史記 / 白起王翦列伝
其九月、秦復發兵、攻趙邯鄲、不能拔。武安君病、不任行。秦王使王齕圍邯鄲、不能拔。楚魏救趙、秦軍多失亡。武安君言曰、秦不聽臣計、今如何矣。秦王聞之怒、彊起武安君、武安君遂稱病篤。免武安君為士伍、遷之陰密。秦昭王與應侯群臣議曰、白起之遷、其意尚怏怏不服、有餘言。秦王乃使使者賜之劍、自裁。武安君引劍將自剄、曰、我何罪于天而至此哉。良久曰、我固當死。長平之戰、趙卒降者數十萬人、我詐而盡阬之、是足以死。遂自殺。死而非其罪、秦人憐之、鄉邑皆祭祀焉。
新字:其九月、秦復発兵、攻趙邯鄲、不能抜。武安君病、不任行。秦王使王齕囲邯鄲、不能抜。楚魏救趙、秦軍多失亡。武安君言曰、秦不聴臣計、今如何矣。秦王聞之怒、彊起武安君、武安君遂称病篤。免武安君為士伍、遷之陰密。秦昭王与応侯群臣議曰、白起之遷、其意尚怏怏不服、有余言。秦王乃使使者賜之剣、自裁。武安君引剣将自剄、曰、我何罪于天而至此哉。良久曰、我固当死。長平之戦、趙卒降者数十万人、我詐而尽阬之、是足以死。遂自殺。死而非其罪、秦人憐之、鄉邑皆祭祀焉。
書き下し
其の九月、秦復た兵を発し、趙の邯鄲を攻むるも、抜く能はず。武安君病みて行くに任へず。秦王王齕をして邯鄲を囲ましむるも、抜く能はず。楚魏趙を救ひ、秦軍多く失亡す。武安君言ひて曰く、「秦臣の計を聴かず、今如何」と。秦王之を聞きて怒り、彊ひて武安君を起たしむるも、武安君遂に病篤しと称す。武安君を免じて士伍と為し、之を陰密に遷す。秦の昭王、応侯群臣と議して曰く、「白起の遷さるるや、其の意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をして之に剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君剣を引きて将に自剄せんとして曰く、「我何の罪ありて天に至れば此に至るか」と。良や久しくして曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦、趙卒降る者数十万人、我詐りて尽く之を坑にせり、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。死して其の罪に非ず、秦人之を憐み、郷邑皆焉に祭祀す。
現代語訳
その年の九月、秦はふたたび兵を出して趙の邯鄲を攻めたが、落とせなかった。武安君は病で従軍できなかった。秦王は王齕に邯鄲を包囲させたが、やはり落とせなかった。楚と魏が趙を救援し、秦軍は多くの損害を出した。武安君は言った。「秦は私の献策を聞かなかった。さあ、今どうなったか」。秦王はこれを聞いて怒り、無理にでも武安君を起用しようとしたが、武安君はあくまで重病だと言い張った。そこで武安君を罷免して一兵卒の身分に落とし、陰密へ移した。秦の昭王は応侯や群臣と相談して言った。「白起は左遷されても、なお不満で従わず、恨み言を口にしている」。そこで秦王は使者に剣を持たせて賜わり、自害させた。武安君は剣を引き寄せて自ら首をはねようとして言った。「私に何の罪があって、天はこんな目に遭わせるのか」。しばらくして、こう言った。「私はもとより死ぬべきだった。長平の戦いで、降伏した趙の兵は数十万人。私は偽ってことごとく生き埋めにした。それだけで死ぬに値する」。そして自殺した。その死は罪によるものではなかったので、秦の人々は彼を憐れみ、村や町でみな彼を祀った。
解説
この章句が説くこと
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