春秋左氏伝 / 昭公三十年 子西、呉の仇を養うを諫む
莠尹然。左司馬沈尹戌。城之。取於城父與胡田以與之。將以害吳也。子西諫曰。吳光新得國而親其民。視民如子。辛苦同之。將用之也。若好吳邊疆。使柔服焉。猶懼其至。吾又疆其讎。以重怒之。無乃不可乎。吳。周之冑裔也。而棄在海濱。不與姬通。今而始大。比于諸華。光又甚文。將自同於先王。不知天將以為虐乎。使翦喪吳國。而封大異姓乎。其抑亦將卒以祚吳乎。其終不遠矣。我盍姑億吾鬼神。而寧吾族姓。以待其歸。將焉用自播揚焉。王弗聽。吳子怒。
新字:莠尹然。左司馬沈尹戌。城之。取於城父与胡田以与之。将以害呉也。子西諫曰。呉光新得国而親其民。視民如子。辛苦同之。将用之也。若好呉辺疆。使柔服焉。猶懼其至。吾又疆其讎。以重怒之。無乃不可乎。呉。周之冑裔也。而棄在海浜。不与姫通。今而始大。比于諸華。光又甚文。将自同於先王。不知天将以為虐乎。使翦喪呉国。而封大異姓乎。其抑亦将卒以祚呉乎。其終不遠矣。我盍姑億吾鬼神。而寧吾族姓。以待其帰。将焉用自播揚焉。王弗聴。呉子怒。
書き下し
莠尹然・左司馬沈尹戌、之に城き、城父と胡との田を取りて以って之に與ふ。將に以って吳を害せんとするなり。子西諫めて曰く、「吳光新たに國を得て、其の民を親しみ、民を視ること子の如く、辛苦之を同じくす。將に之を用ゐんとするなり。若し吳の邊疆を好(よし)みして、柔服せしむるも、猶ほ其の至るを懼る。吾又其の讎を疆くして、以って重ねて之を怒らしむ。乃ち不可なること無からんや。吳は周の冑裔なり。而るに海濱に棄てられ、姬と通ぜず。今にして始めて大いに、諸華に比す。光又甚だ文なり、將に自ら先王に同じからんとす。知らず、天將に以って虐を為さしめ、吳國を翦喪せしめて、異姓を封大せんとするか。其れ抑も亦た將に卒に以って吳に祚せんとするか。其の終はり遠からず。我盍ぞ姑く吾が鬼神を億(やす)んじ、吾が族姓を寧んじ、以って其の歸を待たざる。將た焉んぞ自ら播揚するを用ゐん」と。王聽かず。吳子怒る。
現代語訳
莠尹の然と左司馬の沈尹戌がそこ(養)に城を築き、城父と胡の田地を取り上げて二人の公子に与えた。これによって呉に害を与えようとしたのである。子西(楚の令尹、公子申)が諫めて言った。「呉の光(闔廬)は新たに国を得て、その民を親しみ、民を子のように見て、苦労を共にしています。いずれ民を用いて事を起こすつもりなのです。たとえ呉との国境で友好を結び、相手を穏やかに服させたとしても、なお呉が攻めてくるのを恐れねばなりません。それなのに我々はさらに呉の仇敵を強め、重ねて呉を怒らせています。それはよくないことではありませんか。呉は周の子孫の家柄です。それなのに海辺に棄て置かれ、姫姓の諸国と交わってきませんでした。今ようやく大きくなって、中原の諸国と肩を並べるようになりました。光はまたたいへん教養があり、自らを先王になぞらえようとしています。天が呉に暴虐を行わせて呉国を滅ぼし、異姓の国を大きく封じようとしているのか、それともついには呉に福を与えようとしているのか、分かりません。その結末は遠くないでしょう。我々はひとまず自国の鬼神を安んじ、一族を安らかにして、その帰趨を待つのがよいではありませんか。どうして自ら騒ぎ立てて事を広げる必要がありましょう」。王は聞き入れなかった。呉子は怒った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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