春秋左氏伝 / 昭公四年 驕りて諫めを拒む
王使椒舉侍於後以規過。卒事不規。王問其故。對曰。禮吾未見者有六焉。又何以規。宋大子佐後至。王田於武城。久而弗見。椒舉請辭焉。王使往曰。屬有宗祧之事於武城。寡君將墮幣焉。敢謝後見。徐子吳出也。以為貳焉。故執諸申。楚子示諸侯侈。椒舉曰。夫六王二公之事。皆所以示諸侯。禮也。諸侯所由用命也。夏桀為仍之會。有緡叛之。商紂為黎之蒐。東夷叛之。周幽為大室之盟。戎狄叛之。皆所以示諸侯。汏也。諸侯所由棄命也。今君以汏。無乃不濟乎。王弗聽。子產見左師曰。吾不患楚矣。汏而愎諫。不過十年。左師曰。然。不十年侈。其惡不遠。遠惡而後棄。善亦如之。德遠而後興。
新字:王使椒舉侍於後以規過。卒事不規。王問其故。対曰。礼吾未見者有六焉。又何以規。宋大子佐後至。王田於武城。久而弗見。椒舉請辞焉。王使往曰。属有宗祧之事於武城。寡君将堕幣焉。敢謝後見。徐子呉出也。以為貳焉。故執諸申。楚子示諸侯侈。椒舉曰。夫六王二公之事。皆所以示諸侯。礼也。諸侯所由用命也。夏桀為仍之会。有緡叛之。商紂為黎之蒐。東夷叛之。周幽為大室之盟。戎狄叛之。皆所以示諸侯。汏也。諸侯所由棄命也。今君以汏。無乃不済乎。王弗聴。子産見左師曰。吾不患楚矣。汏而愎諫。不過十年。左師曰。然。不十年侈。其悪不遠。遠悪而後棄。善亦如之。徳遠而後興。
書き下し
王、椒舉をして後に侍して以て過ちを規さしむ。事を卒ふるまで規さず。王其の故を問ふ。對へて曰く、「禮、吾が未だ見ざる者六つ有り。又何を以てか規さん」と。宋の大子佐後れて至る。王武城に田して、久しくして見ず。椒舉辭せんことを請ふ。王往かしめて曰く、「屬(たまたま)宗祧の事武城に有り。寡君將に幣を墮(おく)らんとす。敢へて見ゆるを後らすを謝す」と。徐子は吳の出なり。以て貳と為す。故に諸を申に執ふ。楚子諸侯に侈りを示す。椒舉曰く、「夫れ六王二公の事は、皆諸侯に示す所以にして、禮なり。諸侯の由りて命を用ふる所なり。夏桀仍の會を為して、有緡之に叛く。商紂黎の蒐を為して、東夷之に叛く。周幽大室の盟を為して、戎狄之に叛く。皆諸侯に示す所以にして、汏(おご)りなり。諸侯の由りて命を棄つる所なり。今君汏りを以てす。乃ち濟らざること無からんや」と。王聽かず。子產左師に見えて曰く、「吾楚を患へず。汏りて諫に愎(もと)る、十年に過ぎず」と。左師曰く、「然り。十年ならずんば侈るも、其の惡遠からず。惡遠くして而る後に棄てらる。善も亦た之の如し。德遠くして而る後に興る」と。
現代語訳
楚の霊王は椒挙(しょうきょ、伍挙)を後ろに控えさせ、自分の過ちを正させようとした。ところが会が終わるまで椒挙は一つも正さなかった。王がそのわけを問うと、椒挙は答えた。「礼のうち、私がこれまで見たことのないものが六つもありました。どうして正すことができましょう」。宋の太子佐が遅れて到着した。王は武城で狩りをしていて、長いあいだ会おうとしなかった。椒挙は宋の太子に詫びを入れるよう願い出た。王は使いを遣って言わせた。「ちょうど武城で宗廟の祭りがあり、わが君は幣を供えようとしていたところでした。お目にかかるのが遅れたことをお詫びいたします」。徐子(徐の君)は呉の女の生んだ子であった。そこで楚は徐に二心があるとみなし、申の地で徐子を捕らえた。楚子(霊王)は諸侯に対して驕り高ぶった振る舞いを見せつけた。椒挙が言った。「かの六王二公(夏の啓、殷の湯、周の武王・成王・康王・穆王と、斉の桓公・晋の文公)の事績は、みな諸侯に示すためのものであり、それは礼でした。だからこそ諸侯はその命に従ったのです。夏の桀は仍の地で会を開きましたが、有緡が背きました。殷の紂は黎の地で大狩りを行いましたが、東夷が背きました。周の幽王は大室で盟を結びましたが、戎狄が背きました。これらもみな諸侯に示すためのものでしたが、驕りでした。だからこそ諸侯は命を棄てたのです。いま君は驕りをもって諸侯に臨んでおられる。うまくいかないのではありませんか」。王は聞き入れなかった。鄭の子産は宋の左師(向戌)に会って言った。「私はもう楚を心配しない。驕って諫めに逆らっている。十年ももたないだろう」。左師は言った。「そのとおりだ。ただ、十年も驕り続けなければ、その悪は遠くまで及ばない。悪が遠くまで及んではじめて、人に棄てられるのだ。善もまた同じで、徳が遠くまで及んではじめて興るのである」。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』難一第三十六今襄子驕侮の臣を誅せずして、功無きの赫を賞す、安くにか襄子の善く賞するに在らん。故に曰く、仲尼は善く賞することを知らず、と。晋の平公羣臣と飲む、飲酣にして、乃ち喟然として歎じて曰く、「人君為るより楽しきは莫し、惟だ其の言ひて之に違ふ莫し」と。師曠前に侍坐す、琴を援きて之に撞く。公衽を披きて避く、琴壁に壊る。公曰く、「太師誰にか撞く」と。師曠曰く、「今者小人の側に言ふ者有り、故に之に撞く」と。公曰く、「寡人なり」と。師曠曰く、「啞。是れ君人たる者の言に非ざるなり」と。左右之を除かんことを請ふ、公曰く、「之を釈せ、以て寡人の戒と為さん」と。或ひと曰く、平公は君道を失ひ、師曠は臣礼を失ふ。夫れ其の行を非として其の身を誅するは、君の臣に於けるなり。其の行を非とすれば則ち其の言を陳べ、善く諫めて聴かれざれば則ち其の身を遠ざくるは、臣の君に於けるなり。今師曠平公の行を非とし、人臣の諫を陳べずして、人主の誅を行ふ、琴を挙げて其の体に親しむ、是れ上下の位に逆らひて、人臣の礼を失ふなり。夫れ人臣為る者は、君過有れば則ち諫め、諫めて聴かれざれば則ち爵禄を軽んじて以て之を待つ、此れ人臣の礼なり。今師曠平公の過を非とし、琴を挙げて其の体に親しむ、厳父と雖も子に加へず、而るに師曠之を君に行ふ、此れ大逆の術なり。
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『春秋左氏伝』隠公五年 公、魚を棠に観る五年春、公將に棠に如きて魚する者を觀んとす。臧僖伯諫めて曰く、「凡そ物の以って大事を講ずるに足らず、其の材の以って器用に備ふるに足らざれば、則ち君舉げず。君は、將に民を軌・物に納れんとする者なり。故に事を講じて以って軌量を度る、之を『軌』と謂ふ。材を取りて以って物采を章らかにする、之を『物』と謂ふ。軌ならず物ならざる、之を亂政と謂ふ。亂政亟々行はるるは、敗るる所以なり。故に春蒐・夏苗・秋獮・冬狩、皆農隙に於いて以って事を講ずるなり。三年にして兵を治め、入りて旅を振ひ、歸りて飲至し、以って軍實を數ふ。文章を昭らかにし、貴賤を明らかにし、等列を辨じ、少長を順にし、威儀を習ふなり。鳥獸の肉俎に登らず、皮革齒牙・骨角毛羽器に登らざれば、則ち公射ず、古の制なり。夫の山林川澤の實、器用の資、皁隸の事、官司の守の若きは、君の及ぶ所に非ざるなり」と。公曰く、「吾將に地を略せんとす」と。遂に往き、魚を陳ねて之を觀る。僖伯疾と稱して從はず。書して「公魚を棠に矢ぬ」と曰ふは、禮に非ざればなり、且つ地の遠きを言ふなり。曲沃の莊伯鄭人・邢人を以って翼を伐つ。王尹氏・武氏をして之を助けしむ。翼侯隨に奔る。夏、衛の桓公を葬る。衛亂る、是を以って緩し。
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