春秋左氏伝 / 昭公十二年 投壺の辞
公如晉。至河乃復。取郠之役。莒人愬于晉。晉有平公之喪。未之治也。故辭公。公子憖遂如晉。晉侯享諸侯。子產相鄭伯。辭於享。請免喪而後聽命。晉人許之。禮也。晉侯以齊侯宴。中行穆子相。投壺。晉侯先。穆子曰。有酒如淮。有肉如坻。寡君中此。為諸侯師。中之。齊侯舉矢曰。有酒如澠。有肉如陵。寡人中此。與君代興。亦中之。伯瑕謂穆子曰。子失辭。吾固師諸侯矣。壺何為焉。其以中雋也。齊君弱吾君。歸弗來矣。穆子曰。吾軍帥彊禦。卒乘競勸。今猶古也。齊將何事。公孫傁趨進曰。日旰君勤。可以出矣。以齊侯出。楚子謂成虎。若敖之餘也。遂殺之。或譖成虎於楚子。成虎知之。而不能行。書曰。楚殺其大夫成虎。懷寵也。六月。葬鄭簡公。晉荀吳偽會齊師者。假道於鮮虞。遂入昔陽。秋。八月。壬午。滅肥。以肥子綿皋歸。
新字:公如晋。至河乃復。取郠之役。莒人愬于晋。晋有平公之喪。未之治也。故辞公。公子憖遂如晋。晋侯享諸侯。子産相鄭伯。辞於享。請免喪而後聴命。晋人許之。礼也。晋侯以斉侯宴。中行穆子相。投壺。晋侯先。穆子曰。有酒如淮。有肉如坻。寡君中此。為諸侯師。中之。斉侯舉矢曰。有酒如澠。有肉如陵。寡人中此。与君代興。亦中之。伯瑕謂穆子曰。子失辞。吾固師諸侯矣。壺何為焉。其以中雋也。斉君弱吾君。帰弗来矣。穆子曰。吾軍帥彊禦。卒乗競勧。今猶古也。斉将何事。公孫傁趨進曰。日旰君勤。可以出矣。以斉侯出。楚子謂成虎。若敖之余也。遂殺之。或譖成虎於楚子。成虎知之。而不能行。書曰。楚殺其大夫成虎。懐寵也。六月。葬鄭簡公。晋荀呉偽会斉師者。仮道於鮮虞。遂入昔陽。秋。八月。壬午。滅肥。以肥子綿皋帰。
書き下し
公晉に如く。河に至りて乃ち復る。郠を取るの役、莒人晉に愬ふ。晉平公の喪有りて、未だ之を治めず。故に公を辭す。公子憖遂に晉に如く。晉侯諸侯に享す。子產鄭伯を相け、享を辭し、喪を免れて而る後に命を聽かんことを請ふ。晉人之を許す。禮なり。晉侯齊侯を以って宴す。中行穆子相たり。投壺す。晉侯先んず。穆子曰く、「酒有ること淮の如く、肉有ること坻の如し。寡君此に中てば、諸侯の師と為らん」と。之に中つ。齊侯矢を舉げて曰く、「酒有ること澠の如く、肉有ること陵の如し。寡人此に中てば、君と代はる代はる興らん」と。亦た之に中つ。伯瑕穆子に謂ひて曰く、「子辭を失へり。吾固より諸侯に師たり。壺何ぞ為さん。其れ中るを以って雋と為さんや。齊君吾が君を弱しとす。歸らば、來たらざらん」と。穆子曰く、「吾が軍帥は彊禦にして、卒乘は競ひ勸む。今も猶ほ古のごとし。齊將た何をか事とせん」と。公孫傁趨り進みて曰く、「日旰れて君勤めたり。以って出づべし」と。齊侯を以って出づ。楚子成虎を若敖の餘なりと謂ひ、遂に之を殺す。或ひと成虎を楚子に譖す。成虎之を知れども、行る能はず。書して曰く、「楚其の大夫成虎を殺す」と。寵を懷へばなり。六月、鄭の簡公を葬る。晉の荀吳偽りて齊の師に會する者のごとくし、道を鮮虞に假り、遂に昔陽に入る。秋、八月、壬午、肥を滅ぼし、肥子綿皋を以って歸る。
現代語訳
公(魯の昭公)は晋に行こうとしたが、黄河まで来て引き返した。魯が郠を取った戦役について、莒人が晋に訴えていた。晋は平公の喪中で、まだその件を処理していなかった。それで公の来訪を断ったのである。公子憖はそのまま晋へ行った。晋侯(昭公)が諸侯をもてなした。子産は鄭伯を補佐していたが、宴を辞退し、(鄭の簡公の)喪が明けてから命に従いたいと願い出た。晋人はこれを許した。礼にかなっている。晋侯は斉侯(景公)をもてなして宴を開いた。中行穆子(荀呉)が晋侯の補佐役を務めた。投壺(壺に矢を投げ入れる遊戯)を行った。晋侯が先に投げた。穆子は言った。「酒は淮水のごとく、肉は中洲のごとく豊かにある。わが君がこれを当てれば、諸侯の長となられよう」。晋侯は当てた。斉侯は矢を掲げて言った。「酒は澠水のごとく、肉は丘のごとく豊かにある。私がこれを当てれば、君と代わる代わる盛んになろう」。斉侯も当てた。伯瑕(士文伯)が穆子に言った。「あなたは言葉を誤った。わが国はもとより諸侯の長である。壺など何の関係があろう。当たったことを優れた証とでもするのか。斉君はわが君を侮った。帰国すれば、もう来ないだろう」。穆子は言った。「わが軍の将帥は強く、兵卒も戦車も競い合って奮い立っている。今も昔と変わらない。斉に何ができようか」。斉の公孫傁が小走りに進み出て言った。「日も暮れ、君もお疲れでしょう。退出なさってよいころです」。そして斉侯を連れて退出した。楚子(霊王)は成虎を若敖氏(かつて反乱を起こした一族)の生き残りだとして、殺した。ある人が成虎を楚子に讒言していた。成虎はそれを知っていたが、国を去ることができなかった。『春秋』が「楚がその大夫成虎を殺した」と名を記したのは、成虎にも寵愛に未練を残して去らなかった落ち度があったからである。六月、鄭の簡公を葬った。晋の荀呉は斉の軍と会合するように装って、鮮虞に道を借り、そのまま昔陽に入った。秋八月壬午の日、肥を滅ぼし、肥子の綿皋を連れて帰った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 越王句践世家越王曰く、「奈何」と。曰く、「楚の三大夫九軍を張り、北のかた曲沃・於中を囲み、以て無仮の関に至る者三千七百里。景翠の軍、北のかた魯・斉・南陽に聚まる。分つこと此より大なる者有らんや。且つ王の求むる所の者は、晋・楚を闘はしむるなり。晋・楚闘はずんば、越の兵起たず。是れ二五を知りて十を知らざるなり。此の時楚を攻めずんば、臣是を以て越の大は王たらず、小は伯たらざるを知る。復讎・龐・長沙は楚の粟なり。竟沢陵は楚の材なり。越、兵を窺はせて無仮の関を通ぜば、此の四邑の者は上りて郢に貢事せざらん。臣之を聞く、王を図りて王たらざるも、其の敝は以て伯たるべしと。然り而して伯たらざる者は、王道失へばなり。故に願はくは大王の転じて楚を攻めんことを」と。是に於て越遂に斉を釈きて楚を伐つ。楚の威王兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故の呉の地を取りて浙江に至り、北のかた斉を徐州に破る。而して越此を以て散じ、諸族子立つを争ひ、或いは王と為り、或いは君と為り、江南の海上に浜し、楚に服朝す。後七世にして、閩君搖に至り、諸侯を佐けて秦を平ぐ。漢の高帝復た搖を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。范蠡、越王句践に事へ、既に身を苦しめ力を戮せ、句践と深く謀ること二十余年、竟に呉を滅ぼし、会稽の恥に報い、北のかた兵を淮に渡して以て斉・晋に臨み、中国に号令し、以て周室を尊ぶ。句践以て霸たり、而して范蠡は上将軍と称せらる。還りて国に反り、范蠡以為へらく、大名の下には以て久しく居り難く、且つ句践の人と為りは与に患ひを同じくすべきも、与に安きに処り難しと。書を為りて句践に辞して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣労し、主辱めらるれば臣死すと。昔者君王会稽に辱めらる。死せざりし所以は、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ。臣請ふ会稽の誅に従はん」と。句践曰く、「孤将に子と国を分ちて之を有たんとす。然らずんば、将に誅を子に加へんとす」と。
-
史記 匈奴列伝漢の驃騎将軍の代より出づること二千余里、左賢王と接戦す。漢の兵胡の首虜を得ること凡そ七万余級。左賢王の将皆遁走す。驃騎狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、翰海に臨みて還る。是の後匈奴遠く遁れ、而して幕南に王庭無し。漢河を度り朔方より以西令居に至るまで、往往にして渠を通じ田を置き、官吏卒五六万人、稍く蚕食し、地は匈奴以北に接す。初め、漢の両将軍大いに出でて単于を囲み、殺虜する所八九万。而して漢の士卒の物故するも亦数万、漢の馬の死する者十余万。匈奴病むと雖も、遠く去る。而して漢も亦馬少なく、以て復た往く無し。匈奴趙信の計を用ひ、使を漢に遣はし、好辞もて和親を請ふ。天子其の議を下す。或いは和親を言ひ、或いは遂に之を臣とせよと言ふ。丞相長史任敞曰く、「匈奴新たに破れ、困しむ。宜しく外臣と為して、辺に朝請せしむべし」と。漢任敞を単于に使はす。単于敞の計を聞き、大いに怒り、之を留めて遣らず。是より先、漢も亦降る所の匈奴の使者有り。単于も亦輒ち漢の使を留めて相当たらしむ。漢方に復た士馬を収む。会々驃騎将軍去病死す。是に於て漢久しく北のかた胡を撃たず。数歳にして、伊稚斜単于立ちて十三年にして死す。子烏維立ちて単于と為る。是の歳は、漢の元鼎三年なり。烏維単于立ち、而して漢の天子始めて出でて郡県を巡る。其の後漢方に南のかた両越を誅し、匈奴を撃たず。匈奴も亦辺に侵入せず。烏維単于立ちて三年、漢已に南越を滅ぼし、故の太僕賀をして万五千騎を将ゐて九原より出づること二千余里、浮苴井に至りて還らしむ。匈奴の一人をも見ず。漢又故の従驃侯趙破奴をして万余騎もて令居より出づること数千里、匈河水に至りて還らしむ。亦匈奴の一人をも見ず。
-
史記 樗里子甘茂列伝今、二人の者皆秦の事に親しむを得ずして、公独り王と国に主断するは何ぞや。彼、以てこれを失ふ有ればなり。公孫奭は韓に党し、甘茂は魏に党す、故に王信ぜざるなり。今、秦楚彊を争ひて公は楚に党す、是れ公孫奭・甘茂と道を同じくするなり、公何を以てこれに異ならん。人皆楚の善く変ずるを言ふ、而るに公必ずこれに亡びば、是れ自ら責を為すなり。公は王とその変を謀り、韓を善くして以て楚に備ふるに如かず。此くの如くんば則ち患ひ無からん。韓氏は必ず先に国を以て公孫奭に従ひて後に国を甘茂に委ねん。韓は公の讎なり。今、公、韓を善くして以て楚に備へんと言ふ、是れ外に挙ぐるに讎を僻けざるなり」と。向寿曰く、「然り、吾甚だ韓の合せんことを欲す」と。対へて曰く、「甘茂は公仲に許すに武遂を以てし、宜陽の民を反す。今、公徒らにこれを収めんとするは、甚だ難し」と。向寿曰く、「然らば則ち奈何せん。武遂は終に得べからざるか」と。対へて曰く、「公奚ぞ秦を以て韓の為に潁川を楚に求めざる。此れ韓の寄地なり。公求めてこれを得ば、是れ令楚に行はれて、その地を以て韓に徳とせらるるなり。公求めて得ずんば、是れ韓楚の怨み解けずして、交々秦に走るなり。秦楚彊を争ひ、公徐ろに楚を過めて以て韓を収めば、此れ秦に利あり」と。向寿曰く、「柰何せん」と。対へて曰く、「此れ善き事なり。甘茂は魏を以て斉を取らんと欲し、公孫奭は韓を以て斉を取らんと欲す。今、公、宜陽を取りて以て功と為し、楚韓を収めて以てこれを安んじ、而して斉魏の罪を誅せば、是れ公孫奭・甘茂を以て事無からしむるなり」と。甘茂竟に秦の昭王に言ひ、武遂を以てまたこれを韓に帰す。向寿・公孫奭これを争ふも、得ること能はず。向寿・公孫奭これに由りて怨み、甘茂を讒す。茂懼れ、魏の蒲阪を伐つを輟めて、亡げ去る。樗里子、魏と講じ、兵を罷む。
-
『春秋左氏伝』哀公十七年 誰か牛耳を執る十二月、齊人、衛を伐つ。衛人、平を請ふ。公子起を立て、般師を執へて以て歸り、諸を潞に舍く。公、齊侯に會して蒙に盟ふ。孟武伯相たり。齊侯稽首す。公拜す。齊人怒る。武伯曰く、「天子に非ずんば、寡君、稽首する所無し」と。武伯、高柴に問ひて曰く、「諸侯盟ふに、誰か牛耳を執る」と。季羔曰く、「鄫衍の役には、吳の公子姑曹。發陽の役には、衛の石魋」と。武伯曰く、「然らば則ち彘なり」と。宋の皇瑗の子麇、友有り、田丙と曰ふ。而して其の兄劖般の邑を奪ひて以て之に與ふ。劖般慍りて行き、桓司馬の臣子儀克に告ぐ。子儀克、宋に適き、夫人に告げて曰く、「麇、將に桓氏を納れんとす」と。公、諸を子仲に問ふ。初め、子仲、將に杞姒の子非我を以て子と為さんとす。麇曰く、「必ず伯を立てよ。是れ良材なり」と。子仲怒りて從はず。故に對へて曰く、「右師は則ち老いたり。麇を識らざるなり」と。公、之を執ふ。皇瑗、晉に奔る。之を召す。
-
『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
-
『韓非子』說林上二十二君之に与へて以て智伯を驕らしむるに如かず。且つ君何ぞ天下を以て智氏を図るを釈てて、独り吾が国を以て智氏の質と為すや」と。君曰く、「善し」と。乃ち之に万戸の邑を与ふ。智伯大いに悦び、因りて地を趙に索む、与へず、因りて晋陽を囲む。韓・魏之に外に反し、趙氏之に内に応じ、智氏以て亡ぶ。秦の康公、台を築くこと三年。荊人兵を起こし、将に兵を以て斉を攻めんと欲す。任妄曰く、「饑は兵を召き、疾は兵を召き、労は兵を召き、乱は兵を召く。君台を築くこと三年、今荊人兵を起こして将に斉を攻めんとす、臣恐らくは其の斉を攻むるは声と為して、秦を襲ふを以て実と為さん。之に備ふるに如かず」と。東辺を戍りて、荊人行を輟む。斉、宋を攻む。宋、臧孫子をして南のかた救ひを荊に求めしむ。荊大いに説び、之を救ふことを許して甚だ勧む。臧孫子憂へて反る。其の御曰く、「救ひを索めて得たり、今子に憂色有るは何ぞや」と。臧孫子曰く、「宋は小にして斉は大なり。夫れ小宋を救ひて大斉に悪まるるは、此れ人の憂ふる所以なり。而るに荊王説ぶは、必ず以て我を堅くせんとすればなり。我堅くして斉敝るるは、荊の利とする所なり」と。臧孫子乃ち帰る。斉人、五城を宋に抜きて荊の救ひ至らず。魏の文侯、道を趙に借りて中山を攻めんとし、趙の粛侯将に許さざらんとす。趙刻曰く、「君過てり。魏、中山を攻めて取ること能はずんば、則ち魏必ず罷れん。罷るれば則ち魏軽く、魏軽ければ則ち趙重し。魏、中山を抜くとも、必ず趙を越えて中山を有つこと能はざるなり。是れ兵を用ふる者は魏にして、地を得る者は趙なり。君必ず之を許せ。之を許して大いに歓べば、彼将に君の之を利とするを知りて、必ず将に行を輟めんとす。君は之に道を借して、示すに已むを得ざるを以てするに如かず」と。鴟夷子皮、田成子に事ふ。田成子、斉を去り、走りて燕に之く。鴟夷子皮、伝を負ひて従ふ。望邑に至る。子皮曰く、「子独り涸沢の蛇を聞かざるか。沢涸るれば、蛇将に徙らんとす。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る