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春秋左氏伝 / 定公元年 昭公の墓と諡

六月。癸亥。公之喪至自乾侯。戊辰公即位。季孫使役如闞。公氏將溝焉。榮鴐鵝曰。生不能事。死又離之。以自旌也。縱子忍之。後必或恥之。乃止。季孫問於榮鴐鵝曰。吾欲為君謚。使子孫知之。對曰。生弗能事。死又惡之。以自信也。將焉用之。乃止。秋。七月。癸巳。葬昭公於墓道南。孔子之為司寇也。溝而合諸墓。昭公出故。季平子禱于煬公。九月。立煬宮。周鞏簡公棄其子弟而好用遠人。

新字:六月。癸亥。公之喪至自乾侯。戊辰公即位。季孫使役如闞。公氏将溝焉。栄鴐鵝曰。生不能事。死又離之。以自旌也。縦子忍之。後必或恥之。乃止。季孫問於栄鴐鵝曰。吾欲為君謚。使子孫知之。対曰。生弗能事。死又悪之。以自信也。将焉用之。乃止。秋。七月。癸巳。葬昭公於墓道南。孔子之為司寇也。溝而合諸墓。昭公出故。季平子祷于煬公。九月。立煬宮。周鞏簡公棄其子弟而好用遠人。

書き下し

六月、癸亥、公の喪乾侯より至る。戊辰、公位に即く。季孫役をして闞の公氏に如かしめ、將に焉に溝せんとす。榮鴐鵝曰く、「生きては事ふること能はず、死しては又之を離す。以って自ら旌(あらは)すなり。縱ひ子之を忍ぶも、後必ず之を恥づる或らん」と。乃ち止む。季孫榮鴐鵝に問ひて曰く、「吾君の為に謚して、子孫をして之を知らしめんと欲す」と。對へて曰く、「生きては事ふること能はず、死しては又之を惡(にく)む。以って自ら信(あきら)かにするなり。將た焉んぞ之を用ゐん」と。乃ち止む。秋、七月、癸巳、昭公を墓道の南に葬る。孔子の司寇為るや、溝して諸を墓に合す。昭公出づるの故に、季平子煬公に禱る。九月、煬宮を立つ。周の鞏簡公其の子弟を棄てて好んで遠人を用ゐる。

現代語訳

六月癸亥の日、公(昭公)の遺骸が乾侯から到着した。戊辰の日、公(定公)が即位した。季孫(季平子)は人夫を闞にある公室の墓地に行かせ、そこに溝を掘って、昭公の墓を歴代の君の墓から切り離そうとした。栄鴐鵝は言った。「生きているうちは仕えることができず、死んでからまたその墓を切り離す。それは自らの非を世に掲げ示すことになります。たとえあなたがそれを平気でできても、後の世に必ずそれを恥じる者が出るでしょう」。そこで取りやめた。季孫は栄鴐鵝に尋ねた。「私は君のために(悪い)諡をつけて、子孫にこのことを知らせたい」。栄鴐鵝は答えた。「生きているうちは仕えることができず、死んでからまたその人を憎む。それは自らの罪を明らかにするだけです。どうしてそんなことをする必要がありましょう」。そこでこれも取りやめた。秋七月癸巳の日、昭公を墓地の参道の南に葬った。孔子が司寇になったとき、溝を掘って墓域を広げ、昭公の墓を先君の墓と一つの墓域に合わせた。昭公が国外に出た件について、季平子は煬公の霊に祈っていた。九月、煬公の廟を建てた。周の鞏簡公は自分の一族の子弟を退けて、好んで遠方の人を登用した。

解説

亡命先で死んだ昭公の遺骸が帰り、弟の定公が即位する。季平子は昭公の墓を歴代の君の墓域から溝で切り離し、さらに悪い諡をつけて子孫に知らしめようとする。これを止めたのが栄鴐鵝である。二つの諫言はほぼ同じ形をとる。生前に仕えられなかったのに、死後に墓を離し、名を貶めれば、それは相手ではなく自分の非を世に示すことになる、と。季平子の側に立ちつつ、その行為が季氏自身の評判を傷つけるという角度から止めているところが巧みである。後に孔子が司寇となったとき、溝を掘って昭公の墓を墓域に合わせたという追記は、礼による是正を左伝が書き留めたものである。末尾の、鞏簡公が身内を棄てて遠方の人を用いたという記事は、次句での彼の殺害への伏線になっている。争った相手が去ったあと、その扱いをどうするかは、相手よりも自分の姿を映すことになる。

この章句が説くこと

諫言死者への礼名誉評判自制

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