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史記 / 孝武本紀

不愈。游水發根乃言曰:「上郡有巫,病而鬼下之。」上召置祠之甘泉。及病,使人問神君。神君言曰:「天子毋憂病。病少愈,彊與我會甘泉。」於是病愈,遂幸甘泉,病良已。大赦天下,置壽宮神君。神君最貴者太一,其佐曰大禁、司命之屬,皆從之。非可得見,聞其音,與人言等。時去時來,來則風肅然也。居室帷中。時晝言,然常以夜。天子祓,然後入。因巫為主人,關飲食。所欲者言行下。又置壽宮、北宮,張羽旗,設供具,以禮神君。神君所言,上使人受書其言,命之曰「畫法」。其所語,世俗之所知也,毋絕殊者,而天子獨喜。其事祕,世莫知也。其後三年,有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰建元,二元以長星曰元光,三元以郊得一角獸曰元狩云。其明年冬,天子郊雍,議曰:「今上帝朕親郊,而后土毋祀,則禮不答也。」有司與太史公、祠官寬舒等議:「天地牲角繭栗。今陛下親祀后土,后土宜於澤中圜丘為五壇,壇一黃犢太牢具,已祠盡瘞,而從祠衣上黃。」於是天子遂東,始立后土祠汾陰脽上,如寬舒等議。上親望拜,如上帝禮。禮畢,天子遂至滎陽而還。過雒陽,下詔曰:「三代邈絕,遠矣難存。其以三十里地封周後為周子南君,以奉先王祀焉。」

新字:不愈。游水発根乃言曰:「上郡有巫,病而鬼下之。」上召置祠之甘泉。及病,使人問神君。神君言曰:「天子毋憂病。病少愈,彊与我会甘泉。」於是病愈,遂幸甘泉,病良已。大赦天下,置寿宮神君。神君最貴者太一,其佐曰大禁、司命之属,皆従之。非可得見,聞其音,与人言等。時去時来,来則風粛然也。居室帷中。時昼言,然常以夜。天子祓,然後入。因巫為主人,関飲食。所欲者言行下。又置寿宮、北宮,張羽旗,設供具,以礼神君。神君所言,上使人受書其言,命之曰「画法」。其所語,世俗之所知也,毋絶殊者,而天子独喜。其事秘,世莫知也。其後三年,有司言元宜以天瑞命,不宜以一二数。一元曰建元,二元以長星曰元光,三元以郊得一角獣曰元狩云。其明年冬,天子郊雍,議曰:「今上帝朕親郊,而后土毋祀,則礼不答也。」有司与太史公、祠官寛舒等議:「天地牲角繭栗。今陛下親祀后土,后土宜於沢中圜丘為五壇,壇一黄犢太牢具,已祠尽瘞,而従祠衣上黄。」於是天子遂東,始立后土祠汾陰脽上,如寛舒等議。上親望拝,如上帝礼。礼畢,天子遂至滎陽而還。過雒陽,下詔曰:「三代邈絶,遠矣難存。其以三十里地封周後為周子南君,以奉先王祀焉。」

書き下し

至)愈えず。游水発根乃ち言ひて曰く、「上郡に巫有り、病みて鬼之に下る。」と。上召して之を甘泉に置きて祠る。病むに及び、人をして神君に問はしむ。神君言ひて曰く、「天子病を憂ふる毋かれ。病少しく愈えなば、彊ひて我と甘泉に会せよ。」と。是に於て病愈え、遂に甘泉に幸す、病良(まこと)に已む。天下に大赦し、寿宮の神君を置く。神君の最も貴き者は(大夫)[太一]、其の佐を大禁・司命の属と曰ひ、皆之に従ふ。見るを得べきに非ず、其の音を聞く、人の言と等し。時に去り時に来たる、来たれば則ち風粛然たり。室の帷中に居る。時に昼言ふ、然れども常に夜を以てす。天子祓ひ、然る後に入る。巫に因りて主人と為し、飲食を関す。欲する所の者言へば行下す。又寿宮・北宮を置き、羽旗を張り、供具を設け、以て神君を礼す。神君の言ふ所、上人をして受けて其の言を書かしめ、之を命じて「画法」と曰ふ。其の語る所は、世俗の知る所なり、絶殊なる者毋し、而して天子独り喜ぶ。其の事秘にして、世知る莫きなり。其の後三年、有司言ふ元は宜しく天瑞を以て命ずべし、宜しく一二を以て数ふべからずと。一元を建元と曰ひ、二元は長星を以て元光と曰ひ、三元は郊して一角の獣を得たるを以て元狩と曰ふと云ふ。其の明年冬、天子雍に郊し、議して曰く、「今上帝は朕親ら郊す、而して后土は祀る毋し、則ち礼答へず。」と。有司太史公・祠官寛舒等と議す、「天地の牲は角繭栗なり。今陛下親ら后土を祀る、后土は宜しく沢中の圜丘に於て五壇を為り、壇ごとに一黄犢の太牢の具、已に祠らば尽く瘞め、而して祠に従ふものは衣黄を上ぶべし。」と。是に於て天子遂に東し、始めて后土の祠を汾陰の脽上に立つること、寛舒等の議の如くす。上親ら望拝すること、上帝の礼の如くす。礼畢り、天子遂に滎陽に至りて還る。雒陽を過ぎ、詔を下して曰く、「三代は邈絶し、遠くして存し難し。其れ三十里の地を以て周の後を封じて周子南君と為し、以て先王の祀を奉ぜしめよ。」と。

現代語訳

(天子の病は)治らなかった。游水発根という者が言った。「上郡に巫女がいて、病気になると鬼神がその身に降りてくる」。主上はその巫女を呼び寄せ、甘泉宮に置いて神を祀らせた。病気になると、人をやって神君に尋ねさせた。神君は言った。「天子は病を心配しなくてよい。病が少し良くなったら、無理をしてでも甘泉で私と会うがよい」。そこで病が良くなり、ついに甘泉宮に行くと、病はすっかり治った。天下に大赦を行い、寿宮に神君を祀った。神君の中で最も尊いのは太一で、その補佐は大禁・司命などの神々といい、皆これに従っていた。その姿を見ることはできず、声が聞こえるだけで、人の話し声と同じであった。時に去り時に来て、来るときは風がさっと吹いた。部屋の帳の中にいた。昼に語ることもあったが、たいていは夜であった。天子は身を清めてから中に入った。巫女を取り次ぎ役として、飲食の世話をさせた。神君が望むことを言うと、巫女がそれを伝えた。また寿宮と北宮を設けて、羽飾りの旗を張り、供え物を並べて神君を礼拝した。神君の言葉は、主上が人に命じて聞き取らせて書き記させ、これを「画法」と名づけた。その語る内容は世間の人が知っているようなことばかりで、特に変わったことはなかったが、天子だけは喜んだ。このことは秘密にされ、世間では誰も知らなかった。その三年後、役人たちが、年号は天のめでたいしるしによって名づけるべきで、一年・二年と数えるだけではいけないと言った。そこで最初の元を建元といい、二番目の元は長い尾の彗星が現れたことから元光といい、三番目の元は郊祀で一角の獣を得たことから元狩といったという。その翌年の冬、天子は雍で郊祀を行い、協議して言った。「いま上帝は朕が自ら郊祀しているのに、后土(大地の神)は祀っていない。これでは礼がつり合わない」。役人は太史公(司馬遷の父の司馬談)や祭祀の役人寛舒らと協議して言った。「天地を祀るいけにえは、角が繭や栗ほどの若い牛を用いる。いま陛下が自ら后土を祀られるなら、后土は沼沢の中の円い丘に五つの祭壇を作り、祭壇ごとに黄色い子牛と最上の供え物をそろえ、祀り終えたらすべて埋め、祭祀に従う者は黄色の衣を尊ぶのがよい」。そこで天子はついに東へ向かい、初めて后土の祠を汾陰の脽(こんもりした丘)の上に建てた。寛舒らの議の通りであった。主上は自ら遥拝し、上帝を祀るときと同じ礼を行った。礼が終わると、天子はそのまま滎陽まで行って帰った。雒陽を通ったとき、詔を下した。「夏・殷・周の三代ははるか遠くに途絶え、その後を保つのは難しい。三十里四方の地を周の子孫に封じて周子南君とし、周の先王の祭祀を継がせよ」。

解説

病に倒れた武帝が、巫女を通じた「神君」のお告げで回復したと信じ、宮中に祀るようになった段です。神君の姿は見えず、声だけが巫女を通じて聞こえ、その言葉は「画法」として記録されました。しかし司馬遷は「その語る所は世俗の知る所にして、絶殊なる者無し、而して天子独り喜ぶ」と書いています。ありふれた内容なのに皇帝だけが喜んでいたという、冷ややかな観察です。ここに登場する「太史公」は司馬遷の父の司馬談で、后土(大地の神)の祭祀制度の議論に加わっていました。父子二代で武帝の祭祀に関わった司馬遷だからこそ、その内側を見た者の目で書いていることが伝わります。ありふれた言葉でも、権威ある存在から出たと思えば特別に聞こえてしまう。その心理は、今の私たちも無縁ではありません。

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