春秋左氏伝 / 昭公二十年 守道は守官に如かず
公曰。然則若之何。對曰。不可為也。山林之木。衡鹿守之。澤之萑蒲。舟鮫守之。藪之薪蒸。虞候守之。海之鹽蜃。祈望守之。縣鄙之人。入從其政。偪介之關。暴征其私。承嗣大夫。強易其賄。布常無藝。徵斂無度。宮室日更。淫樂不違。内寵之妾。肆奪於市。外寵之臣。僭令於鄙。私欲養求。不給則應。民人苦病。夫婦皆詛。祝有益也。詛亦有損。聊攝以東。姑尤以西。其為人也。多矣。雖其善祝。豈能勝億兆人之詛。君若欲誅於祝史。脩德而後可。公說。使有司寬政。毀關。去禁。薄斂。已責。十二月。齊侯田于沛。招虞人以弓。不進。公使執之。辭曰。昔我先君之田也。旃以招大夫。弓以招士。皮冠以招虞人。臣不見皮冠。故不敢進。乃舍之。仲尼曰。守道不如守官。君子同之。
新字:公曰。然則若之何。対曰。不可為也。山林之木。衡鹿守之。沢之萑蒲。舟鮫守之。藪之薪蒸。虞候守之。海之塩蜃。祈望守之。県鄙之人。入従其政。偪介之関。暴征其私。承嗣大夫。強易其賄。布常無芸。徴斂無度。宮室日更。淫楽不違。内寵之妾。肆奪於市。外寵之臣。僭令於鄙。私欲養求。不給則応。民人苦病。夫婦皆詛。祝有益也。詛亦有損。聊摂以東。姑尤以西。其為人也。多矣。雖其善祝。豈能勝億兆人之詛。君若欲誅於祝史。脩徳而後可。公説。使有司寛政。毀関。去禁。薄斂。已責。十二月。斉侯田于沛。招虞人以弓。不進。公使執之。辞曰。昔我先君之田也。旃以招大夫。弓以招士。皮冠以招虞人。臣不見皮冠。故不敢進。乃舎之。仲尼曰。守道不如守官。君子同之。
書き下し
公曰く、「然らば則ち之を若何せん」と。對へて曰く、「為す可からざるなり。山林の木は、衡鹿之を守り、澤の萑蒲は、舟鮫之を守り、藪の薪蒸は、虞候之を守り、海の鹽蜃は、祈望之を守る。縣鄙の人は、入りて其の政に從ふ。偪介の關は、暴に其の私を征し、承嗣の大夫は、強ひて其の賄を易ふ。布常藝無く、徵斂度無し。宮室日に更まり、淫樂違(さ)らず。内寵の妾は、肆に市に奪ひ、外寵の臣は、鄙に令を僭す。私欲養求、給せざれば則ち應ず。民人苦病し、夫婦皆詛ふ。祝に益有らば、詛も亦た損有り。聊・攝より以東、姑・尤より以西、其の人為るや、多し。其れ善く祝すと雖も、豈に能く億兆人の詛に勝たんや。君若し祝史を誅せんと欲せば、德を脩めて而る後に可なり」と。公說び、有司をして政を寬くし、關を毀ち、禁を去り、斂を薄くし、責を已めしむ。十二月、齊侯沛に田し、虞人を招くに弓を以てす。進まず。公之を執へしむ。辭して曰く、「昔我が先君の田するや、旃以て大夫を招き、弓以て士を招き、皮冠以て虞人を招く。臣皮冠を見ず、故に敢へて進まず」と。乃ち之を舍す。仲尼曰く、「道を守るは官を守るに如かず」と。君子之に同ず。
現代語訳
景公は言った。「それでは、どうすればよいのか」。晏子は答えた。「祝史を誅したところでどうにもなりません。山林の木は衡鹿(山林の役人)が囲い込み、沼沢の葦や蒲は舟鮫(沢の役人)が囲い込み、藪の薪は虞候(藪の役人)が囲い込み、海の塩や貝は祈望(海の役人)が囲い込んで、民に取らせません。辺境の民は都に来ては、厳しい政令に従わされます。都に迫る関所では、民の私物に乱暴に税をかけ、世襲の大夫は、民の財貨を無理やり安く買い叩きます。政令の布告に基準がなく、税の取り立てに際限がありません。宮殿は日ごとに建て替えられ、淫らな音楽はやむことがありません。宮中で寵愛される妾たちは市場でほしいままに品物を奪い、外で寵愛される臣下は、辺境で勝手に命令を下します。私欲のために要求を重ね、差し出さなければ罪に問います。民は苦しみ病み、夫も妻もみな君を呪っています。祝の祈りに益があるなら、呪いにもまた害があるはずです。聊・摂から東、姑水・尤水から西、そこに住む人は実に多い。祝がいくら上手に祈ったところで、億兆の人々の呪いに勝てるでしょうか。君がもし祝史を誅したいとお思いなら、まず徳を修めてからになさるべきです」。景公は喜び、役人に命じて政治を寛大にさせ、関所を取り壊し、山林沼沢の禁制を解き、税を軽くし、民の負債を帳消しにさせた。十二月、斉侯は沛で狩りをした。虞人(山林の役人)を弓で招き寄せたが、虞人は進み出なかった。景公は彼を捕らえさせた。虞人は弁明して言った。「昔、わが先君が狩りをなさるときは、旗で大夫を招き、弓で士を招き、皮の冠で虞人を招かれました。私は皮の冠を見ませんでしたので、あえて進み出なかったのです」。そこで景公は彼を許した。仲尼(孔子)は言った。「(招かれれば応じるという)一般の道を守るより、自分の官職の定めを守るほうがまさっている」。君子はこれに同意した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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