春秋左氏伝 / 昭公六年 人の僻に效はず
六月。丙戌。鄭災。楚公子棄疾如晉。報韓子也。過鄭。鄭罕虎。公孫僑。游吉。從鄭伯以勞諸柤。辭不敢見。固請見之。見如見王。以其乘馬八匹。私面見子皮。如上卿。以馬六匹。見子產以馬四匹。見子大叔以馬二匹。禁芻牧採樵。不入田。不樵樹。不采蓺。不抽屋。不強匄。誓曰。有犯命者。君子廢。小人降。舍不為暴。主不慁賓。往來如是。鄭三卿皆知其將為王也。韓宣子之適楚也。楚人弗逆。公子棄疾及晉竟。晉侯將亦弗逆。叔向曰。楚辟我衷。若何效辟。詩曰。爾之教矣。民胥效矣。從我而已。焉用效人之辟。書曰。聖作則。無寧以善人為則。而則人之辟乎。匹夫為善。民猶則之。況國君乎。晉侯說。乃逆之。
新字:六月。丙戌。鄭災。楚公子棄疾如晋。報韓子也。過鄭。鄭罕虎。公孫僑。游吉。従鄭伯以労諸柤。辞不敢見。固請見之。見如見王。以其乗馬八匹。私面見子皮。如上卿。以馬六匹。見子産以馬四匹。見子大叔以馬二匹。禁芻牧採樵。不入田。不樵樹。不采蓺。不抽屋。不強匄。誓曰。有犯命者。君子廃。小人降。舎不為暴。主不慁賓。往来如是。鄭三卿皆知其将為王也。韓宣子之適楚也。楚人弗逆。公子棄疾及晋竟。晋侯将亦弗逆。叔向曰。楚辟我衷。若何効辟。詩曰。爾之教矣。民胥効矣。従我而已。焉用効人之辟。書曰。聖作則。無寧以善人為則。而則人之辟乎。匹夫為善。民猶則之。況国君乎。晋侯説。乃逆之。
書き下し
六月、丙戌、鄭災あり。楚の公子棄疾晉に如く。韓子に報ゆるなり。鄭を過ぐ。鄭の罕虎・公孫僑・游吉、鄭伯に從ひて以て諸を柤に勞ふ。辭して敢へて見えず。固く請ひて之に見ゆ。見ゆること王に見ゆるが如し。其の乘馬八匹を以て私かに面(まみ)ゆ。子皮に見ゆること上卿の如く、馬六匹を以てす。子產に見ゆるに馬四匹を以てし、子大叔に見ゆるに馬二匹を以てす。芻牧採樵を禁じ、田に入らず、樹を樵らず、蓺を采らず、屋を抽かず、強ひて匄(こ)はず。誓ひて曰く、「命を犯す者有らば、君子は廢し、小人は降さん」と。舍りて暴を為さず、主は賓を慁(わづら)はさず。往來是くの如し。鄭の三卿皆其の將に王と為らんとするを知る。韓宣子の楚に適くや、楚人逆へず。公子棄疾晉の竟に及ぶ。晉侯將に亦た逆へざらんとす。叔向曰く、「楚は辟(よこしま)にして我は衷(ただ)し。若何ぞ辟に效はん。詩に曰く、『爾の教ふる、民胥(あひ)效ふ』と。我に從ふのみ。焉んぞ人の辟に效ふを用ゐん。書に曰く、『聖は則を作す』と。寧ろ善人を以て則と為す無くして、人の辟に則らんや。匹夫善を為すも、民猶ほ之に則る、況んや國君をや」と。晉侯說(よろこ)び、乃ち之を逆ふ。
現代語訳
六月丙戌の日、鄭で火災があった。楚の公子棄疾が晋へ行った。韓子(韓起)の来訪に答礼するためである。途中で鄭を通った。鄭の罕虎(子皮)・公孫僑(子産)・游吉(子大叔)が鄭伯に従って、柤でねぎらった。棄疾は辞退して、あえて会おうとしなかったが、鄭が強く願ったので会った。鄭伯に会うときは楚王に会うときのように恭しくし、自分の乗る馬八頭を献じて私的に面会した。子皮には上卿に対する礼で会い、馬六頭を贈った。子産には馬四頭、子大叔には馬二頭を贈って会った。部下には、秣を刈ること、家畜を放牧すること、薪を採ることを禁じ、田畑に入らず、木を切らず、作物を摘まず、家屋から材を抜き取らず、無理に物をねだらないよう命じた。そして誓った。「命令に背く者があれば、身分ある者は罷免し、身分の低い者は降格する」。宿営しても乱暴をはたらかず、迎える側の主人も客に気を遣わずに済んだ。往きも帰りもこのようであった。鄭の三卿はみな、棄疾がいずれ王になるだろうと悟った。先に韓宣子が楚へ行ったとき、楚の人々は国境で出迎えをしなかった。公子棄疾が晋の国境に着くと、晋侯もやはり出迎えまいとした。叔向が言った。「楚は道に外れており、我々は正しいのです。どうして道に外れたことをまねるのですか。詩に『あなたが教えれば、民はみなそれに倣う』とあります。人々は我々に従えばよいのであって、どうして他人の外れたやり方をまねる必要がありましょう。書に『聖人は手本を作る』とあります。善い人を手本とせずに、他人の外れたやり方を手本にするのですか。一介の男が善を行ってさえ、民はそれを手本にします。まして国君ならなおさらです」。晋侯は喜び、棄疾を出迎えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 晋世家乃ち止み、遂に行く。曹を過ぐ。曹の共公礼せず、重耳の駢脅を観んと欲す。曹の大夫釐負羈曰く、「晋の公子は賢にして、又同姓なり。窮して来たりて我を過ぐ。奈何ぞ礼せざる」と。共公其の謀に従はず。負羈乃ち私かに重耳に食を遺り、璧を其の下に置く。重耳其の食を受け、其の璧を還す。去りて宋を過ぐ。宋の襄公新たに兵を楚に困しめられ、泓に傷つく。重耳の賢なるを聞き、乃ち国礼を以て重耳に礼す。宋の司馬公孫固咎犯に善く、曰く、「宋は小国にして新たに困しむ。以て入らんことを求むるに足らず。更に大国に之け」と。乃ち去る。鄭を過ぐ。鄭の文公礼せず。鄭の叔瞻其の君を諫めて曰く、「晋の公子は賢にして、其の従者は皆国の相なり。且つ又同姓なり。鄭の出は厲王よりし、晋の出は武王よりす」と。鄭君曰く、「諸侯の亡公子の此を過ぐる者衆し。安んぞ尽く礼すべけんや」と。叔瞻曰く、「君礼せずんば、之を殺すに如かず。且に後に国の患と為らんとす」と。鄭君聴かず。重耳去りて楚に之く。楚の成王適諸侯の礼を以て之を待す。重耳謝して敢て当たらず。趙衰曰く、「子亡げて外に在ること十余年、小国すら子を軽んず。況んや大国をや。今楚は大国にして固く子を遇す。子其れ譲ること毋かれ。此れ天子を開くなり」と。遂に客礼を以て之に見ゆ。成王厚く重耳を遇す。重耳甚だ卑くす。成王曰く、「子即し国に反らば、何を以て寡人に報いん」と。重耳曰く、「羽毛歯角玉帛は、君王の余す所なり。未だ報ゆる所以を知らず」と。王曰く、「然りと雖も、何を以て不穀に報いん」と。重耳曰く、「即し已むを得ずして、君王と兵車を以て平原広沢に会せば、請ふ王を辟くること三舎ならん」と。楚の将子玉怒りて曰く、「王晋の公子を遇すること至って厚し。今重耳の言孫(したが)はず。請ふ之を殺さん」と。成王曰く、「晋の公子は賢にして外に困しむこと久し。従者は皆国器なり。此れ天の置く所なり。庸ぞ殺すべけんや。且つ言何を以て之を易へん」と。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 子産、邑を辞す鄭伯陳に入るの功を賞す。三月、甲寅、朔、子展を享し、之に先路と三命の服を賜ひ、先づ八邑。子產に次路と再命の服を賜ひ、先づ六邑。子產邑を辭して曰く、「上より以下、隆殺するに兩を以てするは、禮なり。臣の位は四に在り。且つ子展の功なり。臣敢へて賞禮に及ばず。請ふ邑を辭せん」と。公固く之を予ふ。乃ち三邑を受く。公孫揮曰く、「子產其れ將に政を知らんとす。讓りて禮を失はず」と。晉人孫氏の故の為に諸侯を召し、將に以て衛を討たんとす。夏、中行穆子來聘す。公を召すなり。
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史記 張丞相列伝申屠丞相嘉は、梁の人なり。材官蹶張(けつちやう)を以て高帝に従ひて項籍を撃ち、遷りて隊率と為る。従ひて黥布の軍を撃ち、都尉と為る。孝恵の時、淮陽の守と為る。孝文帝の元年、故の吏士二千石の高皇帝に従ひし者を挙げて、悉く以て関内侯と為し、邑を食む者二十四人、而して申屠嘉は食邑五百戸。張蒼已に丞相と為り、嘉遷りて御史大夫と為る。張蒼相を免ぜられ、孝文帝、皇后の弟竇広国を用ひて丞相と為さんと欲して曰く、「恐らくは天下、吾を以て広国に私すとせん」と。広国は賢にして行ひ有り。故に之を相とせんと欲す。之を念ふこと久しくして不可なりとす。而して高帝の時の大臣又皆多く死し、余は見(げん)に可なる者無し。乃ち御史大夫嘉を以て丞相と為し、故の邑に因りて封じて故安侯と為す。嘉は人と為り廉直にして、門に私謁を受けず。是の時太中大夫鄧通方に愛幸を隆(さか)んにし、賞賜巨万を累ぬ。文帝嘗て通の家に燕飲す。其の寵是くの如し。是の時丞相入朝し、而して通、上の傍らに居り、怠慢の礼有り。丞相事を奏し畢りて、因りて言ひて曰く、「陛下臣を愛幸せば、則ち之を富貴にせよ。朝廷の礼に至りては、以て粛ならざるべからず」と。上曰く、「君言ふ勿かれ。吾之を私す」と。朝を罷めて府中に坐し、嘉、檄を為りて鄧通を召して丞相府に詣らしむ。来たらずんば、且に通を斬らんとす。通恐れて、入りて文帝に言ふ。文帝曰く、「汝第(ただ)往け。吾今人をして若(なんぢ)を召さしめん」と。通丞相府に至り、冠を免(ぬ)ぎ、徒跣(とせん)して、頓首して謝す。嘉坐すること自如として、故(ことさら)に礼を為さず。責めて曰く、「夫れ朝廷は、高皇帝の朝廷なり。通は小臣にして、殿上に戯る。大不敬なり。当に斬るべし。吏今之を行ひて斬れ」と。通頓首し、首尽く血を出だせども、解けず。文帝、丞相已に通を困しむと度り、使者をして節を持して通を召さしめ、而して丞相に謝して曰く、「此れ吾が弄臣なり。君之を釈せ」と。
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