春秋左氏伝 / 襄公八年 謀夫孔だ多し
子駟曰。詩云。謀夫孔多。是用不集。發言盈庭。誰敢執其咎。如匪行邁謀。是用不得于道。請從楚。騑也受其咎。乃及楚平。使王子伯駢告于晉曰。君命敝邑。脩而車賦。儆而師徒。以討亂略。蔡人不從。敝邑之人。不敢寧處。悉索敝賦。以討于蔡。獲司馬燮。獻于邢丘。今楚來討曰。女何故稱兵于蔡。焚我郊保。馮陵我城郭。敝邑之眾。夫婦男女。不遑啟處。以相救也。翦焉傾覆。無所控告。民死亡者。非其父兄。即其子弟。夫人愁痛。不知所庇。民知窮困。而受盟于楚。孤也與其二三臣。不能禁止。不敢不告。知武子使行人子員對之曰。君有楚命。亦不使一介行李。告于寡君。而即安于楚。君之所欲也。誰敢違君。寡君將帥諸侯以見于城下。唯君圖之。
新字:子駟曰。詩云。謀夫孔多。是用不集。発言盈庭。誰敢執其咎。如匪行邁謀。是用不得于道。請従楚。騑也受其咎。乃及楚平。使王子伯駢告于晋曰。君命敝邑。脩而車賦。儆而師徒。以討乱略。蔡人不従。敝邑之人。不敢寧処。悉索敝賦。以討于蔡。獲司馬燮。献于邢丘。今楚来討曰。女何故称兵于蔡。焚我郊保。馮陵我城郭。敝邑之衆。夫婦男女。不遑啓処。以相救也。翦焉傾覆。無所控告。民死亡者。非其父兄。即其子弟。夫人愁痛。不知所庇。民知窮困。而受盟于楚。孤也与其二三臣。不能禁止。不敢不告。知武子使行人子員対之曰。君有楚命。亦不使一介行李。告于寡君。而即安于楚。君之所欲也。誰敢違君。寡君将帥諸侯以見于城下。唯君図之。
書き下し
子駟曰く、「詩に云ふ、『謀夫孔(はなは)だ多し、是を用て集(な)らず。言を發して庭に盈つ、誰か敢へて其の咎を執らん。行邁(かうまい)せずして謀るが如し、是を用て道に得ず』と。請ふ楚に從はん。騑(ひ)や其の咎を受けん」と。乃ち楚と平ぐ。王子伯駢(はくへん)をして晉に告げしめて曰く、「君、敝邑に命ずらく、『而(なんぢ)の車賦を脩め、而の師徒を儆(いまし)め、以て亂略を討て』と。蔡人從はず。敝邑の人、敢へて寧處せず、悉く敝賦を索(あつ)めて、以て蔡を討ち、司馬燮を獲て、邢丘に獻ず。今、楚來り討じて曰く、『女(なんぢ)何の故に兵を蔡に稱ぐる』と。我が郊保を焚き、我が城郭を馮陵す。敝邑の眾、夫婦男女、啟處するに遑あらず、以て相救ふなり。翦焉として傾覆し、控告する所無し。民の死亡する者は、其の父兄に非ざれば、即ち其の子弟なり。夫人愁痛して、庇ふ所を知らず。民、窮困を知りて、盟を楚に受く。孤や其の二三臣と、禁止する能はず。敢へて告げずんばあらず」と。知武子、行人子員をして之に對へしめて曰く、「君に楚の命有るも、亦た一介の行李をも使はして寡君に告げずして、即ち楚に安んず。君の欲する所なり。誰か敢へて君に違はん。寡君將に諸侯を帥ゐて以て城下に見えんとす。唯だ君之を圖れ」と。
現代語訳
子駟(しし、鄭の執政・公子騑)は言った。「『詩経』に『策を練る者があまりに多いので、事はまとまらない。発言は朝廷に満ちあふれるが、誰が責任を引き受けようか。道を歩かずに道のことを論じるようなもので、だから道にたどり着けない』とある。どうか楚に従わせていただきたい。私、騑がその責任を負う」。こうして鄭は楚と講和した。そして王子伯駢を晋に遣わして告げさせた。「君(晋侯)は我が国に『おまえの兵車と軍役を整え、兵士を戒めて、乱をなす者を討て』と命じられました。蔡の人が従わなかったので、我が国の人々は安んじて暮らすこともせず、国の兵力をことごとくかき集めて蔡を討ち、蔡の司馬燮を捕らえて、邢丘の会で献上いたしました。ところが今、楚が討伐に来て『おまえはなぜ蔡に兵を挙げたのか』と言い、我が国の郊外の砦を焼き、城郭に迫って押し寄せております。我が国の民は、夫も妻も男も女も、落ち着いて座る暇もなく互いに救い合っています。国はすっかり覆されようとしているのに、訴え出るところもありません。死んだ民は、誰かの父や兄でなければ、誰かの子や弟です。人々は憂え苦しみ、身を寄せるところも分かりません。民は追い詰められたと知って、楚と盟約を結んでしまいました。私(鄭伯)とわずかな臣下たちには、それを止めることができませんでした。お知らせしないわけにはまいりません」。知武子(ちぶし、晋の執政・荀罃)は使者の子員に答えさせて言った。「君(鄭伯)は楚から命を受けたというのに、ただ一人の使者すらよこして我が君に告げることもなく、すぐに楚に落ち着いてしまわれた。それが君の望まれたことなのでしょう。誰があえて君の意に背きましょうか。我が君は諸侯を率いて、城下でお目にかかるつもりです。どうか君はよくお考えください」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』桓公九年 楚・巴、鬱を囲む九年春、紀の季姜京師に歸ぐ。凡そ諸侯の女の行くは、唯だ王后のみ書す。巴子韓服をして楚に告げしめ、鄧と好を為さんことを請ふ。楚子道朔をして巴の客を將ゐて以て鄧に聘せしむ。鄧の南鄙の鄾人攻めて其の幣を奪ひ、道朔及び巴の行人を殺す。楚子薳章をして鄧を讓めしむ。鄧人受けず。夏、楚鬬廉をして師を帥ゐて巴の師と鄾を圍ましむ。鄧の養甥・聃甥師を帥ゐて鄾を救ふ。三たび巴の師を逐へども、克たず。鬬廉其の師を巴の師の中に衡陳して、以て戰ひて北ぐ。鄧人之を逐ひ、巴の師を背にす。而して之を夾み攻む。鄧の師大いに敗れ、鄾人宵に潰ゆ。秋、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯曲沃を伐つ。冬、曹の大子來朝す。之を賓するに上卿を以てす、禮なり。曹の大子を享す。初獻、樂奏して歎ず。施父曰く、「曹の大子其れ憂ひ有るか。歎ずる所に非ず」と。
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『春秋左氏伝』昭公二十四年 嫠婦、緯を恤えず六月、壬申、王子朝の師、瑕及び杏を攻む。皆潰ゆ。鄭伯晉に如く。子大叔相たり。范獻子に見ゆ。獻子曰く、「王室を若何せん」と。對へて曰く、「老夫其の國家すら恤ふる能はず、敢へて王室に及ばんや。抑人亦た言へる有り、曰く、『嫠(やもめ)は其の緯を恤へずして、宗周の隕つるを憂ふ。將に及ばんとするが為なり』と。今王室實に蠢蠢焉たり。吾が小國懼る。然れども大國の憂ひなり。吾が儕何をか知らん。吾子其れ早く之を圖れ。詩に曰く、『缾(かめ)の罄(つ)くるは、惟れ罍(らい)の恥』と。王室の寧からざるは、晉の恥なり」と。獻子懼れて、宣子と之を圖り、乃ち會を諸侯に徵し、期するに明年を以ってす。秋、八月、大いに雩す。旱すればなり。冬、十月、癸酉、王子朝成周の寶珪を河に用ふ。甲戌、津人諸を河上に得たり。陰不佞溫人を以って南に侵し、玉を得たる者を拘へて、其の玉を取り、將に之を賣らんとす。則ち石と為る。王定まりて之を獻ず。之に東訾を與ふ。
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『韓非子』五蠹第四十九私劒の捍無く、斬首を以て勇と爲す。是れ境内の民、其の言談する者は必ず法に軌り、動作する者は之を功に歸し、勇を爲す者は之を軍に尽くす。是の故に事無ければ則ち國富み、事有れば則ち兵强し、此れを之れ王資と謂ふ。既に王資を畜へて敵國の舋に承じ、五帝を超え、三王に侔しき者は、必ず此の法なり。今則ち然らず、士民内に縱恣し、言談する者外に勢を爲し、外内惡を稱へて、以て强敵を待つ、亦殆からずや。故に羣臣の外事を言ふ者は、從衡の黨に分有るに非ずんば、則ち仇讎の忠有りて、力を國に借るなり。從なる者は、衆弱を合はせて以て一强を攻むるなり。而して衡なる者は、一强に事へて以て衆弱を攻むるなり、皆國を持する所以に非ざるなり。今人臣の衡を言ふ者は、皆曰く、「大に事へずんば、則ち敵に遇ひて禍を受けん」と。大に事ふるも未だ必ずしも實有らず、則ち圖を舉げて委ね、璽を效して兵を請ふ。圖を獻ずれば則ち地削られ、璽を效せば則ち名卑し、地削らるれば則ち國削られ、名卑しければ則ち政乱る。大に事へて衡を爲すも、未だ其の利を見ずして、地を亡ひ政を乱る。人臣の從を言ふ者は、皆曰く、「小を救ひて大を伐たずんば、則ち天下を失ひ、天下を失へば則ち國危ふく、國危ふくして主卑し」と。小を救ふも未だ必ずしも實有らず、則ち兵を起こして大に敵す。小を救ふも未だ必ずしも能く存せず、而して大を伐つも未だ必ずしも䟽有らずんばあらず、䟽有れば則ち强國の制する所と爲る。兵を出だせば則ち軍敗れ、退きて守れば則ち城拔かる。小を救ひて從を爲すも、未だ其の利を見ずして、地を亡ひ軍を敗る。是の故に强に事ふれば、則ち外權を以て内に士官し、小を救へば、則ち内重を以て利を外に求む。國利未だ立たずして、封土厚禄至る。主上卑しと雖も、人臣尊し。國地削らると雖も、私家富む。事成れば則ち權を以て長く重く、事敗るれば則ち富を以て退處す。
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『春秋左氏伝』定公三年 子常の貪り三年春、二月、辛卯、邾子門臺に在りて、廷に臨む。閽缾水を以って廷に沃(そそ)ぐ。邾子望みて之を見て、怒る。閽曰く、「夷射姑焉に旋(いばり)す」と。命じて之を執へしむるも、得ず。滋々怒り、自ら床に投じ、鑪炭に廢(お)ち、爛れて遂に卒す。先づ葬るに車五乘を以ってし、殉ずる者五人。莊公卞急にして潔を好む。故に是に及ぶ。秋、九月、鮮虞人晉師を平中に敗り、晉の觀虎を獲たり。其の勇を恃めばなり。冬、郯に盟ふ。邾の好を脩むるなり。蔡の昭侯兩佩と兩裘とを為(つく)りて以って楚に如き、一佩一裘を昭王に獻ず。昭王之を服して、以って蔡侯を享す。蔡侯も亦た其の一を服す。子常之を欲す。與へず。三年之を止む。唐の成公楚に如く。兩肅爽の馬有り。子常之を欲す。與へず。亦た三年之を止む。唐人或いは相與に謀り、先の從者に代はらんことを請ふ。之を許す。先の從者に酒を飲ませ、之を醉はしめ、馬を竊みて之を子常に獻ず。子常唐侯を歸す。自ら司敗に拘はれて曰く、「君弄馬の故を以って、君の身を隱し、國家を棄つ。群臣請ふ、夫人を相(たす)けて以って馬を償はんことを。必ず之の如くせん」と。唐侯曰く、「寡人の過ちなり。二三子辱むる無かれ」と。皆之を賞す。蔡人之を聞き、固く請ひて佩を子常に獻ず。子常蔡侯の徒に朝見して、有司に命じて曰く、「蔡君の久しきは、官共せざればなり。明日禮畢はらずんば、將に死せん」と。蔡侯歸りて漢に及び、玉を執りて沈めて曰く、「余の漢を濟りて南する所有らば、大川の若き有らん」と。蔡侯晉に如き、其の子元と其の大夫の子とを以って質と為して、楚を伐たんことを請ふ。
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『春秋左氏伝』襄公三年 得る所は亡う所に如かず三年春、楚の子重、吳を伐つ。簡の師を爲す。鳩茲(きゅうじ)に克ち、衡山に至る。鄧廖をして組甲三百・被練三千を帥ゐて以て吳を侵さしむ。吳人要(よう)して之を擊ち、鄧廖を獲たり。其の能く免るる者は、組甲八十・被練三百のみ。子重歸る。既に飲至(いんし)して、三日、吳人楚を伐ち、駕を取る。駕は良邑なり。鄧廖も亦た楚の良なり。君子、子重を是の役に於て謂ふ、獲る所は亡ふ所に如かず、と。楚人是を以て子重を咎む。子重之を病み、遂に心病に遇ひて卒す。公、晉に如く。始めて朝するなり。夏、長樗(ちょうちょ)に盟ふ。孟獻子相たり。公、稽首す。知武子曰く、「天子在り。而るに君辱(かたじけな)くも稽首す。寡君懼る」と。孟獻子曰く、「敝邑の介して東表に在り、仇讎に密邇するを以て、寡君將に君に是れ望まんとす。敢へて稽首せざらんや」と。晉、鄭の服するが爲の故に、且つ吳の好を脩めんと欲して、將に諸侯を合せんとす。士匄をして齊に告げしめて曰く、「寡君、匄をして、歲の易からざると、不虞の戒めざるとを以て、寡君願はくは一二の兄弟と相見えて、以て協はざるを謀らん。請ふ、君之に臨め。匄をして盟を乞はしむ」と。齊侯許すこと勿からんと欲すれども、協はざると爲すを難(はばか)り、乃ち耏(じ)の外に盟ふ。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 子産、能を択ぶ十二月、北宮文子衛の襄公に相として以て楚に如く。宋の盟の故なり。鄭を過ぐ。印段棐林に迋勞す。聘禮の如くして勞辭を以てす。文子入りて聘す。子羽行人為り、馮簡子と子大叔と客を逆ふ。事畢りて出で、衛侯に言ひて曰く、「鄭は禮有り。其れ數世の福なり。其れ大國の討無からんか。詩に曰く、『誰か能く熱を執りて、逝きて以て濯はざらん』と。禮の政に於けるや、熱の濯有るが如し。濯ひて以て熱を救ふ、何の患か之れ有らん」と。子產の政に從ふや、能を擇びて之を使ふ。馮簡子は能く大事を斷ず。子大叔は美秀にして文なり。公孫揮は能く四國の為を知りて、其の大夫の族姓・班位・貴賤・能否を辨じ、而して又善く辭令を為す。裨諶は能く謀る。野に謀れば則ち獲、邑に謀れば則ち否ず。鄭國將に諸侯の事有らんとすれば、子產乃ち四國の為を子羽に問ひ、且つ多く辭令を為らしむ。裨諶と乘りて以て野に適き、可否を謀らしむ。而して馮簡子に告げて之を斷ぜしむ。事成れば、乃ち子大叔に授けて之を行はしめ、以て賓客に應對す。是を以て敗事有ること鮮し。北宮文子の所謂禮有るなり。
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