墨子 / 公孟
子墨子謂公孟子曰:「喪禮,君與父母、妻、後子死,三年喪服,伯父、叔父、兄弟期,族人五月,姑、姊、勇甥皆有數月之喪。或以不喪之間,誦詩三百,詩三百,歌詩三百,舞詩三百。若用子之言,則君子何日以聴治?庶人何日以從事?」公孟子曰:「國亂則治之,治則為禮樂。國治則從事,國富則為禮樂。子墨子曰:「國之治。治之廢,則國之治亦廢。國之富也,從事,故富也。從事廢,則國之富亦廢。故雖治國,勸之無饜,然後可也。今子曰:「國治,則為禮樂,亂則治之」,是譬猶噎而穿井也,死而求醫也。古者三代暴王桀紂幽厲,薾為聲樂,不顧其民,是以身為刑僇,國為戾虚者,皆從此道也。」
新字:子墨子謂公孟子曰:「喪礼,君与父母、妻、後子死,三年喪服,伯父、叔父、兄弟期,族人五月,姑、姊、勇甥皆有数月之喪。或以不喪之間,誦詩三百,詩三百,歌詩三百,舞詩三百。若用子之言,則君子何日以聴治?庶人何日以従事?」公孟子曰:「国乱則治之,治則為礼楽。国治則従事,国富則為礼楽。子墨子曰:「国之治。治之廃,則国之治亦廃。国之富也,従事,故富也。従事廃,則国之富亦廃。故雖治国,勧之無饜,然後可也。今子曰:「国治,則為礼楽,乱則治之」,是譬猶噎而穿井也,死而求医也。古者三代暴王桀紂幽厲,薾為声楽,不顧其民,是以身為刑僇,国為戻虚者,皆従此道也。」
書き下し
子墨子、公孟子に謂いて曰く、「喪禮は、君と父母と妻と後子と死すれば、三年の喪服、伯父・叔父・兄弟は期、族人は五月、姑・姊・甥は皆な數月の喪有り。或いは喪せざるの間を以て、詩三百を誦し、詩三百を歌い、詩三百を舞う。若し子の言を用いば、則ち君子は何れの日を以て聴治せん。庶人は何れの日を以て事に従わん」と。公孟子曰く、「國亂るれば則ち之を治め、治まれば則ち禮樂を為す。國治まれば則ち事に従い、國富めば則ち禮樂を為す」と。子墨子曰く、「國の治まるは、之を治むればなり。治むること廢すれば、則ち國の治まるも亦た廢す。國の富むや、事に従えばなり。事に従うこと廢すれば、則ち國の富むも亦た廢す。故に國を治むと雖も、之を勸めて饜くこと無く、然る後に可なり。今、子曰く、『國治まれば則ち禮樂を為し、亂るれば則ち之を治む』と。是れ譬うれば猶お噎して井を穿ち、死して醫を求むるがごときなり。古者、三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、薾に聲樂を為して、其の民を顧みず。是を以て身は刑僇と為り、國は戾虚と為る者は、皆な此の道に従えばなり」と。
現代語訳
墨子が公孟子に言った。「喪の礼では、君主と父母と妻と跡取りが死ねば三年の喪服、伯父叔父兄弟は一年、一族の者は五か月、叔母や姉や甥にもみな数か月の喪がある。そして喪のない合間には、詩三百篇を誦し、詩三百篇を歌い、詩三百篇を舞う。あなたの言うとおりにすれば、君子はいつ政務を執るのか。庶民はいつ仕事をするのか」。公孟子が言った。「国が乱れれば治め、治まれば礼楽を行う。国が治まれば仕事に当たり、国が富めば礼楽を行う」。墨子が言った。「国が治まるのは、治めているからだ。治めるのをやめれば、治まっていることもやむ。国が富むのは、仕事をしているからだ。仕事をやめれば、富んでいることもやむ。だから国が治まっていても、努めて飽きることがなく、そうしてはじめてよい。いまあなたは『国が治まれば礼楽を行い、乱れれば治める』と言う。それは喉が詰まってから井戸を掘り、死んでから医者を求めるようなものだ。むかし三代の暴王、桀・紂・幽王・厲王が音楽にふけって民を顧みず、その身は刑罰を受け、国は荒れ地となったのは、みなこの道によったのだ」。
解説
この章句が説くこと
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『家道訓』巻之二・総論中一もろこしの諺に、かねて後の用心なきことをそしりて曰、三月に桑をうゑんことをおもひ、六月に塘を掘らんことをおもふ。言ふ意は、三月蠶を飼ふ時にいたりて、はじめて桑をうゑんことをおもひ出し、六月旱する時にいたりて、はじめて塘を掘らんことをおもひ出すは、かねて後の用心をせざる人のゆだんなる事をいへり。遠き慮なければ、必ず近き憂あり。家ををさむるには、万のこと後を慮りて、かねてはやく其の用意をすべし。如此すれば、時にのぞみてにはかに行きあたりくるしまず。中庸にも、凡事前に定むれば不跲といへり。初にうれへざれば、をはりに楽なし。
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人生を、一行の式にしてみた。
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