史記 / 高祖本紀
高祖欲長都雒陽,齊人劉敬說,乃留侯勸上入都關中,高祖是日駕,入都關中。六月,大赦天下。十月,燕王臧荼反,攻下代地。高祖自將擊之,得燕王臧荼。即立太尉盧綰為燕王。使丞相噲將兵攻代。其秋,利幾反,高祖自將兵擊之,利幾走。利幾者,項氏之將。項氏敗,利幾為陳公,不隨項羽,亡降高祖,高祖侯之潁川。高祖至雒陽,舉通侯籍召之,而利幾恐,故反。六年,高祖五日一朝太公,如家人父子禮。太公家令說太公曰:「天無二日,土無二王。今高祖雖子,人主也;太公雖父,人臣也。柰何令人主拜人臣!如此,則威重不行。」後高祖朝,太公擁篲,迎門卻行。高祖大驚,下扶太公。太公曰:「帝,人主也,柰何以我亂天下法!」於是高祖乃尊太公為太上皇。心善家令言,賜金五百斤。十二月,人有上變事告楚王信謀反,上問左右,左右爭欲擊之。用陳平計,乃偽遊雲夢,會諸侯於陳,楚王信迎,即因執之。是日,大赦天下。田肯賀,因說高祖曰:「陛下得韓信,又治秦中。秦,形勝之國,帶河山之險,縣隔千里,持戟百萬,秦得百二焉。地勢便利,其以下兵於諸侯,譬猶居高屋之上建瓴水也。夫齊,東有瑯邪、即墨之饒,南有泰山之固,西有濁河之限,北有勃海之利。
新字:高祖欲長都雒陽,斉人劉敬説,乃留侯勧上入都関中,高祖是日駕,入都関中。六月,大赦天下。十月,燕王臧荼反,攻下代地。高祖自将撃之,得燕王臧荼。即立太尉盧綰為燕王。使丞相噲将兵攻代。其秋,利幾反,高祖自将兵撃之,利幾走。利幾者,項氏之将。項氏敗,利幾為陳公,不随項羽,亡降高祖,高祖侯之潁川。高祖至雒陽,舉通侯籍召之,而利幾恐,故反。六年,高祖五日一朝太公,如家人父子礼。太公家令説太公曰:「天無二日,土無二王。今高祖雖子,人主也;太公雖父,人臣也。柰何令人主拝人臣!如此,則威重不行。」後高祖朝,太公擁篲,迎門却行。高祖大驚,下扶太公。太公曰:「帝,人主也,柰何以我乱天下法!」於是高祖乃尊太公為太上皇。心善家令言,賜金五百斤。十二月,人有上変事告楚王信謀反,上問左右,左右争欲撃之。用陳平計,乃偽遊雲夢,会諸侯於陳,楚王信迎,即因執之。是日,大赦天下。田肯賀,因説高祖曰:「陛下得韓信,又治秦中。秦,形勝之国,帯河山之険,県隔千里,持戟百万,秦得百二焉。地勢便利,其以下兵於諸侯,譬猶居高屋之上建瓴水也。夫斉,東有瑯邪、即墨之饒,南有泰山之固,西有濁河之限,北有勃海之利。
書き下し
高祖長く雒陽に都せんと欲す、斉人劉敬説き、乃ち留侯上に勧めて関中に入り都せしむ、高祖是の日駕して、入りて関中に都す。六月、天下に大赦す。十月、燕王臧荼反し、代の地を攻め下す。高祖自ら将として之を撃ち、燕王臧荼を得たり。即ち太尉盧綰を立てて燕王と為す。丞相噲をして兵を将ゐて代を攻めしむ。其の秋、利幾反す、高祖自ら兵を将ゐて之を撃つ、利幾走る。利幾は、項氏の将なり。項氏敗れ、利幾陳公為り、項羽に随はず、亡げて高祖に降る、高祖之を潁川に侯とす。高祖雒陽に至り、通侯の籍を挙げて之を召す、而して利幾恐る、故に反す。六年、高祖五日に一たび太公に朝す、家人の父子の礼の如くす。太公の家令太公に説きて曰く、「天に二日無く、土に二王無し。今高祖子なりと雖も、人主なり。太公父なりと雖も、人臣なり。柰何ぞ人主をして人臣を拝せしめん。此くの如くならば、則ち威重行はれず。」と。後に高祖朝す、太公篲(ほうき)を擁し、門に迎へて卻行す。高祖大いに驚き、下りて太公を扶く。太公曰く、「帝は、人主なり、柰何ぞ我を以て天下の法を乱さん。」と。是に於て高祖乃ち太公を尊びて太上皇と為す。心に家令の言を善しとし、金五百斤を賜ふ。十二月、人変事を上りて楚王信の謀反を告ぐる有り、上左右に問ふ、左右争ひて之を撃たんと欲す。陳平の計を用ゐ、乃ち偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会す、楚王信迎ふ、即ち因りて之を執ふ。是の日、天下に大赦す。田肯賀し、因りて高祖に説きて曰く、「陛下韓信を得、又秦中を治む。秦は、形勝の国なり、河山の険を帯び、県隔すること千里、戟を持つもの百万、秦百に二を得たり。地勢便利にして、其の以て兵を諸侯に下すこと、譬へば猶ほ高屋の上に居りて瓴水を建(くつがへ)すがごときなり。夫れ斉は、東に瑯邪・即墨の饒有り、南に泰山の固有り、西に濁河の限有り、北に勃海の利有り。
現代語訳
高祖は長く雒陽を都にしようと考えていたが、斉の人劉敬が説き、留侯(張良)も主上に関中に入って都とするよう勧めたので、高祖はその日のうちに車を出し、関中に入って都とした。六月、天下に大赦を行った。十月、燕王臧荼が反乱を起こし、代の地を攻め落とした。高祖は自ら将として攻撃し、燕王臧荼を捕らえた。すぐに太尉の盧綰を燕王に立てた。丞相の樊噲に兵を率いさせて代を攻めさせた。その秋、利幾が反乱を起こし、高祖は自ら兵を率いて攻撃し、利幾は逃げた。利幾は項氏の将であった。項氏が敗れたとき、利幾は陳県の長官であったが、項羽に従わず、逃げて高祖に降ったので、高祖は彼を潁川の侯とした。高祖が雒陽に着き、通侯(列侯)の名簿を読み上げて皆を呼び寄せると、利幾は恐れて反乱を起こしたのである。六年(前201年)、高祖は五日に一度父の太公のもとへ挨拶に行き、一般の家の親子のような礼をとっていた。太公の家令(家の執事)が太公に説いた。「天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいない。いま高祖は子であるとはいえ、人の君主だ。太公は父であるとはいえ、臣下だ。どうして君主に臣下を拝ませてよいだろうか。このようでは、皇帝の威厳が行き渡らない」。後に高祖が挨拶に来ると、太公はほうきを抱えて門で出迎え、後ずさりして道を空けた。高祖は大いに驚き、車から降りて太公を助け起こした。太公は言った。「帝は人の君主だ。どうして私のために天下の法を乱してよいだろうか」。そこで高祖は太公を尊んで太上皇とした。内心で家令の言葉をよしとし、黄金五百斤を賜った。十二月、非常事態を上書して、楚王韓信が謀反を企てていると告げる者がいた。主上が側近に尋ねると、側近たちは争って韓信を攻撃しようと言った。陳平の計略を用いて、雲夢沢に遊覧すると偽って諸侯を陳に集め、楚王韓信が出迎えたところで、そのまま捕らえた。この日、天下に大赦を行った。田肯がお祝いを述べ、そのついでに高祖に説いた。「陛下は韓信を捕らえ、また秦の地(関中)を治めておられる。秦は地勢に優れた国で、黄河と山々の険しさを帯とし、諸侯から千里も隔たっていて、戟を持つ兵百万に対して、秦は二万で当たることができる。地勢が有利なので、諸侯に兵を送り出すさまは、たとえば高い屋根の上から瓶の水をひっくり返すようなものだ。また斉は、東に瑯邪・即墨の豊かな土地があり、南に泰山の堅固な守りがあり、西に黄河の境があり、北に渤海の利がある。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀地は方二千里、戟を持つもの百万、県隔すること千里の外、斉十に二を得たり。故に此れ東西の秦なり。親子弟に非ずんば、斉に王たらしむべき莫し。」と。高祖曰く、「善し。」と。黄金五百斤を賜ふ。後十余日、韓信を封じて淮陰侯と為し、其の地を分かちて二国と為す。高祖曰く将軍劉賈数(しばしば)功有りと、以て荊王と為し、淮東に王とす。弟交を楚王と為し、淮西に王とす。子肥を斉王と為し、七十余城に王とし、民の能く斉の言をなす者は皆斉に属す。乃ち功を論じ、諸列侯と符を剖きて封を行ふ。韓王信を太原に徙す。七年、匈奴韓王信を馬邑に攻む、信因りて与に謀りて太原に反す。白土の曼丘臣・王黄故の趙の将趙利を立てて王と為して以て反す、高祖自ら往きて之を撃つ。会々天寒く、士卒の指を墮す者什に二三、遂に平城に至る。匈奴我を平城に囲む、七日にして後罷め去る。樊噲をして止まりて代の地を定めしむ。兄劉仲を立てて代王と為す。二月、高祖平城より趙・雒陽を過ぎ、長安に至る。長楽宮成る、丞相已下徙りて長安に治す。八年、高祖東のかた韓王信の余反寇を東垣に撃つ。蕭丞相未央宮を営作し、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ。高祖還り、宮闕の壮なること甚だしきを見て、怒り、蕭何に謂ひて曰く、「天下匈匈として苦戦すること数歳、成敗未だ知るべからず、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや。」と。蕭何曰く、「天下方に未だ定まらず、故に因りて遂に宮室を就すべし。且つ夫れ天子は四海を家と為す、壮麗に非ずんば以て威を重くする無し、且つ後世をして以て加ふる有らしむる無からん。」と。高祖乃ち説ぶ。高祖の東垣に之くや、柏人を過ぐ、趙の相貫高等高祖を弑せんと謀る、高祖心動き、因りて留まらず。代王劉仲国を棄てて亡げ、自ら雒陽に帰る、廃して以て合陽侯と為す。九年、趙の相貫高等の事発覚し、三族を夷ぐ。
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史記 高祖本紀群臣皆曰く、「大王微細より起こり、暴逆を誅し、四海を平定し、功有る者は輒ち地を裂きて封じて王侯と為す。大王号を尊ばずんば、皆疑ひて信ぜず。臣等死を以て之を守らん。」と。漢王三たび譲る、已むを得ずして、曰く、「諸君必ず以て便と為さば、国家に便ならん。」と。甲午、乃ち皇帝の位に汜水の陽に即く。皇帝曰く義帝後無しと。斉王韓信楚の風俗に習ふ、徙して楚王と為し、下邳に都せしむ。建成侯彭越を立てて梁王と為し、定陶に都せしむ。故の韓王信を韓王と為し、陽翟に都せしむ。衡山王呉芮を徙して長沙王と為し、臨湘に都せしむ。番君の将梅鋗功有り、従ひて武関に入る、故に番君を徳とす。淮南王布・燕王臧荼・趙王敖皆故の如し。天下大いに定まる。高祖雒陽に都す、諸侯皆臣属す。故の臨江王驩項羽の為に漢に叛く、盧綰・劉賈をして之を囲ましむ、下らず。数月にして降る、之を雒陽に殺す。五月、兵皆罷めて家に帰る。諸侯の子の関中に在る者は之を復すること十二歳、其の帰る者は之を復すること六歳、之に食ましむること一歳。高祖雒陽の南宮に置酒す。高祖曰く、「列侯諸将敢へて朕に隠す無く、皆其の情を言へ。吾の天下を有する所以の者は何ぞ。項氏の天下を失ふ所以の者は何ぞ。」と。
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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史記 高祖本紀趙王敖を廃して宣平侯と為す。是の歳、貴族の楚の昭・屈・景・懐、斉の田氏を関中に徙す。未央宮成る。高祖大いに諸侯群臣を朝し、未央の前殿に置酒す。高祖玉卮を奉じ、起ちて太上皇の為に寿して、曰く、「始め大人常に臣を以て無頼にして、産業を治むる能はず、仲の力むるに如かずと為す。今某の業の就る所仲に孰与(いづれ)ぞ多き。」と。殿上の群臣皆万歳を呼び、大いに笑ひて楽しみと為す。十年十月、淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・長沙王呉芮皆来りて長楽宮に朝す。春夏事無し。七月、太上皇櫟陽宮に崩ず。楚王・梁王皆来りて葬を送る。櫟陽の囚を赦す。酈邑を更命して新豊と曰ふ。八月、趙の相国陳豨代の地に反す。上曰く、「豨嘗て吾が使と為り、甚だ信有り。代の地は吾の急とする所なり、故に豨を封じて列侯と為し、相国を以て代を守らしむ、今乃ち王黄等と代の地を劫掠す。代の地の吏民は罪有るに非ざるなり。其れ代の吏民を赦せ。」と。九月、上自ら東のかた往きて之を撃つ。邯鄲に至り、上喜びて曰く、「豨南のかた邯鄲に拠りて漳水を阻てず、吾其の能く為す無きを知る。」と。豨の将皆故の賈人なりと聞き、上曰く、「吾之に与ふる所以を知る。」と。乃ち多く金を以て豨の将に啗はす、豨の将多く降る者あり。十一年、高祖邯鄲に在りて豨等を誅すること未だ畢らず、豨の将侯敞万余人を将ゐて游行し、王黄曲逆に軍し、張春河を渡りて聊城を撃つ。漢将軍郭蒙をして斉の将と撃たしめ、大いに之を破る。太尉周勃太原より道して入り、代の地を定む。馬邑に至る、馬邑下らず、即ち攻めて之を残す。豨の将趙利東垣を守る、高祖之を攻むるも、下らず。月余にして、卒高祖を罵る、高祖怒る。城降る、罵る者を出だして之を斬らしめ、罵らざる者は之を原(ゆる)す。
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史記 高祖本紀敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
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