名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 四人を一度に呼ぶ謀
○十二年、秀吉、北畠信雄を打亡さんと謀て、先づ信雄の長臣、岡田長門守重善、津川玄蕃允義冬、淺井多宮丸、瀧川三郎兵衞勝雅を招き、懇に饗應して後、信雄に自害を勸めよ、去ば恩賞厚く行ふべしと語られけり。聞き入れずば首を刎ん氣色なる上、神文を書けよと責らる。四人力なく承はりぬと言て、起請文を書きにけり。秀吉も約に背くまじ、と神文を出しけり。是は一人づ〻語ふべきを、一同に招きたるは、信雄に告知らする者ありて、殘る者を誅させんとの謀なり。又皆秀吉に、實に心腹せずとも、既に神文を書きたれば、疑ひて一和すべからずと思慮せしなり。勝雅、信雄に斯くと告げしかば、果して三人を誅せり。
新字:○十二年、秀吉、北畠信雄を打亡さんと謀て、先づ信雄の長臣、岡田長門守重善、津川玄蕃允義冬、浅井多宮丸、滝川三郎兵衛勝雅を招き、懇に饗応して後、信雄に自害を勧めよ、去ば恩賞厚く行ふべしと語られけり。聞き入れずば首を刎ん気色なる上、神文を書けよと責らる。四人力なく承はりぬと言て、起請文を書きにけり。秀吉も約に背くまじ、と神文を出しけり。是は一人づ〻語ふべきを、一同に招きたるは、信雄に告知らする者ありて、残る者を誅させんとの謀なり。又皆秀吉に、実に心腹せずとも、既に神文を書きたれば、疑ひて一和すべからずと思慮せしなり。勝雅、信雄に斯くと告げしかば、果して三人を誅せり。
書き下し
○十二年、秀吉、北畠信雄を打亡さんと謀て、先づ信雄の長臣、岡田長門守重善、津川玄蕃允義冬、淺井多宮丸、瀧川三郎兵衞勝雅を招き、懇に饗應して後、信雄に自害を勸めよ、去ば恩賞厚く行ふべしと語られけり。聞き入れずば首を刎ん氣色なる上、神文を書けよと責らる。四人力なく承はりぬと言て、起請文を書きにけり。秀吉も約に背くまじ、と神文を出しけり。是は一人づ〻語ふべきを、一同に招きたるは、信雄に告知らする者ありて、殘る者を誅させんとの謀なり。又皆秀吉に、實に心腹せずとも、既に神文を書きたれば、疑ひて一和すべからずと思慮せしなり。勝雅、信雄に斯くと告げしかば、果して三人を誅せり。
現代語訳
天正十二年、秀吉は北畠信雄を討ち滅ぼそうと謀り、まず信雄の重臣である岡田長門守重善、津川玄蕃允義冬、浅井多宮丸、滝川三郎兵衛勝雅を招き、丁重にもてなしたあとで、信雄に自害を勧めよ、そうすれば恩賞を厚くしよう、と語った。聞き入れなければ首を刎ねかねない様子の上に、誓紙を書けと責め立てた。四人はやむなく承知しましたと言って、起請文を書いた。秀吉も約束にそむかない、と誓紙を出した。これは一人ずつ語らうべきところを、一同に招いたのは、信雄に告げ知らせる者があり、残る者を信雄に誅殺させようとの謀りごとであった。また、皆が秀吉に本心から従わなくても、すでに誓紙を書いた以上、疑って一致団結することはできまいと考えたのである。勝雅が信雄にこうだと告げたところ、果たして信雄は三人を誅殺した。
解説

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