春秋左氏伝 / 昭公六年 加籩を辞す
夏。季孫宿如晉。拜莒田也。晉侯享之有加籩。武子退。使行人告曰。小國之事大國也。苟免於討。不敢求貺。得貺不過三獻。今豆有加。下臣弗堪。無乃戾也。韓宣子曰。寡君以為驩也。對曰。寡君猶未敢。況下臣。君之隸也。敢聞加貺。固請徹加。而後卒事。晉人以為知禮。重其好貨。宋寺人柳有寵。大子佐惡之。華合比曰。我殺之。柳聞之。乃坎用牲埋書。而告公曰。合比將納亡人之族。既盟于北郭矣。公使視之。有焉。遂逐華合比。合比奔衛。於是華亥欲代右師。乃與寺人柳比。從為之徵曰。聞之久矣。公使代之。見於左師。左師曰。女夫也必亡。女喪而宗室。於人何有。人亦於女何有。詩曰。宗子維城。毋俾城壞。毋獨斯畏。女其畏哉。
新字:夏。季孫宿如晋。拝莒田也。晋侯享之有加籩。武子退。使行人告曰。小国之事大国也。苟免於討。不敢求貺。得貺不過三献。今豆有加。下臣弗堪。無乃戻也。韓宣子曰。寡君以為驩也。対曰。寡君猶未敢。況下臣。君之隸也。敢聞加貺。固請徹加。而後卒事。晋人以為知礼。重其好貨。宋寺人柳有寵。大子佐悪之。華合比曰。我殺之。柳聞之。乃坎用牲埋書。而告公曰。合比将納亡人之族。既盟于北郭矣。公使視之。有焉。遂逐華合比。合比奔衛。於是華亥欲代右師。乃与寺人柳比。従為之徴曰。聞之久矣。公使代之。見於左師。左師曰。女夫也必亡。女喪而宗室。於人何有。人亦於女何有。詩曰。宗子維城。毋俾城壊。毋独斯畏。女其畏哉。
書き下し
夏、季孫宿晉に如く。莒の田を拜するなり。晉侯之を享して加籩有り。武子退き、行人をして告げしめて曰く、「小國の大國に事ふるや、苟も討たるるを免るれば、敢へて貺(たまもの)を求めず。貺を得るも三獻に過ぎず。今豆に加有り、下臣堪へず。乃ち戾(つみ)無からんや」と。韓宣子曰く、「寡君以て驩と為すなり」と。對へて曰く、「寡君すら猶ほ未だ敢へてせず、況んや下臣をや。君の隸なり、敢へて加貺を聞かんや」と。固く加を徹せんことを請ひて、而る後に事を卒ふ。晉人以て禮を知ると為し、其の好貨を重くす。宋の寺人柳寵有り。大子佐之を惡む。華合比曰く、「我之を殺さん」と。柳之を聞き、乃ち坎して牲を用ゐ書を埋めて、公に告げて曰く、「合比將に亡人の族を納れんとし、既に北郭に盟へり」と。公之を視しむるに、有り。遂に華合比を逐ふ。合比衛に奔る。是に於いて華亥右師に代はらんと欲し、乃ち寺人柳と比(した)しむ。從ひて之が徵を為して曰く、「之を聞くこと久し」と。公之に代はらしむ。左師に見ゆ。左師曰く、「女夫(なんぢ)や必ず亡びん。女而(なんぢ)の宗室を喪ふ、人に於いて何か有らん。人も亦た女に於いて何か有らん。詩に曰く、『宗子は維れ城、城をして壞らしむること毋かれ、獨りにして斯れ畏るること毋かれ』と。女其れ畏れよや」と。
現代語訳
夏、季孫宿(季武子)が晋へ行った。莒の土地(牟夷が持ってきた地)の件で晋が不問にしてくれたことに礼を述べるためである。晋侯は季孫を饗応し、そのとき規定より多い料理(加籩)を出した。季武子は退出すると、通訳の役人を通じて告げさせた。「小国が大国に仕えるにあたっては、討伐を免れさえすれば、それ以上の賜り物を求めたりはいたしません。賜り物を受けるとしても三献の礼を超えることはありません。いま料理の器が規定より多く、下臣の私には身に余ります。罪になるのではないでしょうか」。韓宣子は言った。「わが君は喜びの気持ちを表そうとしたのです」。季武子は答えた。「わが君でさえ、まだこのようなもてなしを受けたことはありません。まして下臣の私などなおさらです。私はわが君の下僕にすぎません。どうして加えられた賜り物をお受けできましょう」。そして加えられた料理を下げてくれるよう強く願い、そのうえで宴の礼を終えた。晋の人々は季孫が礼を知っていると考え、贈り物を手厚くした。宋の寺人(宦官)柳は宋公に寵愛されていた。太子佐は柳を憎んでいた。華合比が「私がやつを殺しましょう」と言った。柳はそれを聞くと、穴を掘って犠牲の獣を埋め、盟約の文書を埋めておいて、宋公に告げた。「華合比は亡命者の一族(華臣の一族)を国内に引き入れようとして、すでに北の郭で盟約を結んでおります」。公が人を遣わして見させると、確かに盟約の跡があった。そこで華合比を追放し、合比は衛に逃れた。すると(合比の弟の)華亥が兄に代わって右師になろうとして、寺人柳と親しくなった。そして柳に口裏を合わせて証言した。「そのことはずっと前から聞いておりました」。公は華亥を右師に任じた。華亥が左師(向戌)に挨拶に行くと、左師は言った。「おまえは必ず滅びるぞ。おまえは自分の一族を失わせたのだ。他人に対してなど何の情があろう。他人もまたおまえに何の情を持とう。詩に『一族の長は城である。城を壊してはならない。孤立して恐れることになってはならない』とある。おまえこそ恐れるがよい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公十五年 其の翼を翦る十五年春、將に武公に禘せんとし、百官を戒む。梓慎曰く、「禘の日、其れ咎有らんか。吾赤墨の祲を見る。祭の祥に非ず、喪の氛なり。其れ事に蒞む者に在らんか」と。二月癸酉、禘す。叔弓事に蒞む。籥入りて卒す。樂を去りて事を卒ふ。禮なり。楚の費無極朝吳の蔡に在るを害とし、之を去らんと欲す。乃ち之に謂ひて曰く、「王唯だ子を信ず。故に子を蔡に處らしむ。子も亦た長ぜり、而るに下位に在るは、辱なり。必ず之を求めよ。吾子を助けて請はん」と。又其の上の人に謂ひて曰く、「王唯だ吳を信ず、故に諸を蔡に處らしむ。二三子之に如く莫し。而るに其の上に在るは、亦た難からずや。圖らずんば、必ず難に及ばん」と。夏、蔡人朝吳を逐ふ。朝吳出でて鄭に奔る。王怒りて曰く、「余唯だ吳を信ず、故に諸を蔡に寘く。且つ吳微かりせば、吾此に及ばず。女何の故に之を去る」と。無極對へて曰く、「臣豈に吳を欲せざらんや。然れども前に其の人と為りの異なるを知る。吳蔡に在らば、蔡必ず速やかに飛ばん。吳を去るは、其の翼を翦る所以なり」と。六月乙丑、王の大子壽卒す。秋八月戊寅、王の穆后崩ず。
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『春秋左氏伝』哀公十七年 誰か牛耳を執る十二月、齊人、衛を伐つ。衛人、平を請ふ。公子起を立て、般師を執へて以て歸り、諸を潞に舍く。公、齊侯に會して蒙に盟ふ。孟武伯相たり。齊侯稽首す。公拜す。齊人怒る。武伯曰く、「天子に非ずんば、寡君、稽首する所無し」と。武伯、高柴に問ひて曰く、「諸侯盟ふに、誰か牛耳を執る」と。季羔曰く、「鄫衍の役には、吳の公子姑曹。發陽の役には、衛の石魋」と。武伯曰く、「然らば則ち彘なり」と。宋の皇瑗の子麇、友有り、田丙と曰ふ。而して其の兄劖般の邑を奪ひて以て之に與ふ。劖般慍りて行き、桓司馬の臣子儀克に告ぐ。子儀克、宋に適き、夫人に告げて曰く、「麇、將に桓氏を納れんとす」と。公、諸を子仲に問ふ。初め、子仲、將に杞姒の子非我を以て子と為さんとす。麇曰く、「必ず伯を立てよ。是れ良材なり」と。子仲怒りて從はず。故に對へて曰く、「右師は則ち老いたり。麇を識らざるなり」と。公、之を執ふ。皇瑗、晉に奔る。之を召す。
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史記 魯仲連鄒陽列伝鄒陽は、斉人なり。梁に游び、故の呉人荘忌夫子・淮陰の枚生の徒と交はる。書を上りて羊勝・公孫詭の間に介す。勝等鄒陽を嫉み、之を梁の孝王に悪す。孝王怒り、之を吏に下し、将に之を殺さんと欲す。鄒陽客游して、讒を以て禽へらる。死して負累せんことを恐れ、乃ち獄中より書を上りて曰く、臣聞く、忠は報いられざる無く、信は疑はれずと。臣常に以て然りと為せしも、徒だ虚語のみ。昔者、荊軻は燕丹の義を慕ひ、白虹日を貫くも、太子之を畏る。衛先生は秦の為に長平の事を画し、太白昴を蝕すも、昭王之を疑ふ。夫れ精は天地を変ずるも、信は両主に喩らず。豈に哀しからずや。今、臣忠を尽くし誠を竭くし、議を畢くして知られんことを願ふも、左右明らかならず、卒に吏の訊に従ひ、世の疑ふ所と為る。是れ荊軻・衛先生をして復た起たしむるも、燕・秦悟らざるなり。願はくは大王孰く之を察せよ。昔、卞和宝を献じて、楚王之を刖る。李斯忠を竭くして、胡亥極刑にす。是を以て箕子は詳り狂ひ、接輿は世を辟く。此の患に遭はんことを恐るればなり。願はくは大王、卞和・李斯の意を孰察して、楚王・胡亥の聴を後にし、臣をして箕子・接輿の笑ふ所と為らしむる無かれ。臣聞く、比干は心を剖かれ、子胥は鴟夷せらると。臣始め信ぜざりしも、乃ち今之を知る。願はくは大王孰察して、少しく憐れみを加へよ。諺に曰く、「白頭にして新たなるが如き有り、傾蓋にして故きが如し」と。何となれば、知ると知らざるとなり。故に昔、樊於期は秦を逃れて燕に之き、首を荊軻に藉して以て丹の事を奉ず。王奢は斉を去りて魏に之き、城に臨みて自剄し、以て斉を卻けて魏を存す。夫れ王奢・樊於期は、斉・秦に新たにして燕・魏に故きに非ざるなり。二国を去りて両君に死する所以の者は、行ひ志に合ひて義を慕ふこと窮まり無ければなり。是を以て蘇秦は天下に信ぜられざるも、燕の為に尾生たり。白圭は戦ひて六城を亡ふも、魏の為に中山を取る。何となれば、誠に以て相知る有ればなり。
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史記 樗里子甘茂列伝秦の武王の三年、甘茂に謂ひて曰く、「寡人、車を容れて三川に通じ、以て周室を窺はんと欲す、而して寡人死すとも朽ちざらん」と。甘茂曰く、「請ふ魏に之き、約して以て韓を伐たん、而して向寿をして輔け行かしめよ」と。甘茂至り、向寿に謂ひて曰く、「子帰りて、これを王に言ひて曰へ、『魏は臣に聴けり、然れども願はくは王伐つこと勿かれ』と。事成らば、尽く以て子の功と為さん」と。向寿帰りて、以て王に告ぐ。王、甘茂を息壌に迎ふ。甘茂至る、王その故を問ふ。対へて曰く、「宜陽は大県なり、上党・南陽これを積むこと久し。名づけて県と曰ふも、その実は郡なり。今、王、数険に倍き、千里を行きてこれを攻むるは難し。昔、曾参の費に処るや、魯人に曾参と姓名を同じくする者有りて人を殺す。人その母に告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、織ること自若たり。頃之くして、一人また告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母尚ほ織ること自若たり。頃くしてまた一人告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、杼を投じ機を下り、墻を踰えて走る。夫れ曾参の賢とその母のこれを信ずるとを以てするも、三人これを疑へば、その母懼る。今、臣の賢は曾参に若かず、王の臣を信ずることもまた曾参の母の曾参を信ずるに如かず、臣を疑ふ者は特に三人のみに非ず。臣は大王の杼を投ぜんことを恐る。始め張儀、西のかた巴蜀の地を并せ、北のかた西河の外を開き、南のかた上庸を取る。天下は張子を多とせずして先王を賢とす。魏の文侯、楽羊をして将として中山を攻めしむ、三年にしてこれを抜く。楽羊返りて功を論ず、文侯これに謗書一篋を示す。楽羊再拝稽首して曰く、『此れ臣の功に非ざるなり、主君の力なり』と。今、臣は羈旅の臣なり。樗里子・公孫奭の二人の者、韓を挟みてこれを議せば、王必ずこれを聴かん。是れ王は魏王を欺きて、臣は公仲侈の怨みを受くるなり」と。王曰く、「寡人は聴かざるなり、請ふ子と盟はん」と。卒に丞相甘茂をして兵を将ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして抜けず、樗里子・公孫奭果たしてこれを争ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、「息壌は彼に在り」と。王曰く、「これ有り」と。因りて大いに悉く兵を起こし、
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戦国策・蘇秦自齊獻書於燕王蘇秦、斉自り書を燕王に献じて曰く、「臣の行くや、固より将に口事有らんとするを知る、故に御書を献じて行けり、曰く、『臣斉に貴くば、燕の大夫将に臣を信ぜざらんとす。臣賤しくば、将に臣を軽んぜんとす。臣用いられば、将に多く臣に望まんとす。斉不善有らば、将に罪を臣に帰せんとす。天下斉を攻めずんば、将に善く斉の為に謀ると曰わんとす。天下斉を攻めば、将に斉と兼ねて臣を鄮せんとす。臣の重んずる所は重卯に処る』と。王臣に謂いて曰く、『吾必ず衆口と讒言とを聴かず、吾女を信ずること、猶お𠛄を剗るがごとし。上は以て斉に用いらるるを得べく、次は以て下に信ぜらるるを得べし、苟くも死無くんば、女為さざる無かれ、女を以て自ら信とすべし』と。之と言いて曰く、『燕を去りて斉に之くは可なり、事を成すに期するのみ』と。臣令を受けて以て斉に任ぜられ、五年に及べり。斉数々兵を出だすも、未だ嘗て燕を謀らず。斉・趙の交わり、一たびは合し一たびは離る。燕王斉と与に趙を謀らずんば、則ち趙と与に斉を謀る。斉の燕を信ずるや、北地を虚しくして其の兵を行るに至れり。今王田伐と参・去疾との言を信じ、且に斉を攻めんとし、斉をして犬馬𩤊がしめて燕を言わざらしむ。今王又慶をして臣に令せしめて曰く、『吾善しとする所を用いんと欲す』と。王苟くも之を用いんと欲せば、則ち臣請う王が為に之に事えん。王臣を醳きて剸ら善しとする所に任ぜんと欲せば、則ち臣請う事を帰し醳かん。臣苟くも見ゆるを得ば、則ち願いに盈てり」と。
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『春秋左氏伝』宣公四年 食指動く四年春、公齊侯と莒及び郯を平らげんとす。莒人肯ぜず。公莒を伐ちて向を取る、禮に非ざるなり。國を平らぐるには禮を以ってし、亂を以ってせず。伐ちて治めざるは、亂なり。亂を以って亂を平らぐ、何の治か之れ有らん。治無くんば、何を以って禮を行はん。楚人黿(げん)を鄭の靈公に獻ず。公子宋と子家と將に見えんとす。子公の食指動く。以って子家に示して曰く、「他日我此くの如くなれば、必ず異味を嘗む」と。入るに及びて、宰夫將に黿を解かんとす。相視て笑ふ。公之を問ふ。子家以って告ぐ。大夫に黿を食はしむるに及び、子公を召して與へざるなり。子公怒り、指を鼎に染め、之を嘗めて出づ。公怒り、子公を殺さんと欲す。子公子家と先んぜんことを謀る。子家曰く、「畜の老いたるすら猶ほ之を殺すを憚る、而るを況んや君をや」と。反りて子家を譖す。子家懼れて之に從ふ。
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