呻吟語 / 外篇・聖賢・儒者は理を認むるを要す
賢人之言視聖人未免有病,此其大較耳。可怪俗儒見說是聖人語,便迴護其短而推類以求通;見說是賢人之言,便洗索其疵而深文以求過。設有附會者從而欺之,則陽虎優孟皆失其真,而不免徇名得象之譏矣。是故儒者要認理,理之所在,雖狂夫之言,不異於聖人。聖人豈無出於一時之感,而不可為當然不易之訓者哉?
新字:賢人之言視聖人未免有病,此其大較耳。可怪俗儒見説是聖人語,便迴護其短而推類以求通;見説是賢人之言,便洗索其疵而深文以求過。設有附会者従而欺之,則陽虎優孟皆失其真,而不免徇名得象之譏矣。是故儒者要認理,理之所在,雖狂夫之言,不異於聖人。聖人豈無出於一時之感,而不可為当然不易之訓者哉?
書き下し
賢人の言は聖人に視ぶれば未だ病有るを免れず。此れ其の大較のみ。怪しむ可きは俗儒の是れ聖人の語と說くを見れば、便ち其の短を迴護して類を推して以て通を求め、是れ賢人の言と說くを見れば、便ち其の疵を洗索して文を深くして以て過を求むるなり。是の故に儒者は理を認むるを要す。理の在る所は、狂夫の言と雖も、聖人に異ならず。聖人豈に一時の感に出でて、當然不易の訓と為す可からざる者無からんや。
現代語訳
賢人の言葉は聖人に比べれば病を免れません。これはおおよその話です。おかしいのは、俗な儒者が聖人の言葉だと聞けば、その短所をかばい類推して通そうとし、賢人の言葉だと聞けば、その傷を探し出し言葉を深読みして過ちを求めることです。だから儒者は理を認めることが必要です。理のあるところは、狂人の言葉であっても聖人と変わりません。聖人にも、その時の感慨から出たもので、いつまでも変わらぬ教えとはできないものがあるのではないでしょうか。
解説

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