春秋左氏伝 / 昭公二十四年 嫠婦、緯を恤えず
六月。壬申。王子朝之師。攻瑕及杏。皆潰。鄭伯如晉。子大叔相。見范獻子。獻子曰。若王室何。對曰。老夫其國家不能恤。敢及王室。抑人亦有言曰。嫠不恤其緯。而憂宗周之隕。為將及焉。今王室實蠢蠢焉。吾小國懼矣。然大國之憂也。吾儕何知焉。吾子其早圖之。詩曰。缾之罄矣。惟罍之恥。王室之不寧。晉之恥也。獻子懼。而與宣子圖之。乃徵會於諸侯。期以明年。秋。八月。大雩。旱也。冬。十月。癸酉。王子朝用成周之寶珪于河。甲戌。津人得諸河上。陰不佞以溫人南侵。拘得玉者。取其玉。將賣之。則為石。王定而獻之。與之東訾。
新字:六月。壬申。王子朝之師。攻瑕及杏。皆潰。鄭伯如晋。子大叔相。見范献子。献子曰。若王室何。対曰。老夫其国家不能恤。敢及王室。抑人亦有言曰。嫠不恤其緯。而憂宗周之隕。為将及焉。今王室実蠢蠢焉。吾小国懼矣。然大国之憂也。吾儕何知焉。吾子其早図之。詩曰。缾之罄矣。惟罍之恥。王室之不寧。晋之恥也。献子懼。而与宣子図之。乃徴会於諸侯。期以明年。秋。八月。大雩。旱也。冬。十月。癸酉。王子朝用成周之宝珪于河。甲戌。津人得諸河上。陰不佞以温人南侵。拘得玉者。取其玉。将売之。則為石。王定而献之。与之東訾。
書き下し
六月、壬申、王子朝の師、瑕及び杏を攻む。皆潰ゆ。鄭伯晉に如く。子大叔相たり。范獻子に見ゆ。獻子曰く、「王室を若何せん」と。對へて曰く、「老夫其の國家すら恤ふる能はず、敢へて王室に及ばんや。抑人亦た言へる有り、曰く、『嫠(やもめ)は其の緯を恤へずして、宗周の隕つるを憂ふ。將に及ばんとするが為なり』と。今王室實に蠢蠢焉たり。吾が小國懼る。然れども大國の憂ひなり。吾が儕何をか知らん。吾子其れ早く之を圖れ。詩に曰く、『缾(かめ)の罄(つ)くるは、惟れ罍(らい)の恥』と。王室の寧からざるは、晉の恥なり」と。獻子懼れて、宣子と之を圖り、乃ち會を諸侯に徵し、期するに明年を以ってす。秋、八月、大いに雩す。旱すればなり。冬、十月、癸酉、王子朝成周の寶珪を河に用ふ。甲戌、津人諸を河上に得たり。陰不佞溫人を以って南に侵し、玉を得たる者を拘へて、其の玉を取り、將に之を賣らんとす。則ち石と為る。王定まりて之を獻ず。之に東訾を與ふ。
現代語訳
六月壬申の日、王子朝の軍が瑕と杏を攻め、どちらも崩れた。鄭伯(定公)が晋へ行き、子大叔が補佐役として同行し、范献子に会った。献子は言った。「王室のことはどうしたものか」。子大叔は答えた。「老いぼれの私は自分の国のことさえ十分に心配できずにおります。どうして王室のことにまで口出しできましょう。しかし世間にもこんな言葉があります。『やもめは自分の機の横糸のことは気にかけず、周の都が滅びることを心配する。やがて我が身に災いが及ぶからだ』と。いま王室はまことに乱れ騒いでおり、わが小国は恐れております。しかしこれは大国の憂いであって、私どもに何が分かりましょう。どうかあなたが早く手を打ってください。『詩経』に『小さな瓶(かめ)が空になるのは、大きな酒甕(さかがめ)の恥である』とあります。王室が安らかでないのは、晋の恥です」。献子は恐れ入り、韓宣子とこれを相談し、諸侯に会合を呼びかけ、翌年に開くことにした。秋八月、大規模な雨乞いの祭りを行った。日照りだったからである。冬十月癸酉の日、王子朝は成周の宝の玉圭を黄河に沈めて神に捧げた。甲戌の日、渡し守がそれを河岸で拾った。敬王側の陰不佞(いんふねい)が温の人々を率いて南に攻め込み、玉を拾った者を捕らえてその玉を取り上げ、売ろうとした。すると玉は石に変わっていた。王の地位が定まってから、陰不佞はこれを献上した。王は彼に東訾の地を与えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』桓公九年 楚・巴、鬱を囲む九年春、紀の季姜京師に歸ぐ。凡そ諸侯の女の行くは、唯だ王后のみ書す。巴子韓服をして楚に告げしめ、鄧と好を為さんことを請ふ。楚子道朔をして巴の客を將ゐて以て鄧に聘せしむ。鄧の南鄙の鄾人攻めて其の幣を奪ひ、道朔及び巴の行人を殺す。楚子薳章をして鄧を讓めしむ。鄧人受けず。夏、楚鬬廉をして師を帥ゐて巴の師と鄾を圍ましむ。鄧の養甥・聃甥師を帥ゐて鄾を救ふ。三たび巴の師を逐へども、克たず。鬬廉其の師を巴の師の中に衡陳して、以て戰ひて北ぐ。鄧人之を逐ひ、巴の師を背にす。而して之を夾み攻む。鄧の師大いに敗れ、鄾人宵に潰ゆ。秋、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯曲沃を伐つ。冬、曹の大子來朝す。之を賓するに上卿を以てす、禮なり。曹の大子を享す。初獻、樂奏して歎ず。施父曰く、「曹の大子其れ憂ひ有るか。歎ずる所に非ず」と。
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『韓非子』五蠹第四十九私劒の捍無く、斬首を以て勇と爲す。是れ境内の民、其の言談する者は必ず法に軌り、動作する者は之を功に歸し、勇を爲す者は之を軍に尽くす。是の故に事無ければ則ち國富み、事有れば則ち兵强し、此れを之れ王資と謂ふ。既に王資を畜へて敵國の舋に承じ、五帝を超え、三王に侔しき者は、必ず此の法なり。今則ち然らず、士民内に縱恣し、言談する者外に勢を爲し、外内惡を稱へて、以て强敵を待つ、亦殆からずや。故に羣臣の外事を言ふ者は、從衡の黨に分有るに非ずんば、則ち仇讎の忠有りて、力を國に借るなり。從なる者は、衆弱を合はせて以て一强を攻むるなり。而して衡なる者は、一强に事へて以て衆弱を攻むるなり、皆國を持する所以に非ざるなり。今人臣の衡を言ふ者は、皆曰く、「大に事へずんば、則ち敵に遇ひて禍を受けん」と。大に事ふるも未だ必ずしも實有らず、則ち圖を舉げて委ね、璽を效して兵を請ふ。圖を獻ずれば則ち地削られ、璽を效せば則ち名卑し、地削らるれば則ち國削られ、名卑しければ則ち政乱る。大に事へて衡を爲すも、未だ其の利を見ずして、地を亡ひ政を乱る。人臣の從を言ふ者は、皆曰く、「小を救ひて大を伐たずんば、則ち天下を失ひ、天下を失へば則ち國危ふく、國危ふくして主卑し」と。小を救ふも未だ必ずしも實有らず、則ち兵を起こして大に敵す。小を救ふも未だ必ずしも能く存せず、而して大を伐つも未だ必ずしも䟽有らずんばあらず、䟽有れば則ち强國の制する所と爲る。兵を出だせば則ち軍敗れ、退きて守れば則ち城拔かる。小を救ひて從を爲すも、未だ其の利を見ずして、地を亡ひ軍を敗る。是の故に强に事ふれば、則ち外權を以て内に士官し、小を救へば、則ち内重を以て利を外に求む。國利未だ立たずして、封土厚禄至る。主上卑しと雖も、人臣尊し。國地削らると雖も、私家富む。事成れば則ち權を以て長く重く、事敗るれば則ち富を以て退處す。
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