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史記 / 匈奴列伝

漢驃騎將軍之出代二千餘里,與左賢王接戰,漢兵得胡首虜凡七萬餘級,左賢王將皆遁走。驃騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還。是後匈奴遠遁,而幕南無王庭。漢度河自朔方以西至令居,往往通渠置田,官吏卒五六萬人,稍蠶食,地接匈奴以北。初,漢兩將軍大出圍單于,所殺虜八九萬,而漢士卒物故亦數萬,漢馬死者十餘萬。匈奴雖病,遠去,而漢亦馬少,無以復往。匈奴用趙信之計,遣使於漢,好辭請和親。天子下其議,或言和親,或言遂臣之。丞相長史任敞曰:「匈奴新破,困,宜可使爲外臣,朝請於邊。」漢使任敞於單于。單于聞敞計,大怒,留之不遣。先是漢亦有所降匈奴使者,單于亦輒留漢使相當。漢方復收士馬,會驃騎將軍去病死,於是漢久不北擊胡。數歳,伊稚斜單于立十三年死,子烏維立爲單于。是歳,漢元鼎三年也。烏維單于立,而漢天子始出巡郡縣。其後漢方南誅兩越,不擊匈奴,匈奴亦不侵入邊。烏維單于立三年,漢已滅南越,遣故太仆賀將萬五千騎出九原二千餘里,至浮苴井而還,不見匈奴一人。漢又遣故從驃侯趙破奴萬餘騎出令居數千里,至匈河水而還,亦不見匈奴一人。

新字:漢驃騎将軍之出代二千余里,与左賢王接戦,漢兵得胡首虜凡七万余級,左賢王将皆遁走。驃騎封於狼居胥山,禅姑衍,臨翰海而還。是後匈奴遠遁,而幕南無王庭。漢度河自朔方以西至令居,往往通渠置田,官吏卒五六万人,稍蠶食,地接匈奴以北。初,漢両将軍大出囲単于,所殺虜八九万,而漢士卒物故亦数万,漢馬死者十余万。匈奴雖病,遠去,而漢亦馬少,無以復往。匈奴用趙信之計,遣使於漢,好辞請和親。天子下其議,或言和親,或言遂臣之。丞相長史任敞曰:「匈奴新破,困,宜可使為外臣,朝請於辺。」漢使任敞於単于。単于聞敞計,大怒,留之不遣。先是漢亦有所降匈奴使者,単于亦輒留漢使相当。漢方復収士馬,会驃騎将軍去病死,於是漢久不北撃胡。数歳,伊稚斜単于立十三年死,子烏維立為単于。是歳,漢元鼎三年也。烏維単于立,而漢天子始出巡郡県。其後漢方南誅両越,不撃匈奴,匈奴亦不侵入辺。烏維単于立三年,漢已滅南越,遣故太仆賀将万五千騎出九原二千余里,至浮苴井而還,不見匈奴一人。漢又遣故従驃侯趙破奴万余騎出令居数千里,至匈河水而還,亦不見匈奴一人。

書き下し

漢の驃騎将軍の代より出づること二千余里、左賢王と接戦す。漢の兵胡の首虜を得ること凡そ七万余級。左賢王の将皆遁走す。驃騎狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、翰海に臨みて還る。是の後匈奴遠く遁れ、而して幕南に王庭無し。漢河を度り朔方より以西令居に至るまで、往往にして渠を通じ田を置き、官吏卒五六万人、稍く蚕食し、地は匈奴以北に接す。初め、漢の両将軍大いに出でて単于を囲み、殺虜する所八九万。而して漢の士卒の物故するも亦数万、漢の馬の死する者十余万。匈奴病むと雖も、遠く去る。而して漢も亦馬少なく、以て復た往く無し。匈奴趙信の計を用ひ、使を漢に遣はし、好辞もて和親を請ふ。天子其の議を下す。或いは和親を言ひ、或いは遂に之を臣とせよと言ふ。丞相長史任敞曰く、「匈奴新たに破れ、困しむ。宜しく外臣と為して、辺に朝請せしむべし」と。漢任敞を単于に使はす。単于敞の計を聞き、大いに怒り、之を留めて遣らず。是より先、漢も亦降る所の匈奴の使者有り。単于も亦輒ち漢の使を留めて相当たらしむ。漢方に復た士馬を収む。会々驃騎将軍去病死す。是に於て漢久しく北のかた胡を撃たず。数歳にして、伊稚斜単于立ちて十三年にして死す。子烏維立ちて単于と為る。是の歳は、漢の元鼎三年なり。烏維単于立ち、而して漢の天子始めて出でて郡県を巡る。其の後漢方に南のかた両越を誅し、匈奴を撃たず。匈奴も亦辺に侵入せず。烏維単于立ちて三年、漢已に南越を滅ぼし、故の太僕賀をして万五千騎を将ゐて九原より出づること二千余里、浮苴井に至りて還らしむ。匈奴の一人をも見ず。漢又故の従驃侯趙破奴をして万余騎もて令居より出づること数千里、匈河水に至りて還らしむ。亦匈奴の一人をも見ず。

現代語訳

漢の驃騎将軍は代から二千里余り出撃して左賢王と交戦し、漢の兵は匈奴の首や捕虜を合わせて七万余り得た。左賢王の将たちは皆逃げ去った。驃騎将軍は狼居胥山で天を祭る封の儀式を行い、姑衍山で地を祭る禅の儀式を行い、翰海(北の大湖)に臨んで引き返した。この後、匈奴は遠くへ逃げ、砂漠の南には単于の本営がなくなった。漢は黄河を渡り、朔方から西の令居に至るまで、あちこちに用水路を通して屯田を設け、役人と兵士五、六万人を置いて、少しずつ土地を侵食し、その地は匈奴の北方と接するほどになった。これより前、漢の二人の将軍が大軍を出して単于を包囲し、八、九万人を殺したり捕らえたりしたが、漢の兵士で死んだ者も数万人、死んだ馬は十万頭余りに上った。匈奴は痛手を受けたとはいえ遠くへ去り、漢もまた馬が少なくなって、再び攻めて行くことができなかった。匈奴は趙信の計略を用いて漢に使者を送り、丁重な言葉で和親を願い出た。天子がその件を議論にかけると、和親すべきだという者もあれば、この機に臣従させるべきだという者もあった。丞相長史の任敞は言った。「匈奴は破れたばかりで苦しんでいる。外臣(外藩の臣下)として、辺境で朝見させるべきである」。漢は任敞を単于のもとに使者として送った。単于は任敞の提案を聞いて大いに怒り、任敞を引き留めて帰さなかった。これより前、漢でも降伏してきた匈奴の使者を留めていたので、単于もそのたびに漢の使者を同じ数だけ留めていた。漢はちょうど兵と馬を集め直そうとしていたが、たまたま驃騎将軍霍去病が死んだ。そのため漢は長い間北の匈奴を攻撃しなかった。数年して、伊稚斜単于は即位して十三年で死に、子の烏維が立って単于となった。この年は漢の元鼎三年である。烏維単于が即位すると、漢の天子は初めて郡県の巡幸に出た。その後、漢はちょうど南の両越(南越・東越)を討っていて、匈奴を攻撃しなかった。匈奴もまた辺境に侵入しなかった。烏維単于が即位して三年目、漢はすでに南越を滅ぼしていたので、もとの太僕の公孫賀に一万五千騎を率いさせて九原から二千里余り出撃させ、浮苴井まで行って引き返させたが、匈奴を一人も見なかった。漢はまた、もとの従驃侯趙破奴に一万騎余りを率いさせて令居から数千里出撃させ、匈河水まで行って引き返させたが、やはり匈奴を一人も見なかった。

解説

霍去病の最大の戦果と、その代償、そして戦後の情勢を記した段です。霍去病は代から二千里余り進んで左賢王を破り、七万余りの戦果を上げ、狼居胥山で天を祭る封禅の儀式を行って翰海に臨みました。以後、砂漠の南に匈奴の王庭はなくなり、漢は朔方から令居まで用水路と屯田を広げていきます。しかし司馬遷は、この大勝の陰で漢の兵も数万人が死に、馬は十万頭余りを失い、再び遠征できなくなったと冷静に記しています。勝利にも大きな代価があったのです。匈奴が和親を申し出ると、漢はこの機に臣従させようとして任敞を送りますが、単于は激怒して使者を拘留し、互いに使者を留め合う状態が続きました。霍去病の死後、漢は長く北伐を行わず、南越を滅ぼした後に出した遠征軍は匈奴の姿を一人も見ずに帰ります。勝ちに乗じて相手に屈服を迫ると、かえって関係が硬直することがあります。勝利の代償と引き際を冷静に見極めることが大切です。

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