春秋左氏伝 / 昭公十三年 衆怒は水火の如し
夏。五月。癸亥。王縊于芋尹申亥氏。申亥以其二女。殉而葬之。觀從謂子干曰。不殺棄疾。雖得國。猶受禍也。子干曰。余不忍也。子玉曰。人將忍子。吾不忍俟也。乃行。國每夜駭曰。王入矣。乙卯。夜。棄疾使周走而呼曰。王至矣。國人大驚。使蔓成然走告子干。子皙曰。王至矣。國人殺君。司馬將來矣。君若早自圖也。可以無辱。眾怒如水火焉。不可為謀。又有呼而走至者曰。眾至矣。二子皆自殺。丙辰。棄疾即位。名曰熊居。葬子于于訾實。訾敖殺囚。衣之王服。而流諸漢。乃取而葬之。以靖國人。使子旗為令尹。楚師還自徐。吳人敗諸豫章。獲其五帥。平王封陳蔡。復遷邑。
新字:夏。五月。癸亥。王縊于芋尹申亥氏。申亥以其二女。殉而葬之。観従謂子干曰。不殺棄疾。雖得国。猶受禍也。子干曰。余不忍也。子玉曰。人将忍子。吾不忍俟也。乃行。国毎夜駭曰。王入矣。乙卯。夜。棄疾使周走而呼曰。王至矣。国人大驚。使蔓成然走告子干。子皙曰。王至矣。国人殺君。司馬将来矣。君若早自図也。可以無辱。衆怒如水火焉。不可為謀。又有呼而走至者曰。衆至矣。二子皆自殺。丙辰。棄疾即位。名曰熊居。葬子于于訾実。訾敖殺囚。衣之王服。而流諸漢。乃取而葬之。以靖国人。使子旗為令尹。楚師還自徐。呉人敗諸予章。獲其五帥。平王封陳蔡。復遷邑。
書き下し
夏五月癸亥、王芋尹申亥氏に縊る。申亥其の二女を以って殉じて之を葬る。觀從子干に謂ひて曰く、「棄疾を殺さずんば、國を得と雖も、猶ほ禍を受けん」と。子干曰く、「余忍びざるなり」と。子玉曰く、「人將に子に忍びんとす。吾俟つに忍びざるなり」と。乃ち行る。國每夜駭きて曰く、「王入れり」と。乙卯の夜、棄疾周走して呼ばしめて曰く、「王至れり」と。國人大いに驚く。蔓成然をして走りて子干・子皙に告げしめて曰く、「王至れり。國人君の司馬を殺せり。將に來らんとす。君若し早く自ら圖らば、以って辱無かる可し。眾怒は水火の如し、謀を為す可からず」と。又呼びて走り至る者有りて曰く、「眾至れり」と。二子皆自殺す。丙辰、棄疾即位し、名づけて熊居と曰ふ。子干を于訾に葬る、實に訾敖たり。囚を殺し、之に王服を衣せて、諸を漢に流し、乃ち取りて之を葬り、以って國人を靖んず。子旗をして令尹為らしむ。楚師徐より還る。吳人諸を豫章に敗り、其の五帥を獲たり。平王陳・蔡を封じ、邑を復遷す。
現代語訳
夏五月癸亥の日、霊王は芋尹申亥の家で首をくくって死んだ。申亥は自分の二人の娘を殉死させて王を葬った。観従は子干(新王の公子比)に言った。「棄疾を殺さなければ、国を得たとしても、なお禍を受けるでしょう」。子干は言った。「私にはそんな酷いことはできない」。子玉(観従の字)は言った。「人のほうはあなたに酷いことをしようとしています。私は禍を待っていることに耐えられません」。そして立ち去った。国都では毎夜、「霊王が帰ってきた」と人々が騒いでおびえていた。乙卯の夜、棄疾は人を使って都中を走り回らせ、「王が来た」と叫ばせた。国人は大いに驚いた。棄疾はさらに蔓成然を走らせて子干と子皙に告げさせた。「王が来ました。国人はあなたの司馬(棄疾)を殺しました。王はまもなくここへ来ます。君がもし早く自ら身の処し方を決めれば、辱めを受けずに済みます。衆人の怒りは水や火のようなもので、手の打ちようがありません」。さらに叫びながら走ってくる者があり、「群衆が来たぞ」と言った。二人の公子はどちらも自殺した。丙辰の日、棄疾が即位し、名を熊居と改めた(平王)。子干を訾に葬ったので、彼は訾敖と呼ばれる。囚人を殺して王の服を着せ、漢水に流しておいてから、それを引き上げて霊王として葬り、国人を安心させた。子旗(蔓成然)を令尹にした。徐を包囲していた楚の軍が帰還する途中、呉の人々がこれを豫章で破り、五人の将を捕らえた。平王は陳と蔡を再び封じ、移されていた邑を元の地に戻した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』桓公六年 鬬伯比、隨を驕らす策六年春、曹より來朝す。書して「寔(こ)れ來たる」と曰ふは、其の國に復らざればなり。楚の武王隨を侵し、薳章をして成を求めしめ、瑕に軍して以て之を待つ。隨人少師をして成を董さしむ。鬬伯比楚子に言ひて曰く、「吾の志を漢東に得ざるや、我則ち然らしむ。我吾が三軍を張りて吾が甲兵を被り、武を以て之に臨む。彼則ち懼れて協して以て我を謀る、故に間し難きなり。漢東の國、隨を大と為す。隨張らば、必ず小國を棄てん。小國離るるは、楚の利なり。少師は侈る、請ふ師を羸(よわ)くして以て之を張らしめん」と。熊率且比曰く、「季梁在り、何の益かあらん」と。鬬伯比曰く、「以て後圖と為す。少師其の君を得ん」と。王軍を毀りて少師を納る。
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『春秋左氏伝』定公十年 駟赤、郈を取る克たず。秋、二子、齊の師と復た郈を圍む。克たず。叔孫、郈の工師駟赤に謂ひて曰く、「郈は唯だ叔孫氏の憂ひのみに非ず、社稷の患ひなり。將に之を若何せんとす」と。對へて曰く、「臣の業は、揚水の卒章の四言に在り」と。叔孫、稽首す。駟赤、侯犯に謂ひて曰く、「齊・魯の際に居りて事ふる無きは、必ず不可なり。子、盍ぞ事を齊に求めて以て民に臨まざる。然らずんば、將に叛かれんとす」と。侯犯、之に從ふ。齊の使至る。駟赤、郈人と之が為に郈中に宣言して曰く、「侯犯、將に郈を以て齊に易へんとす。齊人、將に郈の民を遷さんとす」と。眾、兇懼す。駟赤、侯犯に謂ひて曰く、「眾の言異なれり。子、齊に易ふるに如かず。其の死せんよりは、猶ほ是れ郈なり、而して紓ぶるを得ん。何ぞ必ずしも此ならん。齊人は此を以て魯に偪らんと欲す。必ず倍して子に地を與へん。且つ盍ぞ多く甲を子の門に舍きて、以て不虞に備へざる」と。侯犯曰く、「諾」と。乃ち多く甲を焉に舍く。侯犯、齊に易へんことを請ふ。齊の有司、郈を觀て將に至らんとす。駟赤、人をして周く走りて呼ばしめて曰く、「齊の師至れり」と。郈人大いに駭き、侯犯の門の甲を介して、以て侯犯を圍む。
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孫子・謀攻篇故に上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。
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『韓非子』說林下二十三夫れ一臣を殺して一国を存す、其れ吉と言はざるは何ぞや。且つ死者知無くんば、則ち臣を以て鼓に釁るも益無きなり。死者知有らば、臣将に戦ひに当たるの時、臣鼓をして鳴らざらしめん」と。荊人因りて殺さざるなり。知伯将に仇由を伐たんとして道難くして通ぜず、乃ち大鐘を鋳て仇由の君に遺る。仇由の君大いに説び、道を除きて将に之を内れんとす。赤章曼枝曰く、「不可なり。此れ小の大に事ふる所以なり、而るに今や大以て来る、卒必ず之に随はん、内るべからざるなり」と。仇由の君聴かず、遂に之を内る。赤章曼枝因りて轂を断ちて駆り、斉に至り、七月にして仇由亡ぶ。越已に呉に勝ち、又卒を荊に索めて晋を攻めんとす。左史倚相、荊王に謂ひて曰く、「夫れ越は呉を破りて、豪士死し、鋭卒尽き、大甲傷つく。今又卒を索めて以て晋を攻むるは、我に病まざるを示すなり。師を起こして与に呉を分かつに如かず」と。荊王曰く、「善し」と。因りて師を起こして越に従ふ。越王怒り、将に之を撃たんとす。大夫種曰く、「不可なり。吾が豪士尽き、大甲傷つく。我与に戦はば、必ず克たず。之に賂ふに如かず」と。乃ち露山の陰五百里を割きて以て之に賂ふ。荊、陳を伐ち、呉之を救ふ。軍間三十里。雨ふること十日、夜星あり。左史倚相、子期に謂ひて曰く、「雨ふること十日、甲輯まりて兵聚まる。呉人必ず至らん、之に備ふるに如かず」と。乃ち陳を為す。陳未だ成らざるに呉人至り、荊の陳を見て反る。左史曰く、「呉は反覆六十里、其の君子必ず休み、小人必ず食はん。我三十里を行きて之を撃たば、必ず敗るべきなり」と。乃ち之に従ひ、遂に呉の軍を破る。韓・趙相与に難を為す。韓子、兵を魏に索めて曰く、「願はくは師を借りて以て趙を伐たん」と。魏の文侯曰く、「寡人は趙と兄弟なり、以て従ふべからず」と。趙も又兵を索めて以て韓を攻めんとす。文侯曰く、「寡人は韓と兄弟なり、敢へて従はず」と。二国、兵を得ずして、怒りて反る。
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