春秋左氏伝 / 昭公八年 石言う
八年春。石言于晉魏榆。晉侯問於師曠曰。石何故言。對曰石不能言。或馮焉。不然。民聽濫也。抑臣又聞之曰。作事不時。怨讟動于民。則有非言之物而言。今宮室崇侈。民力彫盡。怨讟並作。莫保其性。石言不亦宜乎。於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰。子野之言君子哉。君子之言。信而有徵。故怨遠於其身。小人之言僭而無徵。故怨咎及之。詩曰。哀哉不能言。匪舌是出。唯躬是瘁。哿矣能言。巧言如流。俾躬處休。其是之謂乎。是宮也成。諸侯必叛。君必有咎。夫子知之矣。陳哀公元妃鄭姬生悼大子偃師。二妃生公子留。下妃生公子勝。二妃嬖。留有寵。屬諸司徒招與公子過。哀公有廢疾。三月甲申。公子招。公子過。殺悼大子偃師而立公子留。
新字:八年春。石言于晋魏榆。晋侯問於師曠曰。石何故言。対曰石不能言。或馮焉。不然。民聴濫也。抑臣又聞之曰。作事不時。怨讟動于民。則有非言之物而言。今宮室崇侈。民力彫尽。怨讟並作。莫保其性。石言不亦宜乎。於是晋侯方築虒祁之宮。叔向曰。子野之言君子哉。君子之言。信而有徴。故怨遠於其身。小人之言僭而無徴。故怨咎及之。詩曰。哀哉不能言。匪舌是出。唯躬是瘁。哿矣能言。巧言如流。俾躬処休。其是之謂乎。是宮也成。諸侯必叛。君必有咎。夫子知之矣。陳哀公元妃鄭姫生悼大子偃師。二妃生公子留。下妃生公子勝。二妃嬖。留有寵。属諸司徒招与公子過。哀公有廃疾。三月甲申。公子招。公子過。殺悼大子偃師而立公子留。
書き下し
八年、春、石晉の魏榆に言ふ。晉侯師曠に問ひて曰く、「石何の故に言ふ」と。對へて曰く、「石は言ふ能はず。或いは焉に馮る。然らずんば、民の聽濫るるなり。抑々臣又之を聞けり、曰く、『事を作すこと時ならず、怨讟民に動けば、則ち言ふに非ざるの物にして言ふこと有り』と。今宮室崇侈にして、民力彫盡し、怨讟並び作り、其の性を保つ莫し。石言ふも亦た宜ならずや」と。是に於いて晉侯方に虒祁の宮を築く。叔向曰く、「子野の言は君子なるかな。君子の言は、信にして徵有り。故に怨其の身に遠ざかる。小人の言は僭にして徵無し。故に怨咎之に及ぶ。詩に曰く、『哀しいかな言ふ能はず、匪れ舌是れ出だすのみ、唯だ躬是れ瘁る。哿いかな能く言ふ、巧言流るるが如く、躬をして休に處らしむ』と。其れ是を之れ謂ふか。是の宮や成らば、諸侯必ず叛き、君必ず咎有らん。夫子之を知れり」と。陳の哀公の元妃鄭姬悼大子偃師を生み、二妃公子留を生み、下妃公子勝を生む。二妃嬖せられ、留寵有り。諸を司徒招と公子過とに屬す。哀公廢疾有り。三月甲申、公子招・公子過、悼大子偃師を殺して公子留を立つ。
現代語訳
八年春、晋の魏楡で石がものを言った。晋侯(平公)が師曠(しこう、晋の盲目の楽師)に尋ねた。「石はなぜものを言ったのか」。師曠は答えた。「石はものを言うことができません。何かが石に取り憑いたのでしょう。そうでなければ、民の聞き違いです。ただ、私はこうも聞いております。『時節をわきまえずに事業を起こし、怨みと非難が民の間にわき起これば、ものを言うはずのない物がものを言うことがある』と。いま宮殿は高く贅沢で、民の力は尽き果て、怨みと非難が一斉に起こり、誰も暮らしを保てません。石がものを言うのも当然ではありませんか」。このとき晋侯はちょうど虒祁(しき)の宮殿を築いていた。叔向(羊舌肸、晋の大夫)は言った。「子野(師曠の字)の言葉は君子のものだ。君子の言葉は誠実で根拠がある。だから怨みがその身から遠ざかる。小人の言葉はでたらめで根拠がない。だから怨みと咎めがその身に及ぶ。『詩』に『悲しいかな、ものを言えない者は、言葉がただ舌先から出るばかりで、身を疲れさせるだけだ。よいかな、ものを言える者は、巧みな言葉が流れるように出て、身を安らかな所に置く』とある。これはこのことを言うのであろう。この宮殿ができあがれば、諸侯は必ず背き、君には必ず災いがある。あの方(師曠)はそれを知っているのだ」。陳の哀公の第一夫人鄭姫は悼太子偃師を生み、第二夫人は公子留を生み、下位の夫人は公子勝を生んだ。第二夫人は寵愛され、公子留も寵愛された。哀公は留を司徒の招(哀公の弟)と公子過に託した。哀公は治らない病にかかっていた。三月甲申の日、公子招と公子過は悼太子偃師を殺して公子留を立てた。
解説
この章句が説くこと
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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