史記 / 晋世家
乃止,遂行。過曹,曹共公不禮,欲觀重耳駢脅。曹大夫釐負羈曰:「晉公子賢,又同姓,窮來過我,柰何不禮!」共公不從其謀。負羈乃私遺重耳食,置璧其下。重耳受其食,還其璧。去,過宋。宋襄公新困兵於楚,傷於泓,聞重耳賢,乃以國禮禮於重耳。宋司馬公孫固善於咎犯,曰:「宋小國新困,不足以求入,更之大國。」乃去。過鄭,鄭文公弗禮。鄭叔瞻諫其君曰:「晉公子賢,而其從者皆國相,且又同姓。鄭之出自厲王,而晉之出自武王。」鄭君曰:「諸侯亡公子過此者衆,安可盡禮!」叔瞻曰:「君不禮,不如殺之,且後爲國患。」鄭君不聽。重耳去之楚,楚成王以適諸侯禮待之,重耳謝不敢當。趙衰曰:「子亡在外十餘年,小國輕子,況大國乎?今楚大國而固遇子,子其毋讓,此天開子也。」遂以客禮見之。成王厚遇重耳,重耳甚卑。成王曰:「子卽反國,何以報寡人?」重耳曰:「羽毛齒角玉帛,君王所餘,未知所以報。」王曰:「雖然,何以報不穀?」重耳曰:「卽不得已,與君王以兵車會平原廣澤,請辟王三舍。」楚將子玉怒曰:「王遇晉公子至厚,今重耳言不孫,請殺之。」成王曰:「晉公子賢而困於外久,從者皆國器,此天所置,庸可殺乎?且言何以易之!」
新字:乃止,遂行。過曹,曹共公不礼,欲観重耳駢脅。曹大夫釐負羈曰:「晋公子賢,又同姓,窮来過我,柰何不礼!」共公不従其謀。負羈乃私遺重耳食,置璧其下。重耳受其食,還其璧。去,過宋。宋襄公新困兵於楚,傷於泓,聞重耳賢,乃以国礼礼於重耳。宋司馬公孫固善於咎犯,曰:「宋小国新困,不足以求入,更之大国。」乃去。過鄭,鄭文公弗礼。鄭叔瞻諫其君曰:「晋公子賢,而其従者皆国相,且又同姓。鄭之出自厲王,而晋之出自武王。」鄭君曰:「諸侯亡公子過此者衆,安可尽礼!」叔瞻曰:「君不礼,不如殺之,且後為国患。」鄭君不聴。重耳去之楚,楚成王以適諸侯礼待之,重耳謝不敢当。趙衰曰:「子亡在外十余年,小国軽子,況大国乎?今楚大国而固遇子,子其毋譲,此天開子也。」遂以客礼見之。成王厚遇重耳,重耳甚卑。成王曰:「子即反国,何以報寡人?」重耳曰:「羽毛歯角玉帛,君王所余,未知所以報。」王曰:「雖然,何以報不穀?」重耳曰:「即不得已,与君王以兵車会平原広沢,請辟王三舎。」楚将子玉怒曰:「王遇晋公子至厚,今重耳言不孫,請殺之。」成王曰:「晋公子賢而困於外久,従者皆国器,此天所置,庸可殺乎?且言何以易之!」
書き下し
乃ち止み、遂に行く。曹を過ぐ。曹の共公礼せず、重耳の駢脅を観んと欲す。曹の大夫釐負羈曰く、「晋の公子は賢にして、又同姓なり。窮して来たりて我を過ぐ。奈何ぞ礼せざる」と。共公其の謀に従はず。負羈乃ち私かに重耳に食を遺り、璧を其の下に置く。重耳其の食を受け、其の璧を還す。去りて宋を過ぐ。宋の襄公新たに兵を楚に困しめられ、泓に傷つく。重耳の賢なるを聞き、乃ち国礼を以て重耳に礼す。宋の司馬公孫固咎犯に善く、曰く、「宋は小国にして新たに困しむ。以て入らんことを求むるに足らず。更に大国に之け」と。乃ち去る。鄭を過ぐ。鄭の文公礼せず。鄭の叔瞻其の君を諫めて曰く、「晋の公子は賢にして、其の従者は皆国の相なり。且つ又同姓なり。鄭の出は厲王よりし、晋の出は武王よりす」と。鄭君曰く、「諸侯の亡公子の此を過ぐる者衆し。安んぞ尽く礼すべけんや」と。叔瞻曰く、「君礼せずんば、之を殺すに如かず。且に後に国の患と為らんとす」と。鄭君聴かず。重耳去りて楚に之く。楚の成王適諸侯の礼を以て之を待す。重耳謝して敢て当たらず。趙衰曰く、「子亡げて外に在ること十余年、小国すら子を軽んず。況んや大国をや。今楚は大国にして固く子を遇す。子其れ譲ること毋かれ。此れ天子を開くなり」と。遂に客礼を以て之に見ゆ。成王厚く重耳を遇す。重耳甚だ卑くす。成王曰く、「子即し国に反らば、何を以て寡人に報いん」と。重耳曰く、「羽毛歯角玉帛は、君王の余す所なり。未だ報ゆる所以を知らず」と。王曰く、「然りと雖も、何を以て不穀に報いん」と。重耳曰く、「即し已むを得ずして、君王と兵車を以て平原広沢に会せば、請ふ王を辟くること三舎ならん」と。楚の将子玉怒りて曰く、「王晋の公子を遇すること至って厚し。今重耳の言孫(したが)はず。請ふ之を殺さん」と。成王曰く、「晋の公子は賢にして外に困しむこと久し。従者は皆国器なり。此れ天の置く所なり。庸ぞ殺すべけんや。且つ言何を以て之を易へん」と。
現代語訳
重耳は怒りを収め、一行はそのまま旅を続けた。曹を通ったとき、曹の共公は礼を尽くさず、重耳のあばら骨がつながっている(駢脅)のを覗き見ようとした。曹の大夫の釐負羈は言った。「晋の公子は賢く、しかもわが国と同姓だ。困窮してわが国に立ち寄ったのに、どうして礼を尽くさないのか」。共公はその言葉に従わなかった。釐負羈はひそかに重耳に食べ物を贈り、その下に璧(玉の円板)を忍ばせた。重耳は食べ物は受け取ったが、璧は返した。曹を去って宋に立ち寄った。宋の襄公は楚との戦いで苦しめられ、泓水で傷を負ったばかりであったが、重耳が賢いと聞いて、国賓の礼でもてなした。宋の司馬の公孫固は咎犯と親しく、こう言った。「宋は小国で、しかも敗れたばかりだ。帰国の助けを求めるには足りない。大国へ行くがよい」。そこで一行は宋を去った。鄭を通ったが、鄭の文公は礼を尽くさなかった。鄭の叔瞻は君主を諫めて言った。「晋の公子は賢く、従者はみな一国の宰相になれる人物だ。しかも同姓だ。鄭は周の厲王から出た家、晋は武王から出た家なのだ」。鄭君は言った。「国を追われてここを通る諸侯の公子は大勢いる。いちいち礼を尽くしてなどいられない」。叔瞻は言った。「礼を尽くさないのなら、いっそ殺したほうがよい。さもなければ後で国の災いになる」。鄭君は聞き入れなかった。重耳は鄭を去って楚に行った。楚の成王は、諸侯と対等の礼で重耳をもてなそうとした。重耳は恐縮して辞退した。趙衰は言った。「あなたは国外を逃れ回って十数年になる。小国でさえあなたを軽んじてきた。まして大国ならなおさらだ。いま大国の楚があなたを手厚く遇しようとしている。辞退してはいけない。これは天があなたのために道を開いているのだ」。そこで賓客の礼で成王に会った。成王は重耳を手厚くもてなし、重耳はたいへん謙虚に振る舞った。成王は言った。「あなたがもし国に帰れたら、私にどう報いてくれるか」。重耳は言った。「鳥の羽、獣の毛、象牙や犀角、玉や絹は、王の国にあり余っている。何でお返しすればよいかわからない」。王は言った。「それはそうだが、それでも何で私に報いてくれるのか」。重耳は言った。「もしやむを得ず、平原や沼沢の地で戦車を率いて王と相まみえることになったら、王に対して三舎(一舎は軍の一日の行程で三十里)退こう」。楚の将軍の子玉は怒って言った。「王は晋の公子をこの上なく手厚くもてなしておられるのに、重耳の言葉は不遜だ。どうか殺させてほしい」。成王は言った。「晋の公子は賢く、長く国外で苦労してきた。従者たちもみな国を担う器だ。これは天が彼をこのように置いたのだ。どうして殺すことなどできよう。それに、あのように言う以外に何と答えられようか」。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家文公の弟叔詹曰く、「重耳は賢なり。且つ又同姓なり。窮して君に過る。礼無かるべからず」と。文公曰く、「諸侯の亡公子の過る者多し。安んぞ能く尽く之を礼せん」と。詹曰く、「君如し礼せずんば、遂に之を殺せ。殺さずして、即し国に反らしめば、鄭の憂ひと為らん」と。文公聴かず。三十七年春、晋の公子重耳国に反りて立つ、是を文公と為す。秋、鄭滑に入る。滑命を聴き、已にして反りて衛に与す。是に於て鄭滑を伐つ。周の襄王、伯服をして滑の為に請はしむ。鄭の文公、恵王の亡げて櫟に在りしとき、文公の父厲公之を入れしに、恵王厲公に爵禄を賜はざるを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に襄王の請ひを聴かずして伯服を囚ふ。王怒り、翟人と鄭を伐つも、克たず。冬、翟、襄王を攻伐す。襄王出でて鄭に奔る。鄭の文公、王を氾に居らしむ。三十八年、晋の文公、襄王を成周に入る。四十一年、楚を助けて晋を撃つ。晋の文公の過りしとき礼無かりしより、故に晋に背きて楚を助く。四十三年、晋の文公、秦の穆公と共に鄭を囲む。其の楚を助けて晋を攻めし者、及び文公の過りし時の無礼を討つなり。初め、鄭の文公に三夫人有り、寵子五人、皆罪を以て蚤く死す。公怒り、溉く群公子を逐ふ。子蘭晋に奔り、晋の文公に従ひて鄭を囲む。時に蘭、晋の文公に事ふること甚だ謹み、之を愛幸す。乃ち私かに晋に於てし、以て鄭に入りて太子と為らんことを求む。晋是に於て叔詹を得て僇と為さんと欲す。鄭の文公恐れ、敢へて叔詹に謂ひて言はず。詹聞き、鄭君に言ひて曰く、「臣君に謂ふも、君臣に聴かず、晋卒に患ひと為る。然れども晋の鄭を囲む所以は、詹を以てなり。詹死して鄭国を赦さば、詹の願ひなり」と。乃ち自殺す。鄭人、詹の尸を以て晋に与ふ。晋の文公曰く、「必ず一たび鄭君を見て、之を辱めて去らんと欲す」と。鄭人之を患ひ、乃ち人をして私かに秦に言はしめて曰く、「鄭を破りて晋を益すは、秦の利に非ざるなり」と。秦の兵罷む。
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史記 晋世家恵公の七年、重耳を畏れ、乃ち宦者履鞮をして壮士と重耳を殺さんと欲せしむ。重耳之を聞き、乃ち趙衰等に謀りて曰く、「始め吾狄に奔るは、以て用ふべしと為すに非ず。近くして以て通じ易きを以て、故に且く足を休む。足を休むること久し。固より大国に徙らんことを願ふ。夫れ斉の桓公は善を好み、志は覇王に在り、諸侯を収恤す。今聞く、管仲・隰朋死すと。此れ亦た賢佐を得んと欲す。盍ぞ往かざる」と。是に於て遂に行く。重耳其の妻に謂ひて曰く、「我を待つこと二十五年にして来たらずんば、乃ち嫁げ」と。其の妻笑ひて曰く、「二十五年に犁(およ)ばば、吾が冢上の柏大ならん。然りと雖も、妾子を待たん」と。重耳狄に居ること凡そ十二年にして去る。衛を過ぐ。衛の文公礼せず。去りて五鹿を過ぐ。饑ゑて野人に従ひて食を乞ふ。野人土を器中に盛りて之を進む。重耳怒る。趙衰曰く、「土は、土を有つなり。君其れ拝して之を受けよ」と。斉に至る。斉の桓公厚く礼し、而して宗女を以て之に妻し、馬二十乗有り。重耳之に安んず。重耳斉に至りて二歳にして桓公卒す。会々豎刀等内乱を為し、斉の孝公の立つや、諸侯の兵数々至る。斉に留まること凡そ五歳。重耳斉の女を愛し、去る心毋し。趙衰・咎犯乃ち桑下に於て行かんことを謀る。斉の女の侍者桑上に在りて之を聞き、以て其の主に告ぐ。其の主乃ち侍者を殺し、重耳に趣やかに行かんことを勧む。重耳曰く、「人生安楽なり。孰か其の他を知らん。必ず此に死せん。去ること能はず」と。斉の女曰く、「子は一国の公子なり。窮して此に来たる。数士は子を以て命と為す。子疾く国に反りて、労臣に報いずして、女の徳を懐ふ。窃かに子の為に之を羞づ。且つ求めずんば、何れの時にか功を得ん」と。乃ち趙衰等と謀り、重耳を酔はしめ、載せて以て行く。行くこと遠くして覚む。重耳大いに怒り、戈を引きて咎犯を殺さんと欲す。咎犯曰く、「臣を殺して子を成すは、偃の願ひなり」と。重耳曰く、「事成らずんば、我舅氏の肉を食らはん」と。咎犯曰く、「事成らずんば、犯の肉は腥臊なり。何ぞ食らふに足らん」と。
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史記 晋世家楚に居ること数月、而して晋の太子圉秦より亡ぐ。秦之を怨む。重耳の楚に在るを聞き、乃ち之を召す。成王曰く、「楚は遠く、数国を更て乃ち晋に至る。秦・晋は境を接し、秦君は賢なり。子其れ勉めて行け」と。厚く重耳を送る。重耳秦に至る。繆公宗女五人を以て重耳に妻す。故の子圉の妻も与に往く。重耳受くるを欲せず。司空季子曰く、「其の国すら且に伐たんとす。況んや其の故の妻をや。且つ受けて以て秦の親を結びて入らんことを求む。子乃ち小礼に拘はりて、大醜を忘れんか」と。遂に受く。繆公大いに歓び、重耳と飲む。趙衰黍苗の詩を歌ふ。繆公曰く、「子の急ぎ国に反らんと欲するを知る」と。趙衰重耳と下り、再拝して曰く、「孤臣の君を仰ぐは、百穀の時雨を望むが如し」と。是の時晋の恵公の十四年の秋なり。恵公九月を以て卒し、子圉立つ。十一月、恵公を葬る。十二月、晋国の大夫欒・郤等重耳の秦に在るを聞き、皆陰かに来たりて重耳・趙衰等に国に反らんことを勧む。内応を為す者甚だ衆し。是に於て秦の繆公乃ち兵を発して重耳と晋に帰る。晋秦の兵の来たるを聞き、亦た兵を発して之を拒む。然れども皆陰かに公子重耳の入るを知る。唯だ恵公の故の貴臣呂・郤の属のみ重耳を立つるを欲せず。重耳出亡すること凡そ十九歳にして入るを得たり。時に年六十二なり。晋人多く焉に附く。文公の元年春、秦重耳を送りて河に至る。咎犯曰く、「臣君に従ひて天下を周旋し、過ちも亦た多し。臣すら猶ほ之を知る。況んや君に於てをや。請ふ此より去らん」と。重耳曰く、「若し国に反りて、子犯と共にせざる所の者は、河伯之を視よ」と。乃ち璧を河中に投じ、以て子犯と盟ふ。是の時介子推従ひて、船中に在り。乃ち笑ひて曰く、「天実に公子を開く。而して子犯以て己の功と為して君に要市す。固より羞づるに足る。吾同位するに忍びず」と。乃ち自ら隠れて河を渡る。秦の兵令狐を囲み、晋廬柳に軍す。
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『韓非子』十過第十奚をか国小にして礼無しと謂ふ。昔者晋の公子重耳出亡し、曹に過る、曹君袒裼して之を観る。釐負羈と叔瞻と前に侍す。叔瞻曹君に謂ひて曰く、「臣晋の公子を観るに、常人に非ざるなり。君之を遇するに礼無し、彼若し時有りて国に反りて兵を起こさば、即ち恐らくは曹の傷と為らん。君之を殺すに如かず」と。曹君聴かず。釐負羈帰りて楽しまず、其の妻之に問ひて曰く、「公外より来りて楽しまざるの色有るは、何ぞや」と。負羈曰く、「吾之を聞く、福有るも及ばず、禍来れば我に連なると。今日吾が君晋の公子を召し、其の之を遇すること礼無し。我与に前に在り、吾是を以て楽しまず」と。其の妻曰く、「吾晋の公子を観るに、万乗の主なり。其の左右の従者は、万乗の相なり。今窮して出亡し曹に過る、曹之を遇すること礼無し。此れ若し国に反らば、必ず無礼を誅せん、則ち曹は其の首なり。子奚ぞ先づ自ら貳せざる」と。負羈曰く、「諾」と。黄金を壺に盛り、之に充たすに餐を以てし、璧を其の上に加へ、夜人をして公子に遺らしむ。公子使者を見て、再拝し、其の餐を受けて其の璧を辞す。公子曹より楚に入り、楚より秦に入る。秦に入りて三年、秦の穆公群臣を召して謀りて曰く、「昔者晋の献公寡人と交はる、諸侯聞かざるは莫し。献公不幸にして群臣を離れ、出入すること十年なり。嗣子善からず、吾恐らくは此れ将に其の宗廟をして祓除せられず社稷をして血食せられざらしめんとす。是くの如くにして定めずんば、則ち人と交はるの道に非ず。吾重耳を輔けて之を晋に入れんと欲す、何如」と。群臣皆曰く、「善し」と。公因りて卒を起こし、革車五百乗、疇騎二千、歩卒五万、重耳を輔けて之を晋に入れ、立てて晋君と為す。重耳即位して三年、兵を挙げて曹を伐つ。因りて人をして曹君に告げしめて曰く、「叔瞻を懸けて之を出だせ、我且に殺して以て大戮と為さんとす」と。
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史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
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呂氏春秋・上德③晉の獻公、麗姬の為に太子を遠ざく。太子申生は曲沃に居り、公子重耳は蒲に居り、公子夷吾は屈に居る。麗姬、太子に謂いて曰く、「往昔、君夢に姜氏を見たり。」太子祠りて公に膳す。麗姬之を易う。公將に膳を嘗めんとす。姬曰く、「由る所遠し。請う人をして之を嘗めしめよ。」人に嘗めしむれば人死し、狗に食わしむれば狗死す。故に太子を誅す。太子肯て自ら釋かず。曰く、「君、麗姬に非ずんば、居安からず、食甘からず。」遂に劍を以て死す。公子夷吾、屈自り梁に奔る。公子重耳、蒲自り翟に奔る。翟を去り衛を過ぐ。衛の文公、禮無し。五鹿を過ぎ齊に如く。齊の桓公死し、齊を去り曹に之く。曹の共公、其の駢脅を視んとし、袒して池魚を捕えしむ。曹を去り宋を過ぐ。宋の襄公、禮を加う。鄭に之く。鄭の文公、敬せず、被瞻諫めて曰く、「臣聞く、賢主は窮に窮せず、と。今、晉の公子の從者は、皆賢者なり。君禮せざるや、之を殺すに如かず。」鄭君聽かず。鄭を去り荊に之く。荊の成王、焉を慢る。荊を去り秦に之く。秦の繆公之を入る。晉既に定まれり、師を興して鄭を攻め、被瞻を求む。被瞻、鄭君に謂いて曰く、「臣を以て之に與うるに若かず。」鄭君曰く、「此れ孤の過ちなり。」被瞻曰く、「臣を殺して以て國を免れしめよ。臣之を願う。」被瞻、晉軍に入る。文公將に之を烹んとす。被瞻、鑊に據りて呼びて曰く、「三軍の士、皆瞻に聽け。今自り以來、其の君に忠有るもの無し。其の君に忠なる者は將に烹られんとす。」文公謝し、師を罷めて、之を鄭に歸す。且に被瞻、其の君に忠にして、君は晉の患いを免れたるなり。義を鄭に行い、文公に説ばれたるなり。故に義の利為ること博し。
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