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春秋左氏伝 / 昭公二十四年 亡郢の始め

楚子為舟師。以略吳疆。沈尹戌曰。此行也。楚必亡邑。不撫民而勞之。吳不動而速之。吳踵楚。而疆埸無備。邑能無亡乎。越大夫胥犴勞王於豫章之汭。越公子倉歸王乘舟。倉及壽夢帥師從王。王及圉陽而還。吳人踵楚。而邊人不備。遂滅巢及鍾離而還。沈尹戌曰。亡郢之始。於此在矣。王壹動而亡二姓之帥。幾如是而不及郢。詩曰。誰生厲階。至今為梗。其王之謂乎。

新字:楚子為舟師。以略呉疆。沈尹戌曰。此行也。楚必亡邑。不撫民而労之。呉不動而速之。呉踵楚。而疆埸無備。邑能無亡乎。越大夫胥犴労王於予章之汭。越公子倉帰王乗舟。倉及寿夢帥師従王。王及圉陽而還。呉人踵楚。而辺人不備。遂滅巣及鍾離而還。沈尹戌曰。亡郢之始。於此在矣。王壱動而亡二姓之帥。幾如是而不及郢。詩曰。誰生厲階。至今為梗。其王之謂乎。

書き下し

楚子舟師を為りて、以って吳の疆を略す。沈尹戌曰く、「此の行や、楚必ず邑を亡はん。民を撫せずして之を勞し、吳動かずして之を速(まね)く。吳楚に踵(つ)ぎて、疆埸備へ無くんば、邑能く亡ぶる無からんや」と。越の大夫胥犴、王を豫章の汭に勞ふ。越の公子倉、王に乘舟を歸る。倉及び壽夢、師を帥ゐて王に從ふ。王圉陽に及びて還る。吳人楚に踵ぐ。而して邊人備へず。遂に巢及び鍾離を滅して還る。沈尹戌曰く、「亡郢の始め、此に在り。王壹たび動きて二姓の帥を亡ふ。幾たびか是の如くにして郢に及ばざらん。詩に曰く、『誰か厲階を生ぜし、今に至るまで梗を為す』と。其れ王の謂か」と。

現代語訳

楚の平王は水軍を編成して、呉の国境地帯を攻略しようとした。沈尹戌は言った。「この遠征で、楚はきっと邑を失うだろう。民をいたわらずに苦労させ、呉が動いていないのにこちらから呼び込むことになる。呉が楚の後を追ってきて、国境に備えがなければ、邑を失わずにすもうか」。越の大夫胥犴(しょかん)が豫章の川の合流点で王の労をねぎらった。越の公子倉は王に乗船を贈った。公子倉と寿夢(じゅぼう)は軍を率いて王に従った。王は圉陽まで行って引き返した。呉の軍は楚の後を追ってきたが、楚の国境の人々は備えていなかった。呉はついに巣と鍾離を滅ぼして帰った。沈尹戌は言った。「郢を失うことの始まりはここにある。王が一度動いただけで、二つの邑の長を失った。こんなことが何度あれば郢にまで及ばずにすむだろうか。『詩経』に『誰が災いの階段を作ったのか、今に至るまでわざわいとなっている』とあるのは、王のことを言っているのではないか」。

解説

楚の平王が水軍を率いて呉の国境を侵すが、何の成果もなく引き返し、逆に呉に追われて巣と鍾離の二邑を失う話である。沈尹戌は出発前から、民をいたわらずに疲れさせ、動いていない呉をわざわざ呼び込むことになると見抜いていた。攻めに出るときは、自分の後ろががら空きになることを計算に入れなければならない。事後に沈尹戌は「亡郢の始め、此に在り」、郢を失う始まりはここにあると言い、『詩経』の「誰か厲階を生ぜし」を引いて、災いの階段を作ったのは王自身だと断じた。前年の囊瓦の築城批判と同じく、沈尹戌は目先の行動が長期的にどんな結果を招くかを一貫して見ている。のちに呉が郢を陥とすことを思えば、この言葉は重い。成果の出ない示威行動が、相手に口実と機会を与えてしまう構造を示す記事である。

この章句が説くこと

戦略備え民心予兆失策

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