以出。渉睢。鍼尹固与王同舟。
書き下し
十一月、庚午、二師柏舉に陳す。闔廬の弟夫概王、晨に闔廬に請ひて曰く、「楚の瓦は不仁、其の臣死志有る莫し。先づ之を伐たば、其の卒必ず奔らん。而る後に大師之に繼がば、必ず克たん」と。許さず。夫概王曰く、「所謂臣義にして行ひ、命を待たずとは、其れ此の謂なり。今日我死せば、楚入る可きなり」と。其の屬五千を以って、先づ子常の卒を擊つ。子常の卒奔り、楚師亂る。吳師大いに之を敗る。子常鄭に奔る。史皇其の乘廣を以って死す。吳楚の師に從ひ、清發に及び、將に之を擊たんとす。夫概王曰く、「困獸すら猶ほ鬥ふ、況んや人をや。若し免れざるを知りて死を致さば、必ず我を敗らん。若し先に濟る者をして免るるを知らしめば、後る者之を慕ひ、鬥心有る蔑(な)からん。半ば濟りて後に擊つ可きなり」と。之に從ふ。又之を敗る。楚人食を為(つく)る。吳人之に及ぶ。奔る。食して之に從ひ、諸を雍澨に敗る。五たび戰ひて郢に及ぶ。己卯、楚子其の妹季芊畀我を取りて、以って出で、睢を涉る。鍼尹固王と舟を同じくす。
現代語訳
十一月庚午の日、呉と楚の両軍は柏挙で陣を構えた。闔廬の弟の夫概王は、早朝に闔廬に願い出た。「楚の瓦(子常)は不仁で、その臣下には死を覚悟する者がいません。まず子常の軍を攻めれば、その兵は必ず逃げるでしょう。その後に本隊が続けば、必ず勝てます」。闔廬は許さなかった。夫概王は言った。「『臣は義にかなうと思えば行い、命令を待たない』というのは、まさにこのことだ。今日私が死んでも、楚には攻め入ることができる」。そして配下の五千人を率いて、まず子常の兵を攻撃した。子常の兵は逃げ出し、楚軍は混乱した。呉軍は楚軍を大いに打ち破った。子常は鄭に逃げた。史皇は子常の兵車に乗って戦死した。呉は楚軍を追い、清発の川まで来て、攻撃しようとした。夫概王は言った。「追いつめられた獣でさえなお闘う。まして人間ならなおさらだ。もし逃れられないと知って決死になれば、必ず我々を打ち破るだろう。もし先に渡った者が助かることを知れば、後の者はそれを羨んで、闘う心がなくなるだろう。半分渡ったところで攻撃するのがよい」。これに従い、また楚軍を破った。楚の人々が食事を作っていたところに、呉の人々が追いついた。楚の人々は逃げ、呉の人々はその食事を食べてから追撃し、雍澨で楚軍を破った。五度戦って郢(楚の都)に達した。己卯の日、楚子(昭王)は妹の季芊畀我を連れて都を出て、睢水を渡った。鍼尹固が王と同じ舟に乗った。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』定公四年 子常、速戦に走る夏、蔡沈を滅ぼす。秋、楚沈の故の為に蔡を圍む。伍員吳の行人と為りて以って楚を謀る。楚の郤宛を殺すや、伯氏の族出づ。伯州犁の孫嚭、吳の大宰と為りて以って楚を謀る。楚は昭王位に即きてより、歲として吳の師有らざるは無し。蔡侯之に因り、其の子乾と其の大夫の子とを以って吳に質と為す。冬、蔡侯・吳子・唐侯、楚を伐つ。舟を淮汭に舍て、豫章より楚と漢を夾む。左司馬戌子常に謂ひて曰く、「子漢に沿ひて之と上下せよ。我方城の外を悉くして以って其の舟を毀ち、還りて大隧・直轅・冥阨を塞がん。子漢を濟りて之を伐て。我後より之を擊たば、必ず大いに之を敗らん」と。既に謀りて行く。武城黑子常に謂ひて曰く、「吳は木を用ゐ、我は革を用ゐる。久しくす可からざるなり。速やかに戰ふに如かず」と。史皇子常に謂ふ、「楚人子を惡みて司馬を好む。若し司馬吳の舟を淮に毀ち、城口を塞ぎて入らば、是れ獨り吳に克つなり。子必ず速やかに戰へ。然らずんば免れず」と。乃ち漢を濟りて陳す。小別より大別に至る。三たび戰ふ。子常不可なるを知り、奔らんと欲す。史皇曰く、「安くして其の事を求め、難くして之を逃る、將た何れの所にか入らん。子必ず之に死せよ。初めの罪必ず盡く說(と)かれん」と。
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『春秋左氏伝』定公四年 沈尹戌の最期王、燧象を執りて以て吳の師に奔らしむ。庚辰、吳、郢に入る。班を以て宮に處る。子山、令尹の宮に處る。夫概王、之を攻めんと欲す。懼れて之を去る。夫概王、之に入る。左司馬戌、息に及びて還り、吳の師を雍澨に敗る。傷つく。初め、司馬は闔廬に臣たり。故に禽と為るを恥づ。其の臣に謂ひて曰く、「誰か能く吾が首を免れしめん」と。吳句卑曰く、「臣賤し、可ならんか」と。司馬曰く、「我實に子を失せり。可なり」と。三たび戰ひて皆傷つく。曰く、「吾用ゐられざるのみ」と。句卑、裳を布き、剄りて之を裹み、其の身を藏して其の首を以て免る。楚子、睢を涉り江を濟りて、雲中に入る。王寢ぬ。盜、之を攻め、戈を以て王を擊つ。王孫由于、背を以て之を受け、肩に中る。王、鄖に奔る。鍾建、季芊を負ひて以て從ふ。由于、徐ろに蘇りて從ふ。鄖公辛の弟懷、將に王を弒せんとして曰く、「平王、吾が父を殺せり。我、其の子を殺す、亦た可ならずや」と。辛曰く、「君、臣を討つ、誰か敢へて之を讎とせん。君命は天なり。若し天命に死せば、將た誰をか讎とせん。詩に曰く、『柔も亦た茹はず、剛も亦た吐かず。矜寡を侮らず、彊禦を畏れず』と。
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『春秋左氏伝』定公五年 子期、麇を焚く九月、夫概王歸りて、自ら立つ。王と戰ひて敗るるを以て、楚に奔りて堂谿氏と為る。吳の師、楚の師を雍澨に敗る。秦の師、又吳の師を敗る。吳の師、麇に居る。子期、將に之を焚かんとす。子西曰く、「父兄親ら骨を焉に暴す。收むる能はずして、又之を焚くは、不可なり」と。子期曰く、「國亡びんとす。死者若し知有らば、以て舊祀を歆くべし。豈に之を焚くを憚らんや」と。之を焚きて又戰ふ。吳の師敗る。又公婿の谿に戰ふ。吳の師大いに敗る。吳子乃ち歸る。闉輿罷を囚ふ。闉輿罷、先んぜんことを請ひ、遂に逃れ歸る。葉公諸梁の弟后臧、其の母に從ひて吳に於いてす。待たずして歸る。葉公、終に正視せず。乙亥、陽虎、季桓子及び公父文伯を囚へて、仲梁懷を逐ふ。
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史記 呉太伯世家王闔廬の元年、伍子胥を挙げて行人と為して与に国事を謀る。楚、伯州犁を誅し、其の孫伯嚭亡げて呉に奔る。呉以て大夫と為す。三年、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将ゐて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、之を待て」と。四年、楚を伐ち、六と灊とを取る。五年、越を伐ちて之を敗る。六年、楚、子常囊瓦をして呉を伐たしむ。迎へて之を撃ち、大いに楚の軍を豫章に敗り、楚の居巣を取りて還る。九年、呉王闔廬、伍子胥・孫武に請ひて曰く、「始め子の言ふ、郢未だ入る可からずと。今果して如何」と。二子対へて曰く、「楚の将子常は貪り、而して唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに伐たんと欲せば、必ず唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之に従ひ、悉く師を興し、唐・蔡と西のかた楚を伐ち、漢水に至る。楚も亦兵を発して呉を拒ぎ、水を夾みて陳す。呉王闔廬の弟夫概戦はんと欲す。闔廬許さず。夫概曰く、「王已に臣に兵を属せり。兵は利を以て上と為す、尚ほ何をか待たん」と。遂に其の部五千人を以て楚を襲冒す。楚の兵大いに敗れて走る。是に於て呉王遂に兵を縦ちて之を追ふ。郢に至る比、五たび戦ひて、楚五たび敗る。楚の昭王亡げて郢を出で、鄖に奔る。鄖公の弟、昭王を弑せんと欲す。昭王、鄖公と随に奔る。而して呉の兵遂に郢に入る。子胥・伯嚭、平王の屍を鞭うちて以て父の讎に報ゆ。十年春、越、呉王の郢に在りて国空しきを聞き、乃ち呉を伐つ。呉、別兵をして越を撃たしむ。楚、急を秦に告ぐ。秦、兵を遣はして楚を救ひ呉を撃ち、呉の師敗る。闔廬の弟夫概、秦・越の交々呉を敗り、呉王の楚に留まりて去らざるを見て、夫概亡げて呉に帰りて自ら立ちて呉王と為る。闔廬之を聞き、乃ち兵を引きて帰り、夫概を攻む。夫概敗れて楚に奔る。楚の昭王乃ち九月を以て復た郢に入るを得て、夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。
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説苑・指武呉王闔廬荊人と柏舉に戰い、大いに之に勝ち、郢郊に至り、五たび荊人を敗る。闔廬の臣五人進みて諫めて曰く、「夫れ深く入り遠く報ゆるは、王の利に非ざるなり、王其れ返らんか」と。五將頭を鍥み、闔廬未だ之に應えず、五人の頭馬前に墜つ、闔廬懼れ、伍子胥を召して之に問う。子胥曰く、「五臣は懼るるなり。夫れ五敗の人は、其の懼るること甚だし、王姑く少しく進め」と。遂に郢に入り、南は江に至り、北は方城に至り、方三千里、皆楚に服せり。
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『春秋左氏伝』哀公元年 夫差は先づ自ら敗る秋、八月、吳、陳を侵す。舊怨を脩むるなり。齊侯・衛侯、乾侯に會す。范氏を救ふなり。師、齊師・衛の孔圉・鮮虞人に及び、晉を伐ちて棘蒲を取る。吳の師陳に在り。楚の大夫皆懼れて曰く、「闔廬は惟だ能く其の民を用ゐて、以て我を柏舉に敗れり。今聞く、其の嗣又焉より甚だし、と。將に之を若何せん」と。子西曰く、「二三子は相睦まざるを恤へよ。吳を患ふること無かれ。昔、闔廬は食に味を二にせず、居るに席を重ねず、室は壇を崇くせず、器は彤鏤せず、宮室は觀せず、舟車は飾らず、衣服財用は、擇びて費を取らず。國に在りては、天に菑癘有れば、親ら其の孤寡を巡りて、其の乏困に共す。軍に在りては、熟食する者分かちて而る後に敢へて食ふ。其の嘗むる所は、卒乘焉に與る。勤めて其の民を恤みて、之と勞逸を與にす。是を以て民罷勞せず、死して曠しきを知らず。吾が先大夫子常は之に易(か)はる。我を敗りし所以なり。今聞く、夫差は、次(やど)るに臺榭陂池有り、宿るに妃嬙嬪御有り。一日の行も、欲する所は必ず成し、玩好は必ず從へ、珍異を是れ聚め、觀樂を是れ務む。民を視ること讎の如くして、之を用ゐること日に新たなり。夫れ先づ自ら敗るるのみ。安んぞ能く我を敗らん」と。冬、十一月、晉の趙鞅、朝歌を伐つ。
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