春秋左氏伝 / 定公二年 呉、楚を豫章に破る
二年夏。四月。辛酉。鞏氏之群子弟賊簡公。桐叛楚。吳子使舒鳩氏誘楚人曰。以師臨我。我伐桐。為我使之無忌。秋。楚囊瓦伐吳師于豫章。吳人見舟于豫章。而潛師于巢。冬。十月。吳軍楚師于豫章。敗之。遂圍巢。克之。獲楚公子繁。邾莊公與夷射姑飲酒。私出。閽乞肉焉。奪之杖以敲之。
新字:二年夏。四月。辛酉。鞏氏之群子弟賊簡公。桐叛楚。呉子使舒鳩氏誘楚人曰。以師臨我。我伐桐。為我使之無忌。秋。楚嚢瓦伐呉師于予章。呉人見舟于予章。而潜師于巣。冬。十月。呉軍楚師于予章。敗之。遂囲巣。克之。獲楚公子繁。邾荘公与夷射姑飲酒。私出。閽乞肉焉。奪之杖以敲之。
書き下し
二年夏、四月、辛酉、鞏氏の群子弟簡公を賊す。桐楚に叛く。吳子舒鳩氏をして楚人を誘はしめて曰く、「師を以って我に臨め、我桐を伐たん。我が為に之をして忌む無からしめよ」と。秋、楚の囊瓦吳師を豫章に伐つ。吳人舟を豫章に見(しめ)して、師を巢に潛む。冬、十月、吳楚の師に豫章に軍し、之を敗る。遂に巢を圍み、之に克ち、楚の公子繁を獲たり。邾の莊公夷射姑と酒を飲む。私(しし)に出づ。閽肉を乞ふ。之が杖を奪ひて以って之を敲く。
現代語訳
定公二年の夏四月辛酉の日、鞏氏の子弟たちが主君の鞏簡公を殺した。桐が楚に背いた。呉子(闔廬)は舒鳩氏に楚の人々を誘わせ、こう言った。「『楚が軍を率いて我々に迫れば、我々は(楚を恐れて楚のために)桐を伐ちましょう』と楚に言え。私のために、楚が呉を警戒しないようにさせるのだ」。秋、楚の囊瓦(子常、令尹)は呉の軍を豫章で攻めた。呉の人々は豫章に舟を並べて見せておきながら、軍をひそかに巣に潜ませていた。冬十月、呉は豫章で楚の軍に攻めかかり、これを破った。そのまま巣を包囲して攻め落とし、楚の公子繁を捕らえた。邾の荘公は夷射姑と酒を飲んだ。夷射姑が小用に出たとき、門番が肉を乞うた。夷射姑は門番の杖を奪って、それで門番を殴りつけた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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