春秋左氏伝 / 昭公二十年 宗魯、死を公孟に帰す
衛公孟縶狎齊豹。奪之司寇與鄄。有役則反之。無則取之。公孟惡北宮喜。褚師圃。欲去之。公子朝通于襄夫人宣姜。懼而欲以作亂。故齊豹。北宮喜。褚師圃。公子朝。作亂。初。齊豹見宗魯於公孟。為驂乘焉。將作亂。而謂之曰。公孟之不善。子所知也。勿與乘。吾將殺之。對曰。吾由子事公孟。子假吾名焉。故不吾遠也。雖其不善。吾亦知之。抑以利故。不能去。是吾過也。今聞難而逃。是僭子也。子行事乎。吾將死之。以周事子。而歸死於公孟。其可也。丙辰。衛侯在平壽。公孟有事於蓋獲之門外。齊子氏帷於門外。而伏甲焉。
新字:衛公孟縶狎斉豹。奪之司寇与鄄。有役則反之。無則取之。公孟悪北宮喜。褚師圃。欲去之。公子朝通于襄夫人宣姜。懼而欲以作乱。故斉豹。北宮喜。褚師圃。公子朝。作乱。初。斉豹見宗魯於公孟。為驂乗焉。将作乱。而謂之曰。公孟之不善。子所知也。勿与乗。吾将殺之。対曰。吾由子事公孟。子仮吾名焉。故不吾遠也。雖其不善。吾亦知之。抑以利故。不能去。是吾過也。今聞難而逃。是僭子也。子行事乎。吾将死之。以周事子。而帰死於公孟。其可也。丙辰。衛侯在平寿。公孟有事於蓋獲之門外。斉子氏帷於門外。而伏甲焉。
書き下し
衛の公孟縶齊豹を狎(かろ)んじ、之が司寇と鄄とを奪ふ。役有れば則ち之を反し、無ければ則ち之を取る。公孟北宮喜・褚師圃を惡み、之を去らんと欲す。公子朝襄夫人宣姜に通じ、懼れて以て亂を作さんと欲す。故に齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝、亂を作す。初め、齊豹宗魯を公孟に見えしめ、驂乘と為す。將に亂を作さんとして、之に謂ひて曰く、「公孟の不善なるは、子の知る所なり。與に乘ること勿かれ。吾將に之を殺さんとす」と。對へて曰く、「吾子に由りて公孟に事ふ。子吾に名を假す。故に吾を遠ざけず。其の不善なりと雖も、吾も亦た之を知る。抑も利の故を以て、去る能はず。是れ吾が過ちなり。今難を聞きて逃るるは、是れ子を僭(いつは)るなり。子事を行へ。吾將に之に死し、以て子に事ふることを周くし、而して死を公孟に歸さん。其れ可ならん」と。丙辰、衛侯平壽に在り。公孟蓋獲の門の外に事有り。齊子氏門の外に帷して、甲を伏す。
現代語訳
衛の公孟縶(こうもうちつ、衛の霊公の兄)は齊豹を侮り、その司寇の官職と鄄の邑を取り上げた。役務があるときには返し、ないときには取り上げるというありさまであった。公孟はまた北宮喜と褚師圃(ちょしほ)を憎み、除こうとしていた。公子朝は襄夫人の宣姜(霊公の嫡母)と密通しており、発覚を恐れて乱を起こそうと考えた。こうして齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝が乱を起こした。これより前、齊豹は宗魯を公孟に引き合わせ、宗魯は公孟の驂乗(車の右に乗る護衛)となっていた。乱を起こすにあたって、齊豹は宗魯に言った。「公孟がよからぬ人物であることは、君も知っているとおりだ。公孟と同じ車に乗るな。私は公孟を殺すつもりだ」。宗魯は答えた。「私はあなたの紹介で公孟に仕えました。あなたが私に良い評判を貸してくださったから、公孟は私を遠ざけなかったのです。公孟がよからぬ人物であることは、私も承知しています。しかし利禄のために去ることができなかった。それは私の過ちです。いま難が起こると聞いて逃げれば、あなたの推薦を偽りにすることになります。あなたは事を行ってください。私は公孟のために死にましょう。そうすればあなたに仕える道も全うし、しかも死によって公孟への務めを果たせます。それでよいでしょう」。丙辰の日、衛侯(霊公)は平寿にいた。公孟は蓋獲の門の外で祭祀を行った。齊子氏(齊豹)は門の外に幕を張り、そこに武装兵を伏せた。
解説
この章句が説くこと
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史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
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葉隠・聞書第一楠木正成(くすのきまさしげ)兵庫記(ひょうごき)の中に、「降参(こうさん)と云ふことは、謀(はかりごと)にても君のためにても、武士のせることなり。」とあり。忠臣は斯(か)くの如(ごと)くあるべきこととなり。
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史記 刺客列伝居ること頃之、豫譲又身に漆して厲と為り、炭を呑みて唖と為り、形状をして知るべからざらしめ、市に行乞す。其の妻識らざるなり。行きて其の友に見ゆ。其の友之を識りて曰く、「汝は豫譲に非ずや」と。曰く、「我是なり」と。其の友為に泣きて曰く、「子の才を以て、質を委ねて臣として襄子に事へば、襄子必ず子を近幸せん。子を近幸せば、乃ち欲する所を為すこと、顧って易からずや。何ぞ乃ち身を残し形を苦しめ、以て襄子に報ぜんことを求めんと欲する。亦難からずや」と。豫譲曰く、「既已に質を委ねて臣として人に事へ、而して之を殺さんことを求むるは、是れ二心を懐きて以て其の君に事ふるなり。且つ吾が為す所の者は極めて難きのみ。然れども此を為す所以の者は、将に以て天下後世の人臣と為りて二心を懐きて以て其の君に事ふる者を愧ぢしめんとするなり」と。既に去り、頃之、襄子当に出づべし。豫譲、当に過ぐべき所の橋の下に伏す。襄子橋に至り、馬驚く。襄子曰く、「此れ必ず是れ豫譲ならん」と。人をして之を問はしむれば、果して豫譲なり。是に於て襄子乃ち豫譲を数めて曰く、「子は嘗て范・中行氏に事へずや。智伯尽く之を滅ぼす。而るに子は為に讎を報ぜず、而して反って質を委ねて智伯に臣たり。智伯も亦已に死せり。而るに子独り何を以て之が為に讎を報ずることの深きや」と。豫譲曰く、「臣、范・中行氏に事ふ。范・中行氏は皆衆人もて我を遇す。我故に衆人もて之に報ず。智伯に至りては、国士もて我を遇す。我故に国士もて之に報ず」と。襄子喟然として嘆息して泣きて曰く、「嗟乎豫子。子の智伯の為にする、名既に成れり。而して寡人の子を赦す、亦已に足れり。子其れ自ら計を為せ。寡人復た子を釈さず」と。兵をして之を囲ましむ。豫譲曰く、「臣聞く、明主は人の美を掩はず、而して忠臣は名に死するの義有りと。前に君已に寛く臣を赦し、天下君の賢を称せざる莫し。今日の事、臣固より誅に伏せん。然れども願はくは君の衣を請ひて之を撃ち、以て讎を報ずるの意を致さば、則ち死すと雖も恨みず。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。是に於て襄子大いに之を義とし、乃ち使をして衣を持ちて豫譲に与へしむ。豫譲剣を抜きて三たび躍りて之を撃ち、
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