春秋左氏伝 / 昭公三十年 旧に豊有り省有り
先君有所。助執紼矣。若其不間。雖士大夫。有所不獲數矣。大國之惠。亦慶其加。而不討其乏。明厎其情。取備而已。以為禮也。靈王之喪。我先君簡公在楚。我先大夫印段實往。敝邑之少卿也。王吏不討。恤所無也。今大夫曰。女盍從舊。舊有豐有省。不知所從。從其豐。則寡君幼弱。是以不共。從其省。則吉在此矣。唯大夫圖之。晉人不能詰。吳子使徐人執掩餘。使鍾吾人執燭庸。二公子奔楚。楚子大封而定其徙。使監馬尹大心逆吳公子。使居養。
新字:先君有所。助執紼矣。若其不間。雖士大夫。有所不獲数矣。大国之恵。亦慶其加。而不討其乏。明厎其情。取備而已。以為礼也。霊王之喪。我先君簡公在楚。我先大夫印段実往。敝邑之少卿也。王吏不討。恤所無也。今大夫曰。女盍従旧。旧有豊有省。不知所従。従其豊。則寡君幼弱。是以不共。従其省。則吉在此矣。唯大夫図之。晋人不能詰。呉子使徐人執掩余。使鍾吾人執燭庸。二公子奔楚。楚子大封而定其徙。使監馬尹大心逆呉公子。使居養。
書き下し
先君も所有りて、紼を執るを助けたり。若し其れ間あらずんば、士大夫と雖も、數を獲ざる所有り。大國の惠は、亦た其の加ふるを慶して、其の乏しきを討たず。明らかに其の情を厎(いた)し、備はるを取るのみ、以って禮と為すなり。靈王の喪に、我が先君簡公楚に在り、我が先大夫印段實に往けり、敝邑の少卿なり。王吏討たざるは、無き所を恤めばなり。今大夫曰く、『女盍ぞ舊に從はざる』と。舊には豐有り省有り、從ふ所を知らず。其の豐に從はば、則ち寡君幼弱なり、是を以って共せず。其の省に從はば、則ち吉此に在り。唯だ大夫之を圖れ」と。晉人詰る能はず。吳子、徐人をして掩餘を執へしめ、鍾吾人をして燭庸を執へしむ。二公子楚に奔る。楚子大いに封じて其の徙るを定め、監馬尹大心をして吳の公子を逆へしめ、養に居らしむ。
現代語訳
先君(鄭の歴代の君)も自ら赴いて、柩の綱を執るのを手伝ったことがあります。もし余裕がなければ、士や大夫でさえ、規定の数をそろえられないことがありました。大国の恩恵とは、礼を加えたときにはそれを喜び、足りないときにはそれを咎めないことです。こちらの実情をはっきり分かってくださり、礼の形が整っていればよしとする、それが礼というものです。周の霊王の喪のとき、わが先君簡公は楚におり、わが先大夫の印段が弔問に行きましたが、これはわが国の下位の卿でした。それでも周王の役人が咎めなかったのは、わが国の足りないところを思いやってくれたからです。いま大夫(魏献子)は『なぜ昔の例に従わないのか』と言われます。昔の例には手厚いものも簡略なものもあり、どれに従えばよいか分かりません。手厚い例に従うなら、わが君は幼く弱いので、それゆえ(君自ら来ることは)できません。簡略な例に従うなら、この吉(私)がここにおります。どうか大夫にはよくお考えいただきたい」。晋の人々はそれ以上詰問できなかった。呉子(闔廬)は徐の人に掩余を捕らえさせ、鍾吾の人に燭庸を捕らえさせようとした。二人の公子(呉王僚の弟たち)は楚に亡命した。楚子(昭王)は二人に大いに土地を与えて移住先を定め、監馬尹の大心に呉の公子たちを迎えさせ、養の地に住まわせた。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第六章 禮儀・予も亦た君と苦を分つされど、はなはだ笑ふべき行為と目すべきは、彼れの語る時、傘を傾けて、又た炎々たる日光の直射する所となるを見ん、何ぞ愚の甚しきやと。然り、彼の意にして、もし『君は日下に立つ、同情に堪へず。予の傘の大なるか、或は君と深交あるならんには、予の傘下に君を入るるを悦びとせん。されど今、君を蔽ふ能はざるが故に、予も亦た君と苦を分つ』と云ふに非ざれば、彼の為す所は実に愚なり。此れと等しく、否、此れにも勝りて笑ふべき些細の行為尠しとせず。而して此等は単に動止習俗たるには非らずして、却つて他人の快感を察する、思慮ある感情の所謂『体』せられたるものなり。我国礼法の儀文の生じたる習慣中には、又た一事のはなはだ笑ふべきものあり。
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