春秋左氏伝 / 昭公二十二年 晋師、京を攻む
十二月。庚戌。晉籍談。荀躒。賈辛。司馬督。帥師軍于陰。于侯氏。于谿泉。次于社。王師軍于氾。于解。次于任人。閏月。晉箕遺。樂徵。右行詭。濟師。取前城。軍其東南。王師軍于京楚。辛丑。伐京。毀其西南。
新字:十二月。庚戌。晋籍談。荀躒。賈辛。司馬督。帥師軍于陰。于侯氏。于谿泉。次于社。王師軍于氾。于解。次于任人。閏月。晋箕遺。楽徴。右行詭。済師。取前城。軍其東南。王師軍于京楚。辛丑。伐京。毀其西南。
書き下し
十二月、庚戌、晉の籍談・荀躒・賈辛・司馬督、師を帥ゐて陰に軍し、侯氏に軍し、谿泉に軍し、社に次る。王師氾に軍し、解に軍し、任人に次る。閏月、晉の箕遺・樂徵・右行詭、師を濟して、前城を取り、其の東南に軍す。王師京楚に軍す。辛丑、京を伐ち、其の西南を毀つ。
現代語訳
十二月庚戌の日、晋の籍談・荀躒・賈辛(かしん)・司馬督(しばとく)が軍を率いて、陰・侯氏・谿泉に陣を張り、社に駐留した。周王(敬王)の軍は氾と解に陣を張り、任人に駐留した。閏月、晋の箕遺(きい)・楽徴(がくちょう)・右行詭(ゆうこうき)が軍を率いて河を渡り、前城を取ってその東南に陣を張った。王の軍は京楚に陣を張った。辛丑の日、王子朝の拠る京を攻め、その西南の城壁を壊した。
解説
晋が本格的に周の内乱に介入し、王子朝の拠点を包囲していく過程を記した短い戦況記事である。晋の将が何人も名を連ね、陰・侯氏・谿泉と陣地を広げ、周王の軍と連携して京を攻める。登場する地名はいずれも洛陽周辺で、王子朝派が都の近郊を押さえていたことが分かる。左伝がこうした陣地の移動を丹念に書き残したのは、覇者晋が「王室を安んずる」という名分のもとに実際どれだけの兵力を動かしたのかを示すためでもあろう。周王はもはや自力で内乱を収められず、諸侯の軍事力に頼るしかない。名目上の頂点と実際の力の持ち主が分かれている状況は、春秋時代全体を通じた構図でもある。この年の記事はここで終わり、戦いは翌年に持ち越される。権威と実力が別の場所にあるとき、組織はどう動くかを考えさせる。
この章句が説くこと
覇者王室介入戦況権威
関連する章句
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