春秋左氏伝 / 昭公九年 屠蒯、酒を酌む
夏。四月。陳災。鄭裨灶曰。五年。陳將復封。封五十二年而遂亡。子產問其故。對曰。陳。水屬也。火。水妃也。而楚所相也。今火出而火陳。逐楚而建陳也。妃以五成。故曰五年。歲五及鶉火。而後陳卒亡。楚克有之。天之道也。故曰五十二年。晉荀盈如齊逆女。還。六月。卒于戲陽。殯于絳。未葬。晉侯飲酒樂。膳宰屠蒯趨入。請佐公使尊。許之。而遂酌以飲。工曰。女為君耳。將司聰也。辰在子卯。謂之疾日。君徹宴樂。學人舍業。為疾故也。君之卿佐。是謂股肱。股肱或虧。何痛如之。女弗聞而樂。是不聰也。又飲外嬖嬖叔曰。女為君目。將司明也。服以旌禮。禮以行事。事有其物。物有其容。今君之容。非其物也。而女不見。是不明也。亦自飲也。曰。味以行气。气以實志。志以定言。言以出令。臣實司味。二御失官。而君弗命。臣之罪也。公說。徹酒。初。公欲廢知氏而立其外嬖。為是悛而止。秋。八月。使荀躒佐下軍以說焉。孟僖子如齊。殷聘禮也。冬。築郎囿。書時也。季平子欲其速成也。叔孫昭子曰。詩曰。經始勿亟。庶民子來。焉用速成。其以勦民也。無囿猶可。無民其可乎。
新字:夏。四月。陳災。鄭裨灶曰。五年。陳将復封。封五十二年而遂亡。子産問其故。対曰。陳。水属也。火。水妃也。而楚所相也。今火出而火陳。逐楚而建陳也。妃以五成。故曰五年。歳五及鶉火。而後陳卒亡。楚克有之。天之道也。故曰五十二年。晋荀盈如斉逆女。還。六月。卒于戯陽。殯于絳。未葬。晋侯飲酒楽。膳宰屠蒯趨入。請佐公使尊。許之。而遂酌以飲。工曰。女為君耳。将司聰也。辰在子卯。謂之疾日。君徹宴楽。学人舎業。為疾故也。君之卿佐。是謂股肱。股肱或虧。何痛如之。女弗聞而楽。是不聰也。又飲外嬖嬖叔曰。女為君目。将司明也。服以旌礼。礼以行事。事有其物。物有其容。今君之容。非其物也。而女不見。是不明也。亦自飲也。曰。味以行气。气以実志。志以定言。言以出令。臣実司味。二御失官。而君弗命。臣之罪也。公説。徹酒。初。公欲廃知氏而立其外嬖。為是悛而止。秋。八月。使荀躒佐下軍以説焉。孟僖子如斉。殷聘礼也。冬。築郎囿。書時也。季平子欲其速成也。叔孫昭子曰。詩曰。経始勿亟。庶民子来。焉用速成。其以勦民也。無囿猶可。無民其可乎。
書き下し
夏、四月、陳に災あり。鄭の裨灶曰く、「五年にして、陳將に復た封ぜられんとす。封ぜられて五十二年にして遂に亡びん」と。子產其の故を問ふ。對へて曰く、「陳は水の屬なり。火は水の妃なり。而して楚の相る所なり。今火出でて陳に火あり。楚を逐ひて陳を建つるなり。妃は五を以って成る。故に五年と曰ふ。歲五たび鶉火に及びて、而る後に陳卒に亡び、楚克く之を有たん。天の道なり。故に五十二年と曰ふ」と。晉の荀盈齊に如きて女を逆ふ。還りて、六月、戲陽に卒す。絳に殯す。未だ葬らず。晉侯酒を飲みて樂しむ。膳宰屠蒯趨り入り、公を佐けて尊を使はんことを請ふ。之を許す。而して遂に酌みて以って工に飲ましめて曰く、「女は君の耳為り。將に聰を司らんとす。辰子卯に在る、之を疾日と謂ふ。君は宴樂を徹し、學人は業を舍つ。疾の為の故なり。君の卿佐、是れを股肱と謂ふ。股肱或いは虧く、何の痛みか之に如かん。女聞かずして樂す、是れ聰ならざるなり」と。又外嬖嬖叔に飲ましめて曰く、「女は君の目為り。將に明を司らんとす。服は以って禮を旌し、禮は以って事を行ひ、事には其の物有り、物には其の容有り。今君の容は、其の物に非ず。而るに女見ず、是れ明ならざるなり」と。亦た自ら飲みて曰く、「味は以って气を行り、气は以って志を實たし、志は以って言を定め、言は以って令を出だす。臣實に味を司る。二御官を失ひて、君命ぜざるは、臣の罪なり」と。公說び、酒を徹す。初め、公知氏を廢して其の外嬖を立てんと欲す。是が為に悛めて止む。秋、八月、荀躒をして下軍を佐けしめ、以って焉に說く。孟僖子齊に如く、殷聘にして、禮なり。冬、郎囿を築く。時を書すなり。季平子其の速やかに成らんことを欲す。叔孫昭子曰く、「詩に曰く、『經始亟かにすること勿かれ、庶民子のごとく來たる』と。焉んぞ速やかに成すを用ゐん。其れ以って民を勦さん。囿無きは猶ほ可なり。民無くして其れ可ならんや」と。
現代語訳
夏四月、陳で火災があった。鄭の裨灶(ひそう、鄭の天文家)が言った。「五年後に陳は再び国として封ぜられる。封ぜられて五十二年後についに滅びる」。子産がその理由を尋ねた。裨灶は答えた。「陳は(五行で)水に属します。火は水の配偶です。そして火は楚がつかさどるものです。いま火の星(大火)が現れて陳に火災が起きました。これは楚を追い払って陳を建てる兆しです。配偶は五によって成ります。それゆえ五年と言うのです。歳星(木星)が五たび鶉火に巡ってきたのち、陳はついに滅び、楚がこれを領有します。それが天の道です。それゆえ五十二年と言うのです」。晋の荀盈(知悼子、晋の卿)は斉に行って晋君の夫人を迎えた。帰途、六月、戯陽で死んだ。都の絳で殯(かりもがり)をしたが、まだ葬っていなかった。晋侯(平公)は酒を飲んで音楽を楽しんでいた。料理長の屠蒯(とかい)が小走りに入ってきて、公を助けて酒を注ぐ役をしたいと願い出た。公は許した。屠蒯はそのまま酒を注いで楽人に飲ませ、言った。「おまえは君の耳である。聡く聞くことをつかさどるはずだ。子の日と卯の日(殷の紂王と夏の桀王が滅んだ日)は疾日(忌み日)といい、君は宴楽をやめ、学ぶ者は稽古を休む。忌むべきことがあるからである。君の卿や補佐の臣は股肱という。股肱が欠けたなら、これに勝る痛みがあろうか。おまえはそれを聞いていないかのように音楽を奏でている。これは聡くないということだ」。また外の寵臣の嬖叔に飲ませて言った。「おまえは君の目である。明らかに見ることをつかさどるはずだ。衣服は礼を表し、礼によって事を行い、事にはそれにふさわしい物があり、物にはそれにふさわしい姿がある。いま君の姿は、この時にふさわしいものではない。それなのにおまえは見ていない。これは明らかでないということだ」。そして自分も飲んで言った。「味は気をめぐらせ、気は志を満たし、志は言葉を定め、言葉は命令を生みます。私は味をつかさどる者です。二人の側近が職務を怠ったのに、君がそれを咎めなかったのは、(食を通じて君の気と志を整えるべき)私の罪です」。公は喜んで、酒宴をやめた。これより前、公は知氏(荀盈の家)を廃して、自分の寵臣を立てようと考えていた。この一件で考えを改め、やめた。秋八月、荀躒(荀盈の子)を下軍の佐とし、それによって知氏を慰めた。孟僖子が斉に行ったのは、殷聘(久しぶりの盛大な聘問)であり、礼にかなっている。冬、郎に囿(苑囿)を築いた。『春秋』がこれを記したのは、農閑期の時節にかなっていたことを示すためである。季平子(魯の執政)はそれを早く完成させようとした。叔孫昭子は言った。「『詩』に『造営を始めても急がせるな、庶民は子が親のもとに来るように集まってくる』とある。どうして早く完成させる必要があろうか。それでは民を疲れさせることになる。囿がなくてもかまわないが、民がいなくてかまうものか」。
解説
この章句が説くこと
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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