墨子 / 節葬下
今逮至昔者三代聖王既沒,天下失義。後世之君子,或以厚葬久喪以為仁也、義也、孝子之事也。或以厚葬久喪以為非仁義、非孝子之事也。曰:二子者,言則相非,行即相反,皆曰:「吾上祖述堯舜禹湯文武之道者也。」而言即相非,行即相反,於此乎後世之君子皆疑惑乎二子者言也。
新字:今逮至昔者三代聖王既没,天下失義。後世之君子,或以厚葬久喪以為仁也、義也、孝子之事也。或以厚葬久喪以為非仁義、非孝子之事也。曰:二子者,言則相非,行即相反,皆曰:「吾上祖述堯舜禹湯文武之道者也。」而言即相非,行即相反,於此乎後世之君子皆疑惑乎二子者言也。
書き下し
今、昔者の三代の聖王の既に沒せしに逮び至りて、天下、義を失う。後世の君子、或いは厚葬久喪を以て仁と為し、義と為し、孝子の事と為す。或いは厚葬久喪を以て仁義に非ず、孝子の事に非ずと為す。曰く、二子なる者は、言は則ち相い非とし、行いは即ち相い反す。皆な曰く、「吾れ上は堯舜禹湯文武の道を祖述する者なり」と。而も言は即ち相い非とし、行いは即ち相い反す。此に於て後世の君子、皆な二子なる者の言に疑惑す。
現代語訳
さて、むかしの三代の聖王が亡くなってからは、天下は義を失った。後世の君子は、あるいは手厚い葬儀と長い喪を仁であり義であり孝子の務めだとし、あるいは手厚い葬儀と長い喪を仁義ではなく孝子の務めでもないとする。この二者は、言葉では互いを否定し、行いでは正反対である。それでいてどちらも「私は堯・舜・禹・湯・文王・武王の道を受け継いでいる」と言う。言葉は互いを否定し、行いは正反対なのに、である。そこで後世の君子はみな、この二者の言葉に迷う。
解説
同じ権威を掲げながら正反対の主張をする二者。この状況をどう裁くかが、節葬下篇の主題です。権威の引用では決着がつかない、という認識から出発している点が重要で、だからこそ次章で「実際に国家と万民に施行してみて結果を見る」という方法が持ち出されます。伝統論争を効果測定に置き換える、という発想の転換です。
この章句が説くこと
権威対立決着効果測定方法
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