史記 / 袁盎鼂錯列伝
死十餘日,吳楚七國果反,以誅錯為名。及竇嬰、袁盎進說,上令鼂錯衣朝衣斬東市。鼂錯已死,謁者仆射鄧公為校尉,擊吳楚軍為將。還,上書言軍事,謁見上。上問曰:「道軍所來,聞鼂錯死,吳楚罷不?」鄧公曰:「吳王為反數十年矣,發怒削地,以誅錯為名,其意非在錯也。且臣恐天下之士噤口,不敢復言也!」上曰:「何哉?」鄧公曰:「夫鼂錯患諸侯彊大不可制,故請削地以尊京師,萬世之利也。計畫始行,卒受大戮,內杜忠臣之口,外為諸侯報仇,臣竊為陛下不取也。」於是景帝默然良久,曰:「公言善,吾亦恨之。」乃拜鄧公為城陽中尉。鄧公,成固人也,多奇計。建元中,上招賢良,公卿言鄧公,時鄧公免,起家為九卿。一年,復謝病免歸。其子章以修黃老言顯於諸公閒。太史公曰:袁盎雖不好學,亦善傅會,仁心為質,引義慨。遭孝文初立,資適逢世。時以變易,及吳楚一說,說雖行哉,然復不遂。好聲矜賢,竟以名敗。鼂錯為家令時,數言事不用;後擅權,多所變更。諸侯發難,不急匡救,欲報私讎,反以亡軀。語曰「變古亂常,不死則亡」,豈錯等謂邪!
新字:死十余日,呉楚七国果反,以誅錯為名。及竇嬰、袁盎進説,上令鼂錯衣朝衣斬東市。鼂錯已死,謁者仆射鄧公為校尉,撃呉楚軍為将。還,上書言軍事,謁見上。上問曰:「道軍所来,聞鼂錯死,呉楚罷不?」鄧公曰:「呉王為反数十年矣,発怒削地,以誅錯為名,其意非在錯也。且臣恐天下之士噤口,不敢復言也!」上曰:「何哉?」鄧公曰:「夫鼂錯患諸侯彊大不可制,故請削地以尊京師,万世之利也。計画始行,卒受大戮,内杜忠臣之口,外為諸侯報仇,臣窃為陛下不取也。」於是景帝黙然良久,曰:「公言善,吾亦恨之。」乃拝鄧公為城陽中尉。鄧公,成固人也,多奇計。建元中,上招賢良,公卿言鄧公,時鄧公免,起家為九卿。一年,復謝病免帰。其子章以修黄老言顕於諸公閒。太史公曰:袁盎雖不好学,亦善傅会,仁心為質,引義慨。遭孝文初立,資適逢世。時以変易,及呉楚一説,説雖行哉,然復不遂。好声矜賢,竟以名敗。鼂錯為家令時,数言事不用;後擅権,多所変更。諸侯発難,不急匡救,欲報私讎,反以亡躯。語曰「変古乱常,不死則亡」,豈錯等謂邪!
書き下し
死すること十余日、呉楚七国果して反し、錯を誅するを以て名と為す。竇嬰・袁盎の進説するに及び、上鼂錯をして朝衣を衣て東市に斬らしむ。鼂錯已に死し、謁者僕射鄧公校尉と為り、呉楚の軍を撃ちて将と為る。還りて、上書して軍事を言ひ、上に謁見す。上問ひて曰く、「軍の来たる所より道(い)へ、鼂錯の死を聞きて、呉楚罷むや不や」と。鄧公曰く、「呉王反を為すこと数十年なり。地を削らるるに怒りを発し、錯を誅するを以て名と為す。其の意錯に在るに非ざるなり。且つ臣恐らくは天下の士口を噤みて、敢へて復た言はざらんことを」と。上曰く、「何ぞや」と。鄧公曰く、「夫れ鼂錯は諸侯の彊大にして制すべからざるを患ふ、故に地を削りて以て京師を尊ばんことを請ふ、万世の利なり。計画始めて行はれ、卒に大戮を受く。内は忠臣の口を杜ぎ、外は諸侯の為に仇に報ゆ。臣窃かに陛下の為に取らざるなり」と。是に於て景帝黙然たること良久しくして、曰く、「公の言善し、吾も亦之を恨む」と。乃ち鄧公を拝して城陽の中尉と為す。鄧公は成固の人なり、奇計多し。建元中、上賢良を招き、公卿鄧公を言ふ。時に鄧公免ぜらる、家より起ちて九卿と為る。一年にして、復た病を謝して免じて帰る。其の子章、黄老の言を修むるを以て諸公の間に顕る。太史公曰く、袁盎は学を好まずと雖も、亦善く傅会し、仁心を質と為し、義を引きて慨す。孝文の初めて立つに遭ひ、資適(たまたま)世に逢ふ。時以て変易し、呉楚に及びて一たび説く。説行はると雖も、然れども復た遂げず。声を好み賢に矜り、竟に名を以て敗る。鼂錯は家令たりし時、数(しばしば)事を言ひて用ひられず。後に権を擅にし、変更する所多し。諸侯難を発するに、急ぎ匡救せず、私讎に報いんと欲して、反りて以て軀を亡ぼす。語に曰く「古を変じ常を乱せば、死せずんば則ち亡ぶ」と。豈に錯等の謂か。
現代語訳
(父が)死んで十日余りのち、呉・楚など七国が果たして反乱を起こし、鼂錯を誅することを大義名分とした。竇嬰と袁盎が進言するに及んで、景帝は鼂錯に朝服を着せたまま東の市場で斬らせた。鼂錯が死んだのち、謁者僕射の鄧公が校尉となり、呉・楚の軍を攻める将となった。帰還すると、上書して軍事について述べ、景帝に謁見した。景帝は尋ねた。「軍中から帰って来たところだが、言ってみよ。鼂錯が死んだと聞いて、呉・楚は兵を引いたか、どうか。」鄧公は言った。「呉王は数十年も前から反乱を企てていた。領地を削られたことに怒りを爆発させ、鼂錯を誅するというのを名目にしただけで、その本意は鼂錯にあったのではない。それに私は、天下の士が口をつぐみ、二度と進言しなくなることを恐れる。」景帝は言った。「なぜか。」鄧公は言った。「そもそも鼂錯は、諸侯が強大になって制御できなくなることを憂え、それで領地を削って都を尊くするよう願い出たのだ。これは万世の利である。その計画が始まったばかりで、ついに極刑を受けた。内には忠臣の口をふさぎ、外には諸侯のために仇を討ってやったことになる。私はひそかに、陛下のために取るべきでなかったと思う。」景帝はしばらく黙り込んでから言った。「あなたの言うことはもっともだ。私もまたそれを悔やんでいる。」そこで鄧公を城陽国の中尉に任じた。鄧公は成固の人で、奇策に富んでいた。建元年間(武帝の初期)、武帝が賢良の士を招いたとき、公卿たちは鄧公を推薦した。そのとき鄧公は官を退いていたが、家から起用されて九卿となった。一年たつと、また病気を理由に辞して帰郷した。その子の鄧章は黄老の学を修めたことで、諸公の間で名を知られた。太史公曰く。袁盎は学問を好まなかったが、物事をうまく道理に結びつけて論じ、仁の心を本質とし、義を引いて慷慨した。孝文帝が即位したばかりの時に出会い、その資質がたまたま時代に合った。やがて時勢が変わり、呉・楚の乱に際して一度進言した。その進言は用いられたが、(乱を収めるという)目的は遂げられなかった。名声を好み賢者ぶったために、ついには名のために身を滅ぼした。鼂錯は家令であった時、たびたび進言したが用いられなかった。のちに権力をほしいままにし、多くの制度を改めた。諸侯が反乱を起こすと、急いで正し救おうとせず、私怨に報いようとして、かえって自分の身を滅ぼした。古語に「古を変え常道を乱せば、死ぬのでなければ亡命することになる」とあるが、まさに鼂錯らのことを言うのであろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公二十年 守道は守官に如かず公曰く、「然らば則ち之を若何せん」と。對へて曰く、「為す可からざるなり。山林の木は、衡鹿之を守り、澤の萑蒲は、舟鮫之を守り、藪の薪蒸は、虞候之を守り、海の鹽蜃は、祈望之を守る。縣鄙の人は、入りて其の政に從ふ。偪介の關は、暴に其の私を征し、承嗣の大夫は、強ひて其の賄を易ふ。布常藝無く、徵斂度無し。宮室日に更まり、淫樂違(さ)らず。内寵の妾は、肆に市に奪ひ、外寵の臣は、鄙に令を僭す。私欲養求、給せざれば則ち應ず。民人苦病し、夫婦皆詛ふ。祝に益有らば、詛も亦た損有り。聊・攝より以東、姑・尤より以西、其の人為るや、多し。其れ善く祝すと雖も、豈に能く億兆人の詛に勝たんや。君若し祝史を誅せんと欲せば、德を脩めて而る後に可なり」と。公說び、有司をして政を寬くし、關を毀ち、禁を去り、斂を薄くし、責を已めしむ。十二月、齊侯沛に田し、虞人を招くに弓を以てす。進まず。公之を執へしむ。辭して曰く、「昔我が先君の田するや、旃以て大夫を招き、弓以て士を招き、皮冠以て虞人を招く。臣皮冠を見ず、故に敢へて進まず」と。乃ち之を舍す。仲尼曰く、「道を守るは官を守るに如かず」と。君子之に同ず。
-
史記 劉敬叔孫通列伝秦は蚤く扶蘇を定めざるを以て、趙高をして詐りて胡亥を立つるを得しめ、自ら祀を滅ぼさしむ。此れ陛下の親しく見る所なり。今太子は仁孝にして、天下皆之を聞く。呂后は陛下と苦を攻め啖(たん)を食らふ。其れ背くべけんや。陛下必ず適を廢して少を立てんと欲せば、臣願はくは先づ誅に伏し、頸血を以て地を汙さん」と。高帝曰く、「公罷めよ。吾直だ戲るるのみ」と。叔孫通曰く、「太子は天下の本なり。本一たび搖らげば天下振動す。柰何ぞ天下を以て戲と為さん」と。高帝曰く、「吾公の言を聽かん」と。上酒を置くに及び、留侯の招く所の客の太子に從ひて入り見ゆるを見て、上乃ち遂に太子を易ふるの志無し。高帝崩じ、孝惠位に即く。乃ち叔孫生に謂ひて曰く、「先帝の園陵寢廟、群臣習ふ莫し」と。徙して太常と為し、宗廟の儀法を定めしむ。稍く漢の諸儀法を定むるに及び、皆叔孫生の太常為りて論箸する所なり。孝惠帝東のかた長樂宮に朝するを為し、及び閒に往くに、數々蹕(ひつ)して人を煩はす。乃ち複道を作り、方に武庫の南に筑く。叔孫生事を奏し、因りて閒を請ひて曰く、「陛下何ぞ自ら複道を高寢に筑きたまふ。衣冠月ごとに出でて高廟に游ぶ。高廟は漢の太祖なり。柰何ぞ後世の子孫をして宗廟の道の上に乘りて行かしめん」と。孝惠帝大いに懼れて曰く、「急ぎ之を壞て」と。叔孫生曰く、「人主に過舉無し。今已に作り、百姓皆之を知る。今此を壞たば、則ち過舉有るを示す。願はくは陛下、原廟を渭北に為り、衣冠月ごとに出でて之に游ばしめよ。益々宗廟を廣め多くするは、大孝の本なり」と。上乃ち有司に詔して原廟を立てしむ。原廟の起こるは、複道の故を以てなり。孝惠帝曾て春に離宮に出游す。叔孫生曰く、「古は春に果を嘗むる有り。方今櫻桃孰す。獻ずべし。願はくは陛下出でて、因りて櫻桃を取りて宗廟に獻ぜよ」と。上乃ち之を許す。諸果の獻は此に由りて興る。
-
易経・蠱卦周易 第十八卦。巽下艮上。易経。蠱は、元いに亨る。大川を渉るに利ろし。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日。初六、父の蠱を幹す、子有れば考咎无し、厲けれども終には吉。九二、母の蠱を幹す、貞にすべからず。九三、父の蠱を幹す、小しく悔い有れども、大いなる咎无し。六四、父の蠱を裕かにす、往けば吝を見る。六五、父の蠱を幹す、用て誉れあり。上九、王侯に事えず、其の事を高尚にす。彖に曰く、
-
史記 趙世家今胡服の意は、以て欲を養ひて志を楽しましむるに非ざるなり。事に止まる所有りて功に出づる所有り、事成り功立ちて、然る後に善きなり。今寡人、叔の政に従ふの経に逆らはんことを恐れ、以て叔の議を輔く。且つ寡人之を聞く、事の国を利する者は行ひに邪無く、貴戚に因る者は名累はされずと。故に願はくは公叔の義を慕ひ、以て胡服の功を成さん。紲をして之を叔に謁せしむ。請ふ服せよ」と。公子成再拝稽首して曰く、「臣固より王の胡服を聞けり。臣不佞にして、寝疾し、未だ趨走して以て滋々進むこと能はず。王之を命ず。臣敢へて対へ、因りて其の愚忠を竭くさん。曰く、臣聞く、中国は、蓋し聡明徇智の居る所なり、万物財用の聚まる所なり、賢聖の教ふる所なり、仁義の施す所なり、詩書礼楽の用ふる所なり、異敏技能の試みる所なり、遠方の観赴する所なり、蛮夷の義として行ふ所なりと。今王此を捨てて遠方の服を襲ひ、古の教へを変じ、古人の道を易へ、人の心に逆らひて、学者に怫り、中国に離る。故に臣願はくは王之を図れ」と。使者以て報ず。王曰く、「吾固より叔の疾を聞けり。我将に自ら往きて之に請はんとす」と。王遂に往きて公子成の家に之き、因りて自ら之に請ひて曰く、「夫れ服は、用を便にする所以なり。礼は、事を便にする所以なり。聖人は郷を観て宜しきに順ひ、事に因りて礼を制す。其の民を利して其の国を厚くする所以なり。夫れ髪を翦り身に文し、臂に錯して衽を左にするは、甌越の民なり。歯を黒くし題に雕り、冠を卻にして秫絀なるは、大呉の国なり。故に礼服同じき莫きも、其の便は一なり。郷異なれば用変じ、事異なれば礼易はる。是を以て聖人は果たして以て其の国を利すべくんば、其の用を一にせず。果たして以て其の事を便にすべくんば、其の礼を同じくせず。儒者は師を一にして俗異なり、中国は礼を同じくして教へ離る。況んや山谷の便に於てをや。
-
『政談』制度の事右の如く衣服等の制度を定めんにはかはり目のきわ境なくては叶はさること也、先つ東照宮へ御告あるへきことなり、日光御社参を仰せ出され、二年三年も前より御供廻の装束、諸大名の参詣の装束此度は斯の如くあるへしと号令ありて篤と支度させ、夫より直に平日に用ゆるやうに有りたきことなり、右一同上下仕換ゆることなれは、我人悪しきと、又例の手くせを出し利をまうけんとたくむへけれは、其の手当あるへきこと也、右の如く武家の制度を委細に立つること倹約の至極なれとも、諸事を新たに仕換ゆることなれは、当時困窮したる世界にては次第なく急にはなりかたかるへし、只先つ道中幷に御城下は幾何の供廻りを減少し、諸大名は江戸詰の家来を少くし、銭を鋳、貸借の道を開き、御旗本の諸士家中の武士のことは先つ其の儘にし置き、諸事の簡易に取捌くはかりにして最初に町人百姓と武家との差別を急度立つへきことなり、一切の事大そうなる事は先つ粗を立てゝ後に細にするときは仕よきものあり、前後緩急のついでとはこれを云ふなり、
-
『韓非子』和氏第十三昔者、呉起楚の悼王に教ふるに楚国の俗を以てして曰く、「大臣太だ重く、封君太だ衆し。此くの若くんば、則ち上は主に偪り、下は民を虐ぐ。此れ国を貧しくし兵を弱くするの道なり。封君の子孫三世にして爵禄を収め、百吏の禄秩を絶減し、不急の枝官を損じて、以て選練の士を奉ずるに如かず」と。悼王之を行ふこと期年にして薨ず。呉起楚に枝解せらる。商君秦の孝公に教ふるに、什伍を連ね、告坐の過を設け、詩書を燔きて法令を明らかにし、私門の請を塞ぎて公家の労を遂げ、游宦の民を禁じて耕戦の士を顕らかにするを以てす。孝公之を行ひ、主以て尊安、国以て富強なり。八年にして薨じ、商君秦に車裂せらる。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る