春秋左氏伝 / 昭公二十六年 子西、王位を辞す
四月。單子如晉告急。五月。戊午。劉人敗王城之師于尸氏。戊辰。王城人。劉人。戰于施谷。劉師敗績。秋。盟于剸陵。謀納公也。七月。己巳。劉子以王出。庚午。次于渠。王城人焚劉。丙子。王宿于褚氏。丁丑。王次于萑谷。庚辰。王入于胥靡。辛巳。王次于滑。晉知躒。趙鞅。帥師納王。使汝寬守關塞。九月。楚平王卒。令尹子常欲立子西。曰。大子壬弱。其母非適也。王子建實聘之。子西長而好善。立長則順。建善則治。王順國治。可不務乎。子西怒曰。是亂國而惡君王也。國有外援。不可瀆也。王有適嗣。不可亂也。敗親速讎亂嗣不祥。我受其名。賂吾以天下。吾滋不從也。楚國何為。必殺令尹。令尹懼。乃立昭王。冬。十月。丙申。王起師于滑。辛丑。在郊。遂次于尸。
新字:四月。単子如晋告急。五月。戊午。劉人敗王城之師于尸氏。戊辰。王城人。劉人。戦于施谷。劉師敗績。秋。盟于剸陵。謀納公也。七月。己巳。劉子以王出。庚午。次于渠。王城人焚劉。丙子。王宿于褚氏。丁丑。王次于萑谷。庚辰。王入于胥靡。辛巳。王次于滑。晋知躒。趙鞅。帥師納王。使汝寛守関塞。九月。楚平王卒。令尹子常欲立子西。曰。大子壬弱。其母非適也。王子建実聘之。子西長而好善。立長則順。建善則治。王順国治。可不務乎。子西怒曰。是乱国而悪君王也。国有外援。不可瀆也。王有適嗣。不可乱也。敗親速讎乱嗣不祥。我受其名。賂吾以天下。吾滋不従也。楚国何為。必殺令尹。令尹懼。乃立昭王。冬。十月。丙申。王起師于滑。辛丑。在郊。遂次于尸。
書き下し
四月、單子晉に如きて急を告ぐ。五月、戊午、劉人王城の師を尸氏に敗る。戊辰、王城の人・劉人、施谷に戰ふ。劉の師敗績す。秋、剸陵(せんりょう)に盟ふ。公を納るるを謀るなり。七月、己巳、劉子王を以って出づ。庚午、渠に次る。王城の人劉を焚く。丙子、王褚氏に宿る。丁丑、王萑谷に次る。庚辰、王胥靡に入る。辛巳、王滑に次る。晉の知躒(ちれき)・趙鞅、師を帥ゐて王を納れ、汝寬をして關塞を守らしむ。九月、楚の平王卒す。令尹子常、子西を立てんと欲して曰く、「大子壬は弱く、其の母は適に非ざるなり。王子建實に之を聘せり。子西は長じて善を好む。長を立つれば則ち順に、善を建つれば則ち治まる。王順にして國治まる、務めざる可けんや」と。子西怒りて曰く、「是れ國を亂して君王を惡むなり。國に外援有り、瀆す可からざるなり。王に適嗣有り、亂す可からざるなり。親を敗り讎を速(まね)き嗣を亂すは不祥なり。我其の名を受けん。吾に賂ふに天下を以ってすとも、吾滋(ますます)從はざるなり。楚國何をか為さん。必ず令尹を殺さん」と。令尹懼れ、乃ち昭王を立つ。冬、十月、丙申、王、師を滑に起こす。辛丑、郊に在り。遂に尸に次る。
現代語訳
四月、単子(単旗、周の卿で敬王派)は晋へ行って危急を告げた。五月戊午の日、劉の人々は王城の軍(王子朝派)を尸氏で破った。戊辰の日、王城の人々と劉の人々が施谷で戦い、劉の軍が大敗した。秋、剸陵で盟約を結んだ。昭公を魯に戻すことを相談するためである。七月己巳の日、劉子(劉狄、敬王派)は敬王を連れて出た。庚午の日、渠に宿営した。王城の人々は劉の邑を焼いた。丙子の日、王は褚氏に泊まった。丁丑の日、萑谷に宿営した。庚辰の日、胥靡に入った。辛巳の日、滑に宿営した。晋の知躒(ちれき)と趙鞅が軍を率いて王を都に入れようとし、汝寛に関所を守らせた。九月、楚の平王が亡くなった。令尹の子常(囊瓦)は子西(公子申、平王の庶子)を立てようとして言った。「太子の壬は幼く、その母は正式な夫人ではありません。もともと王子建(平王の太子)の妻として迎えた人でした。子西は年長で、善を好みます。年長の者を立てれば筋が通り、善き人を立てれば国は治まります。王が筋にかない国が治まるのですから、努めないでよいでしょうか」。子西は怒って言った。「それは国を乱し、君王を悪く言うものだ。国には外からの後ろ盾(太子の母の実家の秦)があり、侮ってはならない。王には正統の跡継ぎがおり、乱してはならない。姻戚を損ない、仇を招き、跡継ぎを乱すのは不吉なことだ。その汚名を私がかぶることになる。天下をやると言って買収されても、ますます従うまい。楚の国を得て何になろう。必ず令尹を殺す」。令尹は恐れて、昭王(太子壬)を立てた。冬十月丙申の日、敬王は滑で軍を起こした。辛丑の日、郊に至り、さらに尸に宿営した。
解説
この章句が説くこと
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説苑・奉使晉楚の君相與に好會を宛丘の上に爲す。宋人をして往かしむ。晉楚の大夫曰く、「趣かに天子の禮を以て吾が君に見えよ、我子の爲に見えん。」使者曰く、「冠弊ると雖も、宜しく其の上に加うべし。履新たなりと雖も、宜しく其の下に居るべし。周室微なりと雖も、諸侯未だ之を易うる能わざるなり。師宋城に升るとも、猶お臣の服を更めざるなり。」揖して之を去る。諸大夫瞿然とし、遂に諸侯の禮を以て之に見ゆ。
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史記 高祖本紀高祖長く雒陽に都せんと欲す、斉人劉敬説き、乃ち留侯上に勧めて関中に入り都せしむ、高祖是の日駕して、入りて関中に都す。六月、天下に大赦す。十月、燕王臧荼反し、代の地を攻め下す。高祖自ら将として之を撃ち、燕王臧荼を得たり。即ち太尉盧綰を立てて燕王と為す。丞相噲をして兵を将ゐて代を攻めしむ。其の秋、利幾反す、高祖自ら兵を将ゐて之を撃つ、利幾走る。利幾は、項氏の将なり。項氏敗れ、利幾陳公為り、項羽に随はず、亡げて高祖に降る、高祖之を潁川に侯とす。高祖雒陽に至り、通侯の籍を挙げて之を召す、而して利幾恐る、故に反す。六年、高祖五日に一たび太公に朝す、家人の父子の礼の如くす。太公の家令太公に説きて曰く、「天に二日無く、土に二王無し。今高祖子なりと雖も、人主なり。太公父なりと雖も、人臣なり。柰何ぞ人主をして人臣を拝せしめん。此くの如くならば、則ち威重行はれず。」と。後に高祖朝す、太公篲(ほうき)を擁し、門に迎へて卻行す。高祖大いに驚き、下りて太公を扶く。太公曰く、「帝は、人主なり、柰何ぞ我を以て天下の法を乱さん。」と。是に於て高祖乃ち太公を尊びて太上皇と為す。心に家令の言を善しとし、金五百斤を賜ふ。十二月、人変事を上りて楚王信の謀反を告ぐる有り、上左右に問ふ、左右争ひて之を撃たんと欲す。陳平の計を用ゐ、乃ち偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会す、楚王信迎ふ、即ち因りて之を執ふ。是の日、天下に大赦す。田肯賀し、因りて高祖に説きて曰く、「陛下韓信を得、又秦中を治む。秦は、形勝の国なり、河山の険を帯び、県隔すること千里、戟を持つもの百万、秦百に二を得たり。地勢便利にして、其の以て兵を諸侯に下すこと、譬へば猶ほ高屋の上に居りて瓴水を建(くつがへ)すがごときなり。夫れ斉は、東に瑯邪・即墨の饒有り、南に泰山の固有り、西に濁河の限有り、北に勃海の利有り。
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尚書・盤庚上網の綱に在るが若く、条有りて紊れず。
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論語・八佾篇子曰く、『夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず。』
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『春秋左氏伝』昭公七年 普天の下、王土に非ざる莫し七年春、王の正月、齊と平らぐ。齊之を求むるなり。癸巳、齊侯虢に次る。燕人成を行ひて曰く、「敝邑罪を知る、敢へて命を聽かざらんや。先君の敝器もて、請ふ以て罪を謝せん」と。公孫皙曰く、「服を受けて退き、釁を俟ちて動くは、可なり」と。二月、戊午、濡上に盟ふ。燕人燕姬を歸(とつ)がしめ、賂ふに瑤罋・玉櫝・斝耳を以てす。克たずして還る。楚子の令尹為るや、王の旌を為りて以て田す。芋尹無宇之を斷ちて曰く、「一國に兩君あらば、其れ誰か之に堪へん」と。即位するに及び、章華の宮を為り、亡人を納れて以て之を實たす。無宇の閽焉に入る。無宇之を執ふ。有司與へずして曰く、「人を王宮に執ふ、其の罪大なり」と。執へて諸を王に謁す。王將に酒を飲まんとす。無宇辭して曰く、「天子は經略し、諸侯は封を正す、古の制なり。封略の内、何か君の土に非ざる。土の毛を食む、誰か君の臣に非ざる。故に詩に曰く、『普天の下、王土に非ざる莫く、率土の濱、王臣に非ざる莫し』と。
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