春秋左氏伝 / 昭公二年 子産、公孫黒を裁く
秋,鄭公孫黑將作亂,欲去游氏而代其位,傷疾作而不果;駟氏與諸大夫欲殺之。子產在鄙,聞之,懼弗及,乘遽而至,使吏數之,曰:「伯有之亂,以大國之事,而未爾討也。爾有亂心無厭,國不女堪,專伐伯有,而罪一也;昆弟爭室,而罪二也;薰隧之盟,女矯君位,而罪三也。有死罪三,何以堪之,不速死,大刑將至。」再拜稽首辭曰:「死在朝夕,無助天為虐。」子產曰:「人誰不死?凶人不終,命也。作凶事,為凶人,不助天,其助凶人乎?請以印為褚師。」子產曰:「印也若才,君將任之;不才,將朝夕從女。女罪之不恤,而又何請焉?不速死,司寇將至。」
新字:秋,鄭公孫黒将作乱,欲去游氏而代其位,傷疾作而不果;駟氏与諸大夫欲殺之。子産在鄙,聞之,懼弗及,乗遽而至,使吏数之,曰:「伯有之乱,以大国之事,而未爾討也。爾有乱心無厭,国不女堪,専伐伯有,而罪一也;昆弟争室,而罪二也;薫隧之盟,女矯君位,而罪三也。有死罪三,何以堪之,不速死,大刑将至。」再拝稽首辞曰:「死在朝夕,無助天為虐。」子産曰:「人誰不死?凶人不終,命也。作凶事,為凶人,不助天,其助凶人乎?請以印為褚師。」子産曰:「印也若才,君将任之;不才,将朝夕従女。女罪之不恤,而又何請焉?不速死,司寇将至。」
書き下し
秋、鄭の公孫黑將に亂を作さんとし、游氏を去りて其の位に代はらんと欲す。傷疾作りて果たさず。駟氏と諸大夫と之を殺さんと欲す。子產鄙に在り、之を聞き、及ばざるを懼れ、遽(でんしゃ)に乘りて至る。吏をして之を數(せ)めしめて曰く、「伯有の亂、大國の事を以って、未だ爾を討ぜざるなり。爾亂心有りて厭くこと無し。國女に堪へず。專ら伯有を伐つ、而(なんぢ)の罪一なり。昆弟室を爭ふ、而の罪二なり。薰隧の盟に、女君位を矯む、而の罪三なり。死罪三有り、何を以ってか之に堪へん。速やかに死せずんば、大刑將に至らんとす」と。再拜稽首して辭して曰く、「死は朝夕に在り、天を助けて虐を為すこと無かれ」と。子產曰く、「人誰か死せざらん。凶人の終へざるは、命なり。凶事を作し、凶人と為る。天を助けずして、其れ凶人を助けんや」と。「請ふ印を以って褚師と為さん」と。子產曰く、「印や若し才あらば、君將に之に任ぜん。不才ならば、將に朝夕に女に從はんとす。女罪を之れ恤へずして、又何をか請はん。速やかに死せずんば、司寇將に至らんとす」と。
現代語訳
秋、鄭の公孫黒(子皙)が乱を起こそうとし、游氏を除いてその地位に取って代わろうとした。しかし古傷が悪化して果たせなかった。駟氏(公孫黒の一族)と大夫たちは彼を殺そうとした。子産は地方にいたが、これを聞いて間に合わないことを恐れ、早馬の車に乗って駆けつけた。役人に公孫黒の罪を数え上げさせて言った。「伯有の乱のときは、大国(晋・楚)への対応に追われていたので、まだおまえを罰しなかった。おまえは乱を好む心が飽くことを知らず、国はもうおまえに耐えられない。独断で伯有を攻めたこと、これがおまえの第一の罪である。兄弟で妻を争ったこと(従弟の子南と女を争ったこと)、これが第二の罪である。薫隧の盟約で、おまえは君命と偽って自分の地位を記させた、これが第三の罪である。死罪が三つある。どうして許されようか。速やかに自ら死ななければ、大刑が下るであろう」。公孫黒は再拝稽首して辞退して言った。「私の死は朝か夕かという身です。天を助けて酷いことをなさいますな」。子産は言った。「人は誰でも死ぬ。凶悪な人が天寿を全うしないのは天命である。凶悪なことをして凶悪な人となった。天を助けずに、凶悪な人を助けよというのか」。公孫黒は(せめてもと)言った。「どうか子の印を褚師(市場の役人)にしてください」。子産は言った。「印にもし才能があれば、君が任用なさるだろう。才能がなければ、朝夕のうちにおまえの後を追うことになろう。おまえは自分の罪を憂えもせずに、そのうえ何を願うのか。速やかに死ななければ、司寇(刑罰の役人)がやって来るぞ」。
解説
この章句が説くこと
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史記 衛将軍驃騎列伝其の秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。其の明年春、大将軍青定襄より出づ。合騎侯敖中将軍と為り、太僕賀左将軍と為り、翕侯趙信前将軍と為り、衛尉蘇建右将軍と為り、郎中令李広後将軍と為り、右内史李沮彊弩将軍と為り、咸大将軍に属し、首を斬ること数千級にして還る。月余にして、悉く復た定襄より出でて匈奴を撃ち、首虜を斬ること万余人。右将軍建・前将軍信軍を并すること三千余騎、独り単于の兵に逢ひ、与に戦ふこと一日余、漢の兵且に尽きんとす。前将軍は故の胡人にして、降りて翕侯と為る。急なるを見て、匈奴之を誘ふ。遂に其の余騎八百可りを将ゐて、奔りて単于に降る。右将軍蘇建尽く其の軍を亡ひ、独り身を以て亡げ去るを得て、自ら大将軍に帰る。大将軍其の罪を正閎・長史安・議郎周霸等に問ふ、「建は当に云何すべき」と。霸曰く、「大将軍の出でしより、未だ嘗て裨将を斬らず。今建軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。閎・安曰く、「然らず。兵法に『小敵の堅は、大敵の禽なり』と。今建は数千を以て単于の数万に当たり、力戦すること一日余、士尽くるも、敢へて二心有らず、自ら帰る。自ら帰りて之を斬るは、是れ後に反る意無からしむるを示すなり。当に斬るべからず」と。大将軍曰く、「青幸ひに肺腑を以て罪を行間に待つを得たり。威無きを患へず。而るに霸我に説くに威を明らかにするを以てするは、甚だ臣の意を失ふ。且つ臣の職をして将を斬るに当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢へて自ら擅に誅を境外に専らにせず、而して具に天子に帰し、天子自ら之を裁かば、是に於て以て人臣為りて敢へて権を専らにせざるを見す。亦可ならずや」と。軍吏皆曰く「善し」と。遂に建を囚へて行在所に詣る。塞に入りて兵を罷む。是の歳や、大将軍の姊の子霍去病年十八、幸せられて、天子の侍中と為る。
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史記 東越列伝乃ち便宜を以て兵を案じて大農の軍に告げ、而して使ひをして王の頭を奉じて馳せて天子に報ぜしむ。詔して両将の兵を罷め、曰く、「郢等は首悪なり、独り無諸の孫繇君丑は謀に与らず」と。乃ち郎中将をして丑を立てて越繇王と為し、閩越の先の祭祀を奉ぜしむ。
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