春秋左氏伝 / 昭公二十年 公孫青、境内にて聘す
使祝蛙寘戈於車薪。以當門。使一乘從公孟以出。使華齊御公孟。宗魯驂乘。及閎中。齊氏用戈擊公孟。宗魯以背蔽之。斷肱。以中公孟之肩。皆殺之。公聞亂。乘驅自閱門入。慶比御公。公南楚驂乘。使華寅乘貳車。及公宮。鴻騮魋駟乘于公。公載寶以出。褚師子申。遇公于馬路之衢。遂從。過齊氏。使華寅肉袒執蓋。以當其闕。齊氏射公。中南楚之背。公遂出。寅閉郭門。踰而從公。公如死鳥。析朱鉏宵從竇出。徒行從公。齊侯使公孫青聘于衛。既出。聞衛亂。使請所聘。公曰。猶在竟内。則衛君也。乃將事焉。遂從諸死鳥。請將事。
新字:使祝蛙寘戈於車薪。以当門。使一乗従公孟以出。使華斉御公孟。宗魯驂乗。及閎中。斉氏用戈撃公孟。宗魯以背蔽之。断肱。以中公孟之肩。皆殺之。公聞乱。乗駆自閲門入。慶比御公。公南楚驂乗。使華寅乗貳車。及公宮。鴻騮魋駟乗于公。公載宝以出。褚師子申。遇公于馬路之衢。遂従。過斉氏。使華寅肉袒執蓋。以当其闕。斉氏射公。中南楚之背。公遂出。寅閉郭門。踰而従公。公如死鳥。析朱鉏宵従竇出。徒行従公。斉侯使公孫青聘于衛。既出。聞衛乱。使請所聘。公曰。猶在竟内。則衛君也。乃将事焉。遂従諸死鳥。請将事。
書き下し
祝蛙をして戈を車薪に寘きて、以て門に當たらしむ。一乘をして公孟に從ひて以て出でしむ。華齊をして公孟に御せしめ、宗魯驂乘す。閎中に及びて、齊氏戈を用ゐて公孟を擊つ。宗魯背を以て之を蔽ふ。肱を斷ち、以て公孟の肩に中(あ)つ。皆之を殺す。公亂を聞き、乘りて驅けて閱門より入る。慶比公に御し、公南楚驂乘す。華寅をして貳車に乘らしむ。公宮に及び、鴻騮魋公に駟乘す。公寶を載せて以て出づ。褚師子申、公に馬路の衢に遇ひ、遂に從ふ。齊氏を過ぐ。華寅をして肉袒して蓋を執り、以て其の闕に當たらしむ。齊氏公を射て、南楚の背に中つ。公遂に出づ。寅郭門を閉ぢ、踰えて公に從ふ。公死鳥に如く。析朱鉏宵に竇より出で、徒行して公に從ふ。齊侯公孫青をして衛に聘せしむ。既に出でて、衛の亂を聞き、使ひして聘する所を請はしむ。公曰く、「猶ほ竟内に在らば、則ち衛君なり」と。乃ち事を將(おこな)ふ。遂に諸に死鳥に從ひ、事を將はんことを請ふ。
現代語訳
齊豹は祝蛙に戈を車に積んだ薪の中に隠させ、その車で門をふさがせた。また車一台に公孟の車の後をつけさせて門から出させた。華齊が公孟の車の御者となり、宗魯が驂乗として乗った。門の内側に差しかかったとき、齊氏の兵が戈で公孟に打ちかかった。宗魯は背中で公孟をかばったが、腕を断ち切られ、戈はそのまま公孟の肩に当たった。齊氏の兵は二人とも殺した。霊公は乱を聞くと、車を駆って閲門から都に入った。慶比が霊公の御者となり、公南楚が驂乗した。華寅には副車に乗らせた。宮殿に着くと、鴻騮魋(こうりゅうたい)が四人目として霊公の車に乗り込んだ。霊公は宝物を車に積んで都を出た。褚師子申が馬路の四つ辻で霊公に出会い、そのまま付き従った。齊氏の屋敷の前を通るとき、華寅に片肌脱ぎになって車の覆いを持たせ、車の隙間をふさがせた。齊氏は霊公を射たが、矢は公南楚の背中に当たった。霊公はついに都を脱出した。華寅は外城の門を閉じ、城壁を越えて霊公の後を追った。霊公は死鳥に向かった。析朱鉏(せきしゅしょ)は夜、城壁の排水口から抜け出し、徒歩で霊公の後を追った。斉侯(斉の景公)は公孫青を衛に聘問の使者として遣わしていた。公孫青は斉を出たあとで衛の乱を聞き、使いを出して、誰に聘問すべきかを斉侯に問い合わせた。斉侯は言った。「まだ衛の国境の内にいるのなら、その人が衛の君である」。そこで公孫青は使命を果たすことにし、霊公の後を追って死鳥に行き、聘問の礼を行いたいと願い出た。
解説
この章句が説くこと
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風憲忠告・臨難苐九夫れ人臣にして國家言責の任に當れば、刑辱の事、敢えてその無き有るを必とせず、要は順って處り靜かに伺い、理を以てこれを□するに在るのみ。若し乃ち哀を求め憐れみを乞い、惴讋(ずいしょう)して所無ければ、巳に先ず撓(たわ)む、何を以てか自ら眀(あき)らかにせん。夫れ已の職を盡くし、國の爲民の爲にして罪を得るは、君子は以て辱と為さず、以て榮と為す。縲紲(るいせつ)せらると雖も、荊楚せらると雖も、斧鉞せらると雖も、庸(なん)ぞ愧(は)ずること何かあらんや。歷(あまね)く自古(いにしえよ)り禍患に處して亂れざる者を觀るに、三代よりの下、子路の纓(えい)を結ぶが如き、宜僚(ぎりょう)の色を正すが如き、王景文の客と碁を弈(う)つが如き、劉禕(りゅうい)の自ら謝表を書すが如き、魏元忠の赦を聞きて動ぜざるが如き、是れ皆真に義命の在る所を知る有るを以てなり、區區(くく)たる人力の得て移す所に非ざるなり。然れども士君子平昔(へいせき)飬う所、其の情と偽と、焉(ここ)に於いて以て見るべし。李斯刑に臨みて父子相泣き、楊子雲(揚子雲)收(とら)えられて□閣ほとんど死せんとし、王坦之謝安と名を齊しくするも、桓溫朝に來たるや倒(さかしま)に手板を執り、崔浩自ら子房に比するも、史事を辨ずるが為に聲嘶(か)れ股栗(こりつ)し、便溺(べんでき)隱すこと能わず。此れ彼れ惟だ名を事とするのみにして、聖賢性命の學に於いては實に未だ甞て諸(これ)を心に淂(え)ざりしを見るべし。善いかな、韓文公の言に曰く、「儒者の患難に於けるや、苟しくも其れ自らこれを取るに非ざれば、其の拒みて懷に受けざるや、河堤を築きて以て屋霤(おくりゅう)を障(ふせ)ぐが若し。其の容れてこれを消すや、水の海に於ける、氷の夏日に於けるが若し。其の玩びてこれを文辭を以て忘るるや、金石を奏でて以て蟋蟀(しっしゅつ)の鳴くを破るが若し」と。故に君子の學は、理を眀らかにし自ら信ずるを以て貴しと為す。
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『墨子』七患子墨子曰く、國に七患有り。七患なる者は何ぞ。城郭溝池、守る可からずして、宫室を治む、一の患なり。邊寇、境に至るも、四鄰救う莫し、二の患なり。先ず民力を無用の功に盡くし、無能の人に賞賜し、民力、無用に盡き、財寳、侍客に虚し、三の患なり。仕うる者は祿を待ち、游ぶ者は反るを思い、君は法を脩めて臣を討ち、臣は懾れて敢えて拂らわず、四の患なり。君、自ら以て聖智と為して事を問わず、自ら以て安彊と為して守備無く、四鄰、之を謀るも戒を知らず、五の患なり。言う所は忠ならず、忠とする所は信ならず、六の患なり。畜え種うる菽粟、以て之を食らわすに足らず、大臣、事を治むるに足らず、賞賜は喜ばしむる能わず、誅罰は威らしむる能わず、七の患なり。七患を以て國に居らば、必ず社稷無からん。七患を以て城を守らば、敵至りて國傾かん。七患の當たる所、國に必ず殃有り。
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